9話 元旦那様からの手紙
無事、魔法士として復帰が決まった私は、王都に小さな家を借りた。
魔法士団本部まで歩いて通える場所にあり、一人で暮らすには十分な広さだった。少し古いけれど、日当たりもよくて、台所も綺麗だ。
(もちろん、もっと良いところにも住めたのだけれど……)
実家からは、一応お金は送ってもらってはいたけれど、今はそのお金に手をつける気にはなれなかった。魔法士団から支給される給料で無理なく払える家賃の中から選んだ家だから、当然、侯爵家の屋敷と比べれば、驚くほど狭い。
それでも、私はこの家が気に入っていた。
どの家具をどこに置くのかも、夕食に何を食べるのかも、何時に寝るのかも、すべて自分で決められる、私の、私のための、私だけのお城。
「にしても、一日が長いなぁ……」
魔法士としての初出勤の日はまだ先だから、私はすっかり暇を持て余していた。侯爵領にいた頃は、アルベルトの代わりに仕事を捌いていたから一日が驚くほど速く過ぎていったけれど、今は真逆である。
淹れたばかりの紅茶をゆっくり飲む時間も悪くない。
「郵便でーす!」
その時、玄関の扉を叩く音がして、私は慌ててティーカップを置いた。
「今、開けます!」
そう言って開いた扉の向こうに立っていた配達人は、両手いっぱいに手紙を持っていた。
「……その手紙、全部、私宛てですか?」
「ええ。まとめて届いていますよ」
差し出された手紙を受け取ってテーブルの上に置いた。
こんなに手紙をくださる相手がいただろうかと不思議に思ったけれど、いちばん上の封筒を見て、すぐに送り主が分かった。
――クライン侯爵家の紋章が刻まれている。
残りの封筒にも、すべて同じ紋章があった。
「……アルベルトね」
嫌な予感が走ったけれど、迷った末に、日付の古いものから封を開けた。
『君が社交の場で親しくしていた夫人たちを教えてほしい。ミレーユは慣れない場所が怖いと言って、あまり夜会に出たがらないんだ』
私は、便箋を持ったまま大きなため息をついた。
私だって、社交が得意だったわけではない。
大勢の人が集まる場所は今でも緊張するし、気の利いた冗談も言えない。夜会に向かう馬車の中で、何度帰りたいと思ったことか。
それでも、アルベルトのため。侯爵家で働く使用人たちのため。そして、領地で暮らす人たちのため。
侯爵夫人である私が苦手だからと逃げれば、代わりに誰かが困るのだ。だから、苦手だなんて言っている暇はないと思っていた。
けれど、ミレーユ様は怖いと言えば、夜会に出なくても許されるらしい。
『領地を守る結界があっただろう。これまでは、どうやって管理していた?』
『領民たちが税金を取るなとうるさい。君が説明すると皆すぐに納得していたが、何を話していたんだ?』
ほかの手紙にも、使用人同士の揉め事や、慈善事業の寄付先についての相談が綴られている。
彼が困っていることは、どれも私が毎日片づけていたことばかりだった。
(もしかして、私って都合の良いように使われていたのかしら)
今さら気づいても、遅いのだけれど。
私は手紙を重ね、封筒に戻した。
もう、アルベルトとは他人なのだ。返事を書く必要はない。アルベルトもミレーユ様も、二人で選んだ道なのだから、困り果ててしまえばいい。
そんなことを思ってしまう私は、きっと性格が悪いのだろう。
このまま引き出しにしまってしまおうとしたとき、ふと侯爵家に残してきた人たちの顔が浮かんだ。
私のことを引き留めてくれたローレンツや侍女たち。結界のそばで暮らす領民たち。
私が返事をしなければ、困るのはアルベルトだけではない。
「……もうっ、私って本当に」
自分に呆れながら、便箋を取り出した。
最初は、ただただ、必要なことだけを綴って事務的な手紙を送ろうと思っていたのに。
『どうか健康にはお気を付けて』
そんなことを文末に付け足してしまったのは、アルベルトへの気持ちがまだあるからだ。
でも、認めてしまうのは苦しくて、書き終えた便箋を急いで封筒に入れた。
封蝋が固まるのを待ち、私は外出用の上着を手に取る。
この手紙を出してしまったら、あとは考えないようにしよう。自分に言い聞かせて、私は新しい家をあとにした。
◇
郵便局に向かう途中に赤い屋根が見えて、つい足を止めてしまった。かつてよく通っていたお気に入りのパン屋さんである。
(せっかくだし、行ってみようかしら)
少しだけ迷ったあと、木製の扉を押し開けると、からん、と軽やかな鐘が鳴って、香ばしい小麦の香りが鼻を掠める。
棚には、焼きたてのパンがずらりと並んでいた。
昔よく買っていた看板メニューの蜂蜜パンは、パンの中に蜂蜜がたっぷり練り込まれていてなかなかに甘ったるいのだが、これが疲れた体によく染みるのだ。その隣には、甘く煮た林檎を包んだパンや、クリームがたっぷり入ったパンもあって目移りしてしまう。
奥から新しいパンが運ばれてくると、焼けた小麦とバターのいい匂いがさらに強くなる。
(どれも美味しそう……)
思えば紅茶を飲んだだけなので、ぐうとお腹が鳴りそうだった。
「いらっしゃいま――まあ、エレナちゃん!?」
カウンターにいたお姉さんが、私の顔を見て大きく目を見開いた。彼女はこの店の奥さんのローザさんだ。
「お久しぶりです。覚えてくれてるんですか」
「常連さまだったんだもの、当たり前よ! あなた、王都に戻ってきたの?」
弾んだ声を聞きつけ、奥から店主のお兄さんも顔を出した。二人とも以前より少しだけ年を重ねていたけれど、元気そうで安心した。
「魔法士団に復帰して、王都で暮らすことになったんです」
「とってもうれしいわ! これからはいつでも寄ってちょうだいね」
「ありがとうございます」
ジルが怒られた日は、よく一緒に遊びに来ては、パンを買ってあげた。久々に顔を出せて本当に嬉しい。
ローザさんは、パンを並べながら「あ」と声を上げる。
「そういえば、いつも一緒に来ていた男の子も立派になったわよ」
ローザさんが懐かしそうに笑う。
「今では、彼の方がすっかり常連さんなの。今日も――」
「男の子はやめてください」
聞き慣れた声がして、私は店の奥に顔を向けた。棚の陰から現れたのは、大きな紙袋を抱えた筆頭魔法士様だった。
「ジル?」




