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フェルナリアを発って三十の夜。季は『収奪の季』へ移り、朝晩の風にはわずかな冷たさが混じり始めていた。
ケセナたち一行は、オウセイの住むあの深い森へと向かっていた。
そしてケセナは、静かな不安を抱えたまま芦毛の馬の背に揺られている。
あれから、プラークルウが一切姿を見せていないのだ。
宝刀そのものは抜ける。だが、いつも傍で響いていた、あの甲高く騒がしい声だけが聞こえなかった。
それに加え、ここ数日はずっと右腕に妙な違和感を覚えていた。
ケセナは無意識のうちに、微かな熱を帯びて痛むその箇所を擦ってしまう。
乗っている馬は、十四夜前、道中立ち寄った村でグレンが調達したものだ。
「この森まで歩くなんて信じられない」などと文句を言いながら馬を買い揃えるグレンの背中を、自分はずっと歩いて旅をしてきたんだけどなと、胸中でぼやきながら見ていたものである。
芦毛、青毛、栗毛の三頭を手に入れたグレンの顔は驚くほど嬉々としており、ラルが呆れたように小声で教えてくれた。
「先生、無類の馬好き」
途端に納得する。
図体のでかい歴戦の騎士が、「可愛い瞳だ」「見ろ、この立派な佇まいを」などと馬を愛でて語る姿は、まるで新しい玩具を与えられた少年のようだった。
「……っ」
そんな穏やかな記憶を、脈打つように熱を持った右腕の痛みが唐突に遮る。
まるで、内側から何かが皮膚を押し破って出てこようとしているような感覚。ケセナは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
「ケセナ、顔色が悪いぞ。少し休むか?」
汗を滲ませるケセナの異変に気づき、並走していたグレンが手綱を引いて青毛馬を寄せてきた。
馬は一瞬反抗の気配を見せたが、グレンは見事な手綱捌きでそれをねじ伏せる。
「大丈夫です。……ちょっと、馬に慣れてないだけですよ」
ケセナは無意識のうちに右腕の痛みを隠し、笑ってみせた。
(……どうして、隠したんだろう)
疑問は、新たな痛みで霧散する。
いつもなら、この不器用な黒い男には何でも言えるのに。
だが、馬に慣れていないというのも事実だった。
ケセナは乗馬などしたことがない。唐突に差し出された芦毛馬の背に慣れることもなく、ここまでの十四夜、数回の落馬を経験したのち、振り落とされないよう必死に揺られてきたのだ。右腕も痛いが、実のところ全身の筋肉が悲鳴を上げている。
肩を竦め、ケセナは小さく息を吐いた。
「お前、もう少し鍛えた方がいいな」
「……善処します」
ケセナの言葉が終わるより早く、先行していたラルの乗る栗毛馬が、何かに怯えたように激しくいななき、前脚を高く上げた。
「――そこまでだ、逃亡者諸君」
街道の先。
立ち込める白く淀んだ霧の向こうから響いた声に、グレンが瞬時に抜刀し、ケセナを庇うように前へ躍り出た。
「誰だ」
グレンの瞳が鋭く細められる。
霧を割って現れたのは、漆黒の甲冑に身を包んだ五人の兵士。
そしてその中心に立つ、ひとりの細身の男。男は黒髪に青い瞳を持ち、口元には歪んだ笑みを湛えていた。
「久しぶりだな、グレン・ラティア。いや、『元』団長殿と言うべきか」
「……お前は……フェイカーか。魔術団の副団長が、何の用だ」
フェイカーと呼ばれた男は、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
応龍族を魔術の面から支えてきた『魔術団』。その副団長であり、武を重んじるグレンとは常に真っ向から対立していた男――フェイカー・ゴルデニア。
グレンは苦々しく目を細めた。
フェイカーは今、フィサルーアの腹心として暗躍していると聞く。
そんな男がなぜ、こんな辺境に。
疑問は口にせず、大剣を握り直す。
「『陛下』がお呼びなのだよ。貴様の後ろで震えている、その茶髪の『化け物』をな。生死は問わん。首だけでも持ち帰れと、そう仰せだ」
(存在を知られている……!)
