■2■
深い霧の立ちこめる森の境界を越えた瞬間、空気が一変した。
肌を刺すようなフェイカーの殺気は消え去り、代わりに、どこか懐かしく清浄な魔力の気配が一行を包み込む。グレンは深く息を吐き、胸を撫で下ろした。
背負うケセナは、なお高熱に魘されていた。その熱を帯びた吐息が、グレンの背をじりじりと焼く。時折、譫言のように漏れる言葉には、グレンが見せてしまった“記憶の断片”への強い恐怖と拒絶が滲んでおり、グレンは黒い瞳を痛ましげに顰めた。
だが、オウセイが張り巡らせた結界の内へ踏み入った瞬間、ケセナの呼吸は嘘のように変わった。
高熱は変わらない。だが、荒れていた息だけは、明らかにゆるやかになっていく。
結界の中を吹き抜ける風は、すべてを優しく包み、淡く頬を撫でた。
まるでオウセイの『願い』そのもののようなこの空気に、ケセナの魂は無意識のうちに安堵したのだろう。
「……見えてきた。先生! 家!」
ラルの声が静寂を切り裂く。赤みを帯びた金髪が視界の端で弾んだ。
グレンは前方を見据えた。
視線の先、森の奥深くにひっそりと佇む小さな家がある。庭には見覚えのある蒼い髪の男――オウセイが、まるで客人を待っていたかのように椅子へ深く腰掛けていた。その隣には、彼を守護するようにキリエが立っている。
「オウセイ……ッ!」
グレンが声を絞り出し、庭へ足を踏み入れた、その瞬間。
「――動くな」
低く、地を這うような声が、耳元で囁いた。
「何をしにきた?」
オウセイの傍らにいたはずのキリエが、いつの間にか間合いを詰め、グレンの喉元へ剣を突きつけていた。
まるで見えなかった。
彼女がいつ動いたのかさえ分からない。歴戦の騎士であるグレンの額に、冷たい汗が流れる。
「待て、俺だ。グレンだ」
「わかっている。……その子」
牡丹色の瞳は冷え切っていた。
キリエの殺気を孕んだ視線はグレンではなく、その背でぐったりと熱に浮かされているケセナに注がれている。
「……記憶を返し、今度は、この子の何を奪うつもり?」
「違う!」
どう弁明すればいいのか、グレンには見当もつかなかった。ちらりとラルを見れば、彼女は馬の上で、絶対的な強者の気迫に呑まれたまま固まっている。
焦燥に唇を噛んだ、その時だった。
「……よせ、キリエ」
静かに、オウセイの声が響いた。
椅子から立ち上がった彼が、ゆっくりと歩み寄ってくる。久しぶりに見るその姿は、以前よりもどこか輪郭が透き通っているように見え、グレンは思わず息を呑んだ。伸びた蒼い髪が、その奥の琥珀色の瞳を半ば隠している。
「先生……っ」
ラルが不安げにグレンを呼ぶ。だが、グレンは近づいてくるオウセイから目を離せなかった。キリエは無言で一歩下がり、主に道を譲る。
「ケセナ。ケセナ? 聞こえているか?」
それは、グレンが一度も聞いたことのないほど優しい声だった。
オウセイはグレンの背からケセナをそっと抱き取ると、その右腕に悍ましく浮き出た痣を一瞥した。
途端に、眉間へ深い皺が刻まれる。
「……お前、こいつの封印を無理やり抉じ開けたな」
「ファルイーアだという確信が欲しかった。リュウショウの仇だという、確信が」
グレンは言い訳をせず、素直に己の罪を述べた。
だがオウセイは答えず、痛ましそうにケセナの額へ手を当てる。
「愚か者め」
静かに吐き捨てると、オウセイは振り返り、キリエへ指示を飛ばした。
「キリエ、すぐに奥へ。それから……プラウを呼べ」
「プラークルウなら、もう中に。ケセナの異変を察知して、先ほど戻られました」
「そうか」
短く応じると、オウセイはケセナを抱えたまま家の中へと消えていく。
