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陽が昇りきり、朝の光が部屋を満たしても、家の中は異様な静けさに包まれていた。
暴走を乗り越えたケセナは、寝台の上で深く眠っている。呼吸は安定し、胸は規則正しく上下しているが、右腕に定着した黄金龍の紋章だけが、生き物のようにかすかに脈打っていた。
グレンは寝台の縁に腰を下ろし、徹夜でその様子を見つめていた。
「……死ななかっただけ、上出来か」
ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもない。
それでも胸の奥では、同じ問いが何度も繰り返されていた。
本当に、これでよかったのか――と。
背後で、床板が小さく軋んだ。
振り返ると、壁に手をつき、身体を支えるようにしてオウセイが立っていた。
いつ入ってきたのかもわからない。
顔色は死人のように悪く、唇の色も薄い。だが、蒼い髪の奥の琥珀色の瞳だけは、不気味なほど冴え渡っていた。
「お前のお手柄だ、玄武の末っ子」
グレンの視線が、オウセイの胸元へ落ちる。
昨夜吐いた血の痕が、服に生々しく残っていた。
「……俺は、長くは持たない」
そう言って、オウセイはケセナの寝顔に目を向けた。
「だが、死ぬ前にやることがある」
やがて、ラルとキリエ、そしてプラークルウも、自然と部屋へ集まってきた。
誰もがケセナの様子を気にしている。けれど誰も口を開かない。重い静寂だけが、部屋を満たしていた。
どれほど経ったのか。
「ケセナが目覚めたら、隠すつもりはない」
壁にもたれたオウセイが、淡々と言った。
「応龍の『祖』の意味……そして」
わずかに言葉を切る。
「なぜ、あの子が『世界の敵』と呼ばれる運命にあるのかも、だ」
室内の空気が、目に見えない重みを帯びた。
「……耐えられるのか?」
グレンが低く問う。
「まだ子供だぞ」
「だからだ」
オウセイは即答した。
「今のケセナには、“誰かのために泣ける心”がある。それを失う前に、選ばせる」
「……選ぶ、って……何を、ですか……?」
掠れた小さな声が、寝台の上から響いた。
全員が一斉に振り向く。
ケセナが、ゆっくりと上体を起こしていた。
琥珀色の瞳はまだ眠たげだったが、確かに現実を捉えている。
オウセイはほんの一瞬だけ目を細め、静かに告げた。
「お前がこの世界を救うか。それとも、壊すか、だ」
朝の光がケセナの瞳に差し込む。
その奥で、右腕の黄金龍の紋章が確かに脈を打った。
「選ぶのは――」
言い終える前だった。
オウセイの喉が、ひくりと鳴る。
「……っ」
次の瞬間、彼は咄嗟に口元を押さえた。
指の隙間から、どす黒い血が溢れ落ちる。
「オウセイ様!」
床に血が落ち、鈍い音を立てた。
キリエが駆け寄ろうとしたが、一歩遅い。
壁にもたれていたオウセイの膝が崩れ、その身体が前のめりに傾ぐ。
「……やっぱり、な……」
苦笑とも諦めともつかない声。
だが、その口元からさらに血が溢れた。明らかに量が異様だった。
倒れ込む寸前、グレンが咄嗟にその身体を抱き留める。
「おい! 喋るな!」
「無茶、言うな……俺が話さなければ……誰が話す」
腕の中の身体は、すでに氷のように冷え切っていた。
震えは止まらず、指先にはまるで力が入っていない。
焦点の揺れる瞳が、ゆっくりとケセナへ向く。
「……悪いな……肝心なところで……」
ケセナは動けなかった。
喉が、胸が、きつく締めつけられる。
目の前で血を吐き、倒れているこの人は。
絶望の底にいた自分を“人”として扱い、名を与え、不器用に守ろうとしてくれた人だった。
「オウセイ……」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど弱かった。
それでもオウセイは、確かに聞き取ったらしい。唇だけがわずかに歪む。
「……いいか、ケセナ。選ぶのは……誰でもない。お前だ」
「……まだ、だ」
血混じりの掠れた声が、なおも続く。
「オウセイ様……?」
キリエが恐る恐る手を取る。
