5話 恋心を忘れる魔法②
「先輩」
ジルがゆっくりと顔を上げる。
「……まだ、好きなんですか。侯爵様のこと」
「そ、れは……」
動揺して、私は何杯目かになるお酒もぐびぐびと飲んでしまう。ジルに「大丈夫ですか」と止められたけれど関係ない。
「嫌いになれたら、もっと楽だったのでしょうけれど」
アルベルトへの気持ちを全て忘れられたら、どれだけ楽になるだろう。
考えないようにしようと思えば思うほど、彼との思い出が蘇ってくるのだから本当に困ったものだ。
「この世に『恋心を忘れる魔法』があればいいのに」
ぽつりと呟くと、ジルは不思議そうに首を傾げた。
「恋心を忘れる魔法、ですか?」
「ええ。そんな都合のいい魔法、あるわけないでしょうけど」
私は苦笑して、新しいお酒のグラスに口をつけた。けれど、ジルはなぜかにっこりと笑った。
「いいですよ。俺がかけてあげます」
「……え?」
思いもよらない言葉に、弾かれたように顔を上げる。
「恋心を忘れる魔法。かけてあげますね、先輩」
「ちょ、ちょっと待って。そんな魔法、聞いたことがないわよ?」
「でしょうね。俺のオリジナルなので」
「オリジナル!?」
「効果は保証しますよ。俺、これでも筆頭魔法士ですから」
「そ、そういう問題じゃないでしょう! 恋心なんて、魔法でどうにかできるものなの?」
あまりにも自信満々なので、危うく信じてしまいそうになる。混乱した私と対照的にジルは頬杖をつき、楽しそうに私を見つめている。
「嫌でも昔の男のことなんて忘れますよ」
ジルはにっこりと笑うと、頬杖をついていた手を伸ばしてきた。長い指が頬にかかった髪をすくい、そっと耳にかけられる。
「……ジル?」
「じっとしててくださいね」
そう囁いて、彼はゆっくりと私に顔を寄せてくる。鼻先が触れそうな距離で目が合ったかと思うと、ジルの視線がふっと下がった。
(ちょ、ちょっと待って。まさか、キスされ……!?)
思わず息を止めた、そのとき。とん、と額に指先が触れた。
「……はい。かかりましたよ」
「…………へ?」
ジルは私から顔を離すと、何事もなかったように微笑んだ。
「先輩を俺のことで頭いっぱいにする魔法です」
「…………」
危ない、間の抜けた声が出そうになった。魔法陣も現れなければ、魔力が流れ込んでくる感覚もない。
どう考えても、ただ額をつつかれただけである。
「……あなた、私をからかっているでしょう!」
「あはは! 先輩って本当に可愛いですね」
まったく、五年の間にこの後輩は何を覚えてしまったのだろう。
昔は私の後ろをついて回っていた泣き虫だったくせに、今ではすっかり人をからかうのが上手になってしまった。
「俺、結構本気なんですけどねえ」
「はいはい。分かったから、もう!」
そう言ってグラスに手を伸ばそうとした、その時だった。ぐらり、と視界が揺れて世界が回転していく。
(……あれ?)
急に頭がぼんやりして、目の前のジルが二人に見える。
「……先輩? ちょっと、飲みすぎじゃないですか?」
「だ、大丈夫よ。私、お酒には強いんだから……」
昔なんて酒豪の団長と飲み比べをして、朝までどんちゃん騒ぎをしたものだ。……冷静に考えれば、これもこれで問題な気がする。
「――先輩!」
倒れかけた身体を、大きな腕が受け止める。すぐ近くで、ジルが何かを言っていた。
その声が、ひどく優しくて。
(……ああ、ジルだ)
昔は私が守ってあげていたのに。今は、こんなにも頼もしくなって。
「……ふふ。立派に、なったわねえ」
「先輩、そういうのは反則ですよ」
困ったような、それでいてどこか嬉しそうな声が聞こえた。何が反則なのか聞こうとしたけれど、もう瞼が重くて仕方ない。
「……おやすみ、ジル」
「……はい。おやすみなさい、先輩」
最後に感じたのは、私を抱きとめる温かな腕の感触だった。
そこで、私の意識はぷつりと途切れた。
◇
「~~~~っ、緊張した……」
俺は、すうすうと寝息を立てる先輩を支えて椅子に座らせたあと、体じゅうの空気を吐き出すように力を履いた。
(慣れないことはするもんじゃないな)
少しでも彼女に大人になったと思って欲しくて、随分と攻めたことをやってしまった気がする。
(「恋心を忘れる魔法」って何だ、気持ち悪すぎるだろ……)
黒歴史すぎる。どうかエレナ先輩には都合よく俺の言葉だけ忘れて欲しい。
もっと侯爵様みたいに大人っぽい色気が欲しかったのだが、なかなかうまくいかないものだ。
会計を済ませながら、俺はぼんやり彼