残されたグレンとラルは、張り詰めていた糸が切れたように馬を降り、その場へへたり込んだ。
「……良かった。これで助かるね」
ラルが安堵の息を漏らす。
だが、グレンの表情は晴れない。
(助かるかどうかは、わからない)
喉まで出かかった言葉を、グレンは必死に飲み込んだ。
オウセイといえど万能ではない。あの凄惨な戦争の時でさえそうだった。蒼髪の救世主などと祭り上げられていても、実際は実戦向きの魔術も使えわず、情報収集役を行っていた。
その時だった。
家の中から、目を開けていられないほどの激しい黄金の光が漏れ出した。
同時に、ケセナの悲鳴とも、龍の咆哮ともつかないおぞましい声が響き渡る。
「ケセナ!」
グレンが弾かれたように立ち上がった時、勢いよく扉が開いた。
飛び出してきたのは、銀髪を乱したプラークルウだった。彼女の瞳は今にも泣き出しそうな、切迫した光を湛えている。
「グレン・ラティア! この黒バカ男! お前が抉じ開けるから! 私の制御も効かない!! このままではケセナ様が『凶器』に呑まれてしまう!」
「制御? 『凶器』? どういうことだ!」
「記憶と一緒に封じられていたのに! なんで!」
プラークルウの悲痛な叫びに、グレンは言葉を失う。
家の中からは、さらに激しさを増した破壊音が漏れ聞こえてきた。
「……そこを退け、プラウ。俺が行く」
「黒バカにできることなんてない! あれを抑えられるのは……っ!」
グレンはプラークルウの言葉を待たず、その小さな肩を強引に押し退け、家の中へと突き進んだ。
そこには、寝台の上で黄金の炎に包まれ、苦悶の表情を浮かべるケセナと、その右腕へ手を当てて『異質な力』を必死に抑え込み続けるキリエとオウセイの姿があった。
「オウセイ、代われ!」
「ふん、末っ子、お前に何ができる!」
オウセイは毒づいた。
だが、その顔色は死人のように蒼白で、口の端からは一筋の血が流れている。ケセナを繋ぎ止めるためのオウセイの『魂』も、限界に近づいていた。
(……いや)
オウセイの考えが変わる。
自分では外から力で押さえつけることしかできない。だが、彼の心を直接見たこの男なら。
「お前の『呪術』なら、届くかもしれない……」
苦痛に顔を歪めながら、それでもオウセイははっきりと告げた。
「呼べ。ファルイーアではなく……今の、この子を。“ケセナ”を」
グレンは力強く頷くと、その場へ膝をつき、暴走するケセナの熱い右手を両手でしっかり握りしめた。
「っ……!」
凄まじい黄金の光がグレンの手を焼き、皮膚が焦げる嫌な臭いが漂う。激痛が走る。
それでもグレンは決して手を離さなかった。
「帰ってこい、ケセナ!」
魂を絞り出すようなその叫びは、光の渦の中へと呑み込まれていく。
グレンの視界は白く濁り、握りしめたケセナの手の感覚だけが、唯一世界と繋がるものになっていた。
——
ケセナは、真っ白く広大な、何もない場所にいた。
目の前には、幼い頃の自分――ファルイーアが立っている。
虚ろな紅い瞳。血に染まった小さな手。長い金髪にも血がこびりつき、細すぎる四肢には、実験体として切り刻まれた無数の傷が刻まれていた。
少年は無言で、足元に広がる泥のように黒い沼を指差していた。
『……全部、お前だ』
声が聞こえる。
直接脳へ響く、おぞましい龍の声。
『捨てよ。我の糧になれ。誰もお前を求めぬ。哀れな人形よ、我がお前を求めよう』
黒い泥がケセナの足首へ絡みつき、真っ白だった世界を侵食しながら、深い淵へと引きずり込もうとする。
ケセナは苦痛に顔を歪めた。
すべてを知ること。
記憶を取り戻すこと。
そう決意したはずの強い心も、この圧倒的な『祖』の闇の前ではひどく脆い。
