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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第四章 五千星霜が終わる刻
26/60

 ■3■

 陽が昇りきり、朝の光が部屋を満たしても、家の中は異様な静けさに包まれていた。

 暴走を乗り越えたケセナは、寝台の上で深く眠っている。呼吸は安定し、胸は規則正しく上下しているが、右腕に定着した黄金龍の紋章だけが、生き物のようにかすかに脈打っていた。

 グレンは寝台の縁に腰を下ろし、徹夜でその様子を見つめていた。


「……死ななかっただけ、上出来か」


 ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもない。

 それでも胸の奥では、同じ問いが何度も繰り返されていた。

 本当に、これでよかったのか――と。


 背後で、床板が小さく軋んだ。

 振り返ると、壁に手をつき、身体を支えるようにしてオウセイが立っていた。


 いつ入ってきたのかもわからない。

 顔色は死人のように悪く、唇の色も薄い。だが、蒼い髪の奥の琥珀色の瞳だけは、不気味なほど冴え渡っていた。


「お前のお手柄だ、玄武の末っ子」


 グレンの視線が、オウセイの胸元へ落ちる。

 昨夜吐いた血の痕が、服に生々しく残っていた。


「……俺は、長くは持たない」


 そう言って、オウセイはケセナの寝顔に目を向けた。


「だが、死ぬ前にやることがある」


 やがて、ラルとキリエ、そしてプラークルウも、自然と部屋へ集まってきた。

 誰もがケセナの様子を気にしている。けれど誰も口を開かない。重い静寂だけが、部屋を満たしていた。


 どれほど経ったのか。


「ケセナが目覚めたら、隠すつもりはない」


 壁にもたれたオウセイが、淡々と言った。


「応龍の『祖』の意味……そして」


 わずかに言葉を切る。


「なぜ、あの子が『世界の敵』と呼ばれる運命にあるのかも、だ」


 室内の空気が、目に見えない重みを帯びた。


「……耐えられるのか?」


 グレンが低く問う。


「まだ子供だぞ」

「だからだ」


 オウセイは即答した。


「今のケセナには、“誰かのために泣ける心”がある。それを失う前に、選ばせる」


「……選ぶ、って……何を、ですか……?」


 掠れた小さな声が、寝台の上から響いた。

 全員が一斉に振り向く。


 ケセナが、ゆっくりと上体を起こしていた。

 琥珀色の瞳はまだ眠たげだったが、確かに現実を捉えている。


 オウセイはほんの一瞬だけ目を細め、静かに告げた。


「お前がこの世界を救うか。それとも、壊すか、だ」


 朝の光がケセナの瞳に差し込む。

 その奥で、右腕の黄金龍の紋章が確かに脈を打った。


「選ぶのは――」


 言い終える前だった。

 オウセイの喉が、ひくりと鳴る。


「……っ」


 次の瞬間、彼は咄嗟に口元を押さえた。

 指の隙間から、どす黒い血が溢れ落ちる。


「オウセイ様!」


 床に血が落ち、鈍い音を立てた。

 キリエが駆け寄ろうとしたが、一歩遅い。

 壁にもたれていたオウセイの膝が崩れ、その身体が前のめりに傾ぐ。


「……やっぱり、な……」


 苦笑とも諦めともつかない声。

 だが、その口元からさらに血が溢れた。明らかに量が異様だった。


 倒れ込む寸前、グレンが咄嗟にその身体を抱き留める。


「おい! 喋るな!」

「無茶、言うな……俺が話さなければ……誰が話す」


 腕の中の身体は、すでに氷のように冷え切っていた。

 震えは止まらず、指先にはまるで力が入っていない。

 焦点の揺れる瞳が、ゆっくりとケセナへ向く。


「……悪いな……肝心なところで……」


 ケセナは動けなかった。

 喉が、胸が、きつく締めつけられる。


 目の前で血を吐き、倒れているこの人は。

 絶望の底にいた自分を“人”として扱い、名を与え、不器用に守ろうとしてくれた人だった。


「オウセイ……」


 呼びかけた声は、自分でも驚くほど弱かった。

 それでもオウセイは、確かに聞き取ったらしい。唇だけがわずかに歪む。


「……いいか、ケセナ。選ぶのは……誰でもない。お前だ」


「……まだ、だ」


 血混じりの掠れた声が、なおも続く。


「オウセイ様……?」


 キリエが恐る恐る手を取る。