その手は、ごくわずかに動いた。
「……聞け」
その一言で、誰もが息を呑んだ。
オウセイの視線が、真っ直ぐにケセナを射抜く。
「ケセナ……いや、ファルイーア。お前は……“世界の敵”だ。なぜなら――お前は世界そのものを壊せる、唯一の存在だからだ」
ラルが息を呑み、グレンの腕に力がこもる。
「お前の右腕に封じられている黄金龍。それは“凶器”だ。五千年前、世界を滅ぼしかけた魔人が残したもの。……俺も抗えなかった“呪縛”」
震える指が、ケセナの右腕を指した。
ケセナは反射的にそこを掴む。内にいる黄金龍が呼応するように脈を打った。
「だが、お前は違う。……お前だけは、それを“扱える”。だから“敵”なのだ」
そして。
「――世界を壊すか、世界を救うかは、お前次第だ」
「もうやめて! これ以上喋れば――!」
キリエが叫ぶ。
だが、オウセイはわずかに首を振った。
「……いい」
瞳の光が、少しずつ薄れていく。
「……ファルイーア……全てはお前の記憶の中にある。だから、お前は記憶を……」
言葉は途切れ、声はか細くなる。
それでもオウセイは、もう見えていないはずの瞳で、なおケセナを見据え続けた。
「……選べ……ケセナか……ファルイーアか……」
言い終えた瞬間。
張り詰めていた何かが、静かに解けた。
呼吸が止まる。
五千星霜という、気の遠くなる時代が終わった。
グレンの腕の中で眠るその顔は、不思議なほど安らかだった。
ケセナは寝台から降り、無言でグレンの腕を引く。
自分が今まで眠っていた温かい寝台へ、オウセイを運ぶために。
血に汚れたシーツの上へ寝かされたオウセイを見つめ、ケセナは震える声で呟いた。
「……オウセイ」
返事はない。
だが、彼が遺した言葉の重みは、確かにケセナの胸に突き刺さっていた。
しばらく、誰も動けなかった。
鉄錆びのような血の匂いだけが、部屋に残っている。
キリエは崩れ落ちそうになるのを堪え、亡骸の前に跪いた。
涙は流れていない。ただ、何かが決定的に断ち切られたような、虚ろで冷たい目をしていた。
「……俺のせい、ですか」
ケセナの声は、驚くほど小さかった。
すぐには誰も答えられなかった。
やがて、キリエが立ち上がる。
「違う」
短く、それだけを言った。
「これはオウセイ様が望んでいたことよ。全部叶えて――オウセイ様は逝かれたの」
その言葉が深く刺さり、ケセナは唇を強く噛んだ。
泣く資格があるのかすら、わからなかった。
受け取ってしまったものが、あまりにも重すぎた。
「……嫌な役ばかり押し付けやがって」
グレンの呟きは、罵倒にも、感謝にも聞こえた。
外では鳥が鳴いている。
陽は高く昇り、世界は何事もなかったかのように今日を進めていく。
だが、この小さな家の中で、確かに一つの時代が終わったのだ。
キリエはオウセイの蒼い髪へそっと指を通し、絡まった前髪を、いつもそうしていたように整えながら囁く。
「おやすみなさい、オウセイ様」
その指先が、ぴくりと止まる。
ゆっくりと顔を上げた牡丹色の瞳が、ケセナを捉えた。
責める色でも、縋る色でもない。
ただ、逃げ場を許さない目だった。
「……それでも、ですか」
唇が震え、言葉がこぼれる。
「貴方の記憶が貴方を壊すかもしれない。壊れた貴方が世界を壊すかもしれない」
もう一度、亡骸の髪に触れる。
その手はひどく優しく、ひどく震えていた。
「それでも」
キリエは、はっきりと問う。
「……貴方はそれでも、記憶を取り戻すつもり?」
部屋に重い沈黙が落ちる。
誰も口を挟まない。答える資格があるのは、ただ一人だった。
ケセナの胸の奥で、何かが静かに軋む。
オウセイが命を削って残した“問い”が、今、目の前に差し出されている。
逃げれば、生きられるかもしれない。
だが――それは、この人の死を無意味にする選択でもあった。
ケセナは、ゆっくりと息を吸った。
迷いが、胸の中で確かな重みを持つ。
封印の奥にある“自分”が、怖かった。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。