ケセナとして歩んだ一年間の温かい光すら、泥のような闇に溶けて消えてしまいそうになる。
――その時だった。
「帰ってこい、ケセナ!」
深い闇を裂いて、ひどく騒がしくて、乱暴な声が届いた。
熱い。右手を強く握りしめるその感触が、闇を焼き払うような熱量を持って、ケセナの心へ流れ込んでくる。
「グレン、さん……?」
続いて、別の気配もした。
不器用で、けれど真っ直ぐな、紫色の瞳の少女。
帰る場所をくれた、蒼い髪の男。
自分を道具にしたくないと泣いてくれた、銀髪の幼女。
「こっちへ来て……もう、何も感じなくていい」
ファルイーアが掠れた声で囁く。
全てに絶望し、全てを捨てた過去の自分。その甘い誘惑。
だが。
差し出されたその細い手を、ケセナはそっと、けれど確かに振り払った。
思い出す。
応龍狩りの凄惨な風景。
“見せられた”自分の残酷な過去。
そして、この一年で出会った人々。自分の周りで笑って暮らす、不器用で温かな人たち。
全部、自分にとって絶対に失いたくない、大切なものだ。
「……みんなを守りたい。それに俺は、自分自身を助けたい」
ケセナははっきりと呟いた。
「お前に飲まれる訳にはいかない!」
闇の底から、上へと手を伸ばす。
絶望の底で、一筋の茶色く温かな輝きが溢れ出した。
「俺は、ケセナ! ケセナ・レフィードだから!」
刹那。
ケセナの魂から、黄金の光が内側から爆発するように弾け飛んだ。
——
「――っが、は……!」
オウセイが大きくのけ反り、口から大量の鮮血を吐き出した。
ケセナの魂を外側から繋ぎ止めていた力が、限界を迎えて千切れたのだ。
同時に、ケセナの身体を包んでいた狂気じみた熱波が、すっと引く。
室内に静寂が戻った。
ケセナの右腕を侵食していた赤黒い痣は、主の意思に完全に屈服したかのように薄れ、美しい『黄金龍の紋章』へと姿を変えて定着している。
荒々しかった呼吸も、今は深く穏やかなものへ変わっていた。
「……ケセナ?」
火傷を負った手の痛みに耐えながら、グレンが恐る恐る声をかける。
ゆっくりと、ケセナの瞼が開いた。
その瞳は、暴走の紅でも、偽りの茶でもなかった。
深く、温かな琥珀色が、そこにあった。
「……グレン、さん?」
確かな意思の宿った声。
それを聞いたグレンは、情けなくも鼻をすすり、ケセナの頭を乱暴に撫で回した。
「痛い……です」
ケセナが小さく呻き、苦笑を漏らした、その時。
がたん、と視界の隅で蒼い髪が揺れ、床へ崩れ落ちた。
「オウセイ様!」
傍らで膝をついたまま動かなくなったオウセイへ、キリエが血相を変えて駆け寄る。
「……大丈夫だ、とは言えないかな」
オウセイは口元の血を拭いながら、死人のように青白い顔で自嘲気味に笑った。
重い咳をしながらキリエの肩を借りて立ち上がると、窓の外、遠く空が白み始めた方角を静かに見据える。
(これで、やっと俺の最期だ)
消え入りそうなその呟きは、誰の耳にも届かなかった。
隣で支えるキリエにすら、聞こえてはいない。
ああ、手足が震える。
そして何より、ひどく寒い。
自分の命が確実に燃え尽きようとしているのを感じながらも、オウセイは振り返り、今度は誰の耳にもはっきり届く声で告げた。
「ケセナ。……この世界の『嘘』を、すべて話そう。その上で、封印した己の記憶を求めるというなら――お前の封印を解こう」
朝日が室内へ差し込み、ケセナの琥珀色の瞳を真っ直ぐに照らし出した。
それは、失われた真実を奪還するための、長く過酷な二夜半の始まりだった。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。




