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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第四章 五千星霜が終わる刻
28/60

 ■5■

 夜の森は、墨を流し込んだように暗く、木々の間を抜ける風はひどく冷たかった。先ほどまでの圧倒的な閃光と熱が嘘のように、今は不気味な静寂だけが広がっている。

 ケセナとラルは無言のまま、湿った土を踏みしめて歩いていた。

 フェイカーが文字通り『塵』と化した光景が、ケセナの網膜に焼き付いて離れない。右腕の黄金龍の紋章はすでに熱を失い沈黙しているが、その重みだけがやけに生々しく感じられた。


 ざっ、と。

 前方の茂みが大きく揺れ、ビクリとケセナが身構えた瞬間、暗闇の中から巨大な影が飛び出してきた。


「ケセナ! ラル!」


 切羽詰まった声。片手に大剣を握りしめた、グレンだった。

 息を乱し、血相を変えて飛び出してきた彼は、二人の無事な姿を視界に収めると、ガクンと肩を落として深く息を吐き出した。


「無事か……! 一体何があった? 家の窓が揺れるほどの轟音が響いてきたぞ」


 グレンの鋭い視線がケセナに向けられる。


「えっと……」


 ケセナは口を開きかけたが、言葉に詰まった。

『フェイカーが現れて、俺の右腕が勝手に奴を消し飛ばした』――そんな狂気じみた事実を、どう説明すればいいのか。人を一人、跡形もなく消滅させてしまったという右腕の恐怖がぶり返し、咄嗟に言葉が出てこない。

 戸惑い、視線を泳がせるケセナの横で、ラルがするりと口を開いた。


「フェイカーが来た」

「……フェイカーだと!?」


 グレンの顔色が変わる。

 あの魔術団副団長が、結界のほころびを突いてここまで入り込んできたという事実に、グレンはギリッと奥歯を噛み鳴らした。鋭い視線で周囲の暗闇を睨みつけ、それからケセナの右肩の服が焦げているのを見とがめる。

 けれど、今はこんな視界の悪い森の中で立ち話をする状況ではないと、即座に判断した。


「……話は戻ってからだ。急ぐぞ」


 グレンは短く告げると、二人を庇うように背後に回し、家の方角へと歩き出した。


 三人は早足で暗い森を抜けていく。

 やがて、木々の隙間から、家からこぼれる橙色の灯りが見えてきた。その温かな光が視界に入った瞬間、ケセナはようやく、強張っていた肩の力を少しだけ抜くことができた。

 その光の中に、一つの人影が立っていることに気づく。


「キリエさん……?」


 家の前。冷たい夜風が吹きすさぶ外で、キリエが腕を組んで待っていた。

 長い黒髪が風に揺れている。その整った顔に焦りの色は浮かんでいなかったが、安全な家の中からわざわざ外へ出て彼らの帰りを待っていたという事実だけで、彼女がどれほど案じていたかが痛いほど伝わってきた。

 キリエの牡丹色の瞳が、闇から姿を現した三人――特にケセナの無事な姿を捉え、ほんのわずかに安堵に緩む。


「無事でよかったわ」


 静かで、けれど確かな温度を持った声だった。彼女は短くそれだけを告げると、冷え切った三人を迎え入れるように、背後の木扉を引き開けた。

 古びた木材が軋む。

 家の中から、暖炉の薪が爆ぜる音と温かい空気が流れ出してきた――その、同時だった。


「ケセナ様ぁぁぁぁ!!」


 耳をつんざくような甲高い悲鳴が、夜の静寂を粉砕した。

 開かれた木扉の隙間から、銀髪の小さな身体が、文字通り弾丸のような勢いで躍り出てくる。


「えっ、わっ……!」


 回避する間もなかった。

 決別したはずの剣精、プラークルウの銀髪がケセナの視界をいっぱいに埋め尽くす。

 ドンッ、と勢いよく胸元へ突っ込んできた衝撃でよろめくケセナの顔に、柔らかく、だが妙に涙で粘りつくような感触が張り付いた。

 けれど、どこか懐かしくケセナはその感覚に安堵した。


「ごめんなさい!ごめんなさい!私が、離れたから、黄金龍が蠢いて、ごめんなさい!!」

「プラウ、落ち着いて……!」


 プラークルウの金色の瞳からは、大袈裟なほど大粒の涙が溢れていた。ケセナは窒息しそうになりながら必死に引き剥がし、その小さな身体の震えが、単なる怒りだけではないことを知る。