 その手は、ごくわずかに動いた。


「……聞け」


 その一言で、誰もが息を呑んだ。

 オウセイの視線が、真っ直ぐにケセナを射抜く。


「ケセナ……いや、ファルイーア。お前は……“世界の敵”だ。なぜなら――お前は世界そのものを壊せる、唯一の存在だからだ」


 ラルが息を呑み、グレンの腕に力がこもる。


「お前の右腕に封じられている黄金龍。それは“凶器”だ。五千年前、世界を滅ぼしかけた魔人が残したもの。……俺も抗えなかった“呪縛”」


 震える指が、ケセナの右腕を指した。

 ケセナは反射的にそこを掴む。内にいる黄金龍が呼応するように脈を打った。


「だが、お前は違う。……お前だけは、それを“扱える”。だから“敵”なのだ」


 そして。


「――世界を壊すか、世界を救うかは、お前次第だ」

「もうやめて! これ以上喋れば――!」


 キリエが叫ぶ。

 だが、オウセイはわずかに首を振った。


「……いい」


 瞳の光が、少しずつ薄れていく。


「……ファルイーア……全てはお前の記憶の中にある。だから、お前は記憶を……」


 言葉は途切れ、声はか細くなる。

 それでもオウセイは、もう見えていないはずの瞳で、なおケセナを見据え続けた。


「……選べ……ケセナか……ファルイーアか……」


 言い終えた瞬間。

 張り詰めていた何かが、静かに解けた。


 呼吸が止まる。


 五千星霜という、気の遠くなる時代が終わった。


 グレンの腕の中で眠るその顔は、不思議なほど安らかだった。

 ケセナは寝台から降り、無言でグレンの腕を引く。

 自分が今まで眠っていた温かい寝台へ、オウセイを運ぶために。


 血に汚れたシーツの上へ寝かされたオウセイを見つめ、ケセナは震える声で呟いた。


「……オウセイ」


 返事はない。

 だが、彼が遺した言葉の重みは、確かにケセナの胸に突き刺さっていた。


 しばらく、誰も動けなかった。

 鉄錆びのような血の匂いだけが、部屋に残っている。


 キリエは崩れ落ちそうになるのを堪え、亡骸の前に跪いた。

 涙は流れていない。ただ、何かが決定的に断ち切られたような、虚ろで冷たい目をしていた。


「……俺のせい、ですか」


 ケセナの声は、驚くほど小さかった。


 すぐには誰も答えられなかった。

 やがて、キリエが立ち上がる。


「違う」


 短く、それだけを言った。


「これはオウセイ様が望んでいたことよ。全部叶えて――オウセイ様は逝かれたの」


 その言葉が深く刺さり、ケセナは唇を強く噛んだ。

 泣く資格があるのかすら、わからなかった。

 受け取ってしまったものが、あまりにも重すぎた。


「……嫌な役ばかり押し付けやがって」


 グレンの呟きは、罵倒にも、感謝にも聞こえた。


 外では鳥が鳴いている。

 陽は高く昇り、世界は何事もなかったかのように今日を進めていく。

 だが、この小さな家の中で、確かに一つの時代が終わったのだ。


 キリエはオウセイの蒼い髪へそっと指を通し、絡まった前髪を、いつもそうしていたように整えながら囁く。


「おやすみなさい、オウセイ様」


 その指先が、ぴくりと止まる。

 ゆっくりと顔を上げた牡丹色の瞳が、ケセナを捉えた。

 責める色でも、縋る色でもない。

 ただ、逃げ場を許さない目だった。


「……それでも、ですか」


 唇が震え、言葉がこぼれる。


「貴方の記憶が貴方を壊すかもしれない。壊れた貴方が世界を壊すかもしれない」


 もう一度、亡骸の髪に触れる。

 その手はひどく優しく、ひどく震えていた。


「それでも」


 キリエは、はっきりと問う。


「……貴方はそれでも、記憶を取り戻すつもり?」


 部屋に重い沈黙が落ちる。

 誰も口を挟まない。答える資格があるのは、ただ一人だった。


 ケセナの胸の奥で、何かが静かに軋む。

 オウセイが命を削って残した“問い”が、今、目の前に差し出されている。


 逃げれば、生きられるかもしれない。

 だが――それは、この人の死を無意味にする選択でもあった。


 ケセナは、ゆっくりと息を吸った。

 迷いが、胸の中で確かな重みを持つ。


 封印の奥にある“自分ファルイーア”が、怖かった。

貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。

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