ケセナの心臓が激しく跳ね上がった。
「首どころか、指一本、お前にはやらない!」
恐怖を押し殺し、ケセナは馬の上から叫んで否定した。今の自分の隣にはグレンがおり、背後にはラルがいる。彼らが自分を『人』として見てくれている。それだけでケセナには十分だった。
「ほほう、随分とよく吠える人形だな」
フェイカーがゆっくりと手を上げた瞬間、漆黒の甲冑に身を包んだ兵たちが音もなく殺到してきた。
「ケセナ、下がっていろ! ラル、こいつを守れ!」
グレンは咆哮とともに馬から飛び降り、己の乗っていた青毛馬の尻を力強く叩いた。危険を察知した馬はいななき、深い森の中へと逃げ込んでいく。
グレンはそのまま、たった一人で漆黒の兵たちの懐へと飛び込んだ。
「ちっ!」
鈍い鋼の音が響く。グレンの大剣が振るわれるたびに兵たちの甲冑が砕け散り、一人、また一人と地面に伏していく。
しかし、フェイカーの顔から余裕の笑みは消えない。手駒の命など、路傍の石ころ程度にしか感じていないのだ。
フェイカーが左腕を上げると、周囲の空気が異常な熱を帯びた。
「燃えろ、その薄汚い化け物と共に!」
フェイカーの頭上に、周囲の酸素を焼き尽くすほどの巨大な火炎の渦が顕現する。それは圧倒的な熱波を放ちながら、逃げ場のないケセナを一直線に狙って放たれた。
「させないっ!」
ラルが怯える栗毛馬から身を躍らせ、ケセナの前に立ちはだかった。彼女が展開した風魔術と極大の炎がぶつかり合い、激しく弾け飛ぶ。
だが、フェイカーの放つ魔法の威力は絶大だった。ラルの展開した風の防壁が徐々に押され、今にも限界を迎えようとしている。
「ラル、危ない!」
咄嗟の出来事だった。
このままでは、彼女が焼き尽くされてしまう。
ケセナは叫び、自分を庇うラルに向けて、思わず右手を強く突き出した。
「……な、に?」
右腕に燻っていた痛みが爆発し、ケセナの視界が圧倒的な黄金色に塗り潰された。訳がわからず目を見開き、そうして意識が遠のく。
周囲の森を真昼のように照らし出す強烈な眩光。グレンもラルも、そしてフェイカーたち追手すらも、その人間離れした光の圧力に息を呑み、立ち竦んだ。
「――退け」
次の瞬間、ケセナの口から漏れたのは、彼の声であって彼のものではない、何千星霜もの時を生き抜いてきたかのような荘厳な響きを帯びた声。
突き出した右手から、眩い黄金の障壁が扇状に展開される。フェイカーの放った極大の火炎は、その黄金の壁に触れた途端、まるで最初から存在しなかったかのように一瞬で霧散した。
「な、何だ、今の光は……!?」
フェイカーが驚愕に顔を歪めた。
馬上で右手を突き出すケセナ。その背後には、天を衝くほど巨大な『龍』の幻影が陽炎のように揺らめいている。
その圧倒的な光景にフェイカーが気を取られた、ほんの一瞬の隙。
兵の群れに潜り込んでいたグレンは、逡巡することなく、隙だらけになったフェイカーの腹を力任せに蹴り飛ばした。
「がはっ……!?」
吹き飛ぶフェイカーを尻目に、グレンはピィ、と鋭い口笛を鳴らす。
森に身を潜めていた青毛馬が応えるように駆け出してくる。グレンは合流した自らの馬へ軽業のように飛び乗った。
「……ラル! 全力で離脱するぞ!」
炎と光の連続に怯えきっているラルの栗毛馬の手綱を強引に引き寄せ、落ち着かせるように首筋を叩いてからラルに手渡す。
同時にケセナの方を振り返り――朦朧としている青年の顔色を見て、サッと血の気を引かせた。
だが、ケセナを乗せた芦毛馬は気丈にもその場に留まり、主の指示を待つようにグレンを見つめている。
「来れるな?」
馬に問いかけ、グレンは開けた街道を捨て、視界の悪い深い森の中へと一気に駆け込んだ。
残されたフェイカーは、蹴られた腹を押さえながら、夜の森へと消えていく三人の背中――去りゆく黄金の残光を忌々しげに睨みつけていた。
流石は元応龍騎士団長。撤退の判断と手際が鮮やかすぎる。
「……見たか。あれが『祖』の力か」
フェイカーは、五人いたはずがたった一人だけ生き残った漆黒の兵士に向かって吐き捨てた。
「陛下に伝えろ。――化け物が、目覚めかけているとな」
冷酷な命令を下すと、フェイカーは闇に消えた三人の痕跡を追い、ゆっくりと森の中へと足を踏み入れた。