「私、怖くて、震えてました!」

「なんでプラウが震えてるの」

「毎回毎回置いて行かれるものですから?」


 涙目のまま小首を傾げ、ふふんと鼻を鳴らす。

 ああ、わざとだと確信し、ケセナは呆れたように息を吐いた。


「……疑問符なのなんで」

「いいから、中に入れ。冷えるぞ」


 涙目で抗議するプラークルウにケセナが呆れて溜息をついたところで、背後からグレンが短く促し、三人はようやく温かい家の中へと足を踏み入れた。


 暖炉の薪がパチパチとはぜる音が、静まり返った部屋に響く。

 グレンは椅子にどっかりと腰を下ろすと、腕を組み、鋭い黒瞳でケセナを真っ直ぐに見据えた。


「さぁ、話してくれ。何があった」


 静かな、だが逃げ場のない催促。

 ケセナは右肩の焦げた服の端を無意識に握りしめながら、ゆっくりと口を開いた。


「森の奥で、フェイカーに襲われました。オウセイの結界が壊れた隙を、突かれたんだと思います」


 キリエの表情が微かに険しくなる。


「ラルが槍で斬りかかったんですが、まったく通用しなくて……奴は『魔人の加護』だと言ってました」

「魔人の加護……」


 グレンが低い声で反芻する。


「フェイカーの炎が迫ってきて、逃げ場がなくて……その時、俺の右腕が勝手に熱を持って、頭の中に直接声が響いたんです。『我を使え』って」


 部屋の空気が、一段と重く冷たくなるのを感じた。騒がしかったプラークルウでさえ、息を呑んで静まり返っている。


「それから、右腕からものすごい光が溢れ出して……」


 ケセナは言葉を区切った。

 黄金龍の放った純粋な暴力。魔人の加護ごとフェイカーを一瞬で跡形もなく塵に帰した、あの圧倒的な蹂躙。

 それをそのまま口にすることが、なぜか恐ろしかった。言ってしまえば、自分がいよいよ取り返しのつかない『化け物』になってしまう気がして。この温かい居場所を失ってしまう気がして、無意識に言葉を塞いでしまう。


「……気がついたら、フェイカーは、いなくなってました」


 ケセナは俯き、一番残酷な事実を飲み込んで、そう締めくくった。

 グレンは深く眉を寄せ、疑念の視線をラルへ向けた。


「ラルはどうだ? お前からもそう見えたか?」


 壁際に立っていたラルは、淡々と答える。


「光で何も見えなかった。光が消えたら、フェイカーもいなかった」


 嘘ではない。あまりにも強烈な閃光に視界を奪われ、ラルが次に目を開けた時には、あの魔術団長の姿はどこにもなかったのだ。

 グレンは目を閉じ、深く考え込んだ。


(あのフェイカーが、ただ光に目が眩んだ程度で撤退するか? いや、あり得ない。執念深いあの男なら、確実にケセナの首を狙ってくるはずだ)


 だとしたら、理由は。


(黄金龍の力の片鱗。その圧倒的な気配に恐れをなして逃げ帰ったか。あるいは……)