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追手の気配が遠のき、色付き始めたとは言え、未だ鬱蒼とする茂みの奥で、一行はようやく馬の足を止めた。
自ら馬から降りようとしたケセナだったが、身体を支えきれず人形のように馬から落ちた。
「ケセナっ!」
真っ先に駆け寄ったのはラルだった。彼女が必死に支えようとしたケセナの身体は、驚くほど熱く、それでいて激しく痙攣している。
「……あ……つ、い……。腕、が……」
ケセナは右腕を抱え込み、荒い呼吸を繰り返す。その顔面からは滝のように脂汗が滴り落ちていた。
馬から飛び降りたグレンは、険しい表情でケセナの右袖を強引に捲り上げる。
「っ、これは……!」
そこには、肌を焼き焦がしたかのような悍ましい赤黒い痣が、まるで這いずる虫が古傷を押し破って外に出ようとしているかのように、生々しく浮き出していた。
先ほどの『力』を引き出した代償が、ケセナの脆弱な肉体を内側から無慈悲に侵食しているのだ。
「先生、これ、どういうこと……? 呪い……!?」
ラルの悲鳴に近い問いに、グレンは答えられず、ただ奥歯を噛み締めた。
「……ケセナ、しっかりしろ。今、痛みを和らげてやる」
グレンは懐から古びた小瓶を取り出し、強い香りのする液体をケセナの唇に含ませた。痛みを和らげる鎮静剤だ。
だが、ケセナの意識はすでに混濁していた。
「……オウ、セイ……プラ、ウ……どこ……?」
譫言のように大切な者たちの名を呼び、ケセナはラルの腕の中でぐったりと力を抜いた。
「先生、熱がどんどん上がってる。このままだと……」
「分かっている。森まではあと陽の半巡りの距離だ。そこまで辿り着けば」
グレンは周囲の闇を警戒しながら、自らの上着を脱いでケセナにかけた。
ファルイーアだった頃。
彼はどれほどの苦痛に耐えながら、戦わされてきたのか。
誰に甘えることも、痛みを口にすることすら許されず、冷徹な兵器として扱われていた日々。
今、ケセナとして涙を流し、苦痛に顔を歪める。その青年の姿は、人間としては“正しい”反応だった。けれど、かつての彼は、この尋常ではない痛みを全く表に出さない無機質な人形で――。
グレンは頭を振り、思考を止める。
過去を思い出している場合ではないと、己の拳を握りしめた。
「ラル。俺がこいつを抱えて馬に乗る。お前は残りの二頭を連れて、俺の後に続け。いいな」
「……わかった」
「行くぞ」
リュウショウ。
俺はまた、お前の息子にこんな無理をさせている。
グレンは心の中で亡き親友に毒づきながら、ぐったりとしたケセナを担ぎ上げた。背中越しに伝わってくるケセナの鼓動は、速く、ひどく不安定だった。
「夜が明ける前に、オウセイの元へ叩き込む」
この先にいる、気に食わない蒼い髪の男。オウセイ・カイラーヌ。
その男は、『救世主』と呼ばれていたなとグレンは苦笑した。何が救世主だ。ただの陰気な捻くれ者だろう。
騎士団長にすら“あの男の存在する意味”は明かされておらず、グレン自身、オウセイが『救世主』というありきたりな伝承しか知らなかった。
(今更、知ったところで……)
正体なんてどうでもいい。
この熱を放って苦しむケセナを、助けてくれるのなら。
(……あいつが素直に助けてくれるかどうかは……一種の賭けか。だが今は、あいつの力を頼るしか……)
思考が巡る。
もし、無理だと突き返されたら?
はた、と動きが止まったグレンに、ラルが近づき見上げる。
「先生?」
唐突に視界に入った愛弟子の顔を見て、グレンは我に返った気がした。
「……あ、ああ。いや、願うしかないか」
「?」
訳がわからず首を傾げるラルを他所に、グレンは肩の力を入れ直した。
背後の闇ではフェイカーの気配を感じるが、こちらを監視しているのか、はたまたケセナの力に怯んだのか、すぐには手出しをしてこない。
(好都合だ)
フィサルーアに報告するつもりだなと結論づけ、グレンはケセナを抱えたまま器用に馬へと飛び乗り、手綱を叩きつけて薄暗い森の奥へと駆け出した。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。