 グレンの脳裏に、最悪の可能性がよぎる。ケセナが黄金龍の力に魅入られ、意識を乗っ取られかけているのではないかという危惧だ。

 重い沈黙が続く中。


「でも」


 ラルが、静かに言葉を続けてきた。

 全員の視線が、紫の瞳を持つ少女に集まる。

 ラルはケセナを真っ直ぐに見つめ、はっきりと告げた。


「ケセナ、右腕の黄金龍に、『黙れ』って言った」


 その言葉が落ちた瞬間。

 部屋の空気が、ピタリと止まった。

 グレンも、キリエも。そしてケセナの胸元にしがみついていたプラークルウも、一斉に目を丸くしてケセナを見た。


「……は?」


 最初に間の抜けた声を漏らしたのは、プラークルウだった。


「黙れ、って……ケセナ様、あの『凶器』にですか? オウセイ様ですら抗えなかった、あのアホ龍に、喧嘩売ったんですか!?」

「いや、喧嘩売ったわけじゃなくて……」


 ケセナが慌てて否定しようとした、その時だった。


「――っ、く、ハハハハハハ!」


 不意に、グレンが腹の底から吹き出すように笑い始めた。

 最初は堪えるように肩を震わせていたが、やがて耐えきれなくなったように大声を上げて笑い、バンバンと自分の膝を叩く。


「黄金龍に『黙れ』か! 傑作だな! そりゃあフェイカーも、得体の知れない化け物を見るような目でお前を見て、尻尾を巻いて逃げ出すわけだ!」


 グレンのその言葉に、ケセナは内心で冷や汗をかいた。

 違う。フェイカーは逃げたわけじゃない。俺の右腕が一瞬で、跡形もなく消し飛ばしたんだ。

 だが、その残酷な真実を口にする前に、グレンの大きくて温かい手が、ケセナの頭を乱暴に、けれどひどく優しく撫で回した。


「上出来だ、ケセナ」


 グレンの黒い瞳が、深い慈愛と安堵に細められる。


「力に魅入られず、呑まれなかった。お前は自分自身の心で、あの黄金龍をねじ伏せたんだ。……それだけで十分だ」

「……俺は、ただ……うるさくて、怖かっただけです」


 自分はそんな立派な人間じゃない。買い被りだ。

 そう言いたかったが、グレンの温かい手と、呆れながらも安堵で涙ぐんでいるプラークルウを見ていたら、言葉が喉の奥に引っ込んだ。


「オウセイ様の目に、狂いはなかったようね」


 静かな声が響き、キリエがゆっくりと歩み寄ってきた。

 使い古された椅子の傍らからケセナの正面へと立ち、その牡丹色の瞳で、ケセナを真っ直ぐに射抜く。


「オウセイ様が命を削ってまで、あなたに『選択』を委ねた理由が……今、分かった気がするわ」


 部屋の空気が、再びピンと張り詰めた。

 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。

 キリエは目を伏せ、ほんの少しだけ息を吸い込み――覚悟を決めたように、残酷な最終確認を口にした。


「本当に、記憶の封印を解いていいのね?」


 その問いに、ケセナは思わず目を伏せた。

 脳裏に蘇るのは、フェイカーを一瞬で塵にした、あの規格外の暴力の光。

 記憶を取り戻せば、自分は完全にあの黄金龍と一体化してしまうかもしれない。優しい人々を傷つける『世界の敵』になってしまうかもしれない。

 怖い。足がすくむほどの恐怖が、胸の奥で渦巻いている。


 だが。


『もし俺が壊れたら、助けてくれる?』

『当たり前。壊れなければいい』


 暗い森の中で交わした、ラルとの不器用な約束。

 頭を撫でてくれるグレン。騒がしく泣いてくれるプラウ。

 そして、自分のために五千星霜の命を使い切ってくれた、あの蒼い髪の男。


 ――選択肢なんて、最初からひとつじゃないか。


 ケセナはぎゅっと両拳を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。

 その琥珀色の瞳には、もう逃げ隠れしない、確かな決意の光が宿っていた。


「はい。お願いします」


 迷いのない声だった。

 その返事を聞いたキリエは、ほんの一瞬だけ、ひどく複雑な顔をした。

 安堵と、彼に過酷な運命を背負わせてしまう罪悪感が入り交じったような、泣き出しそうな笑顔。


「……わかったわ」


 キリエはそれだけを言うと、くるりと背を向けた。


「では、明日」


 静かに告げ、彼女は一度も振り返ることなく、自室へと戻っていった。

 パタン、と静かに木扉が閉まる。


 残されたケセナは、自らの右腕に刻まれた沈黙する黄金龍の紋章を、今度は逃げることなく、静かに見つめ返していた。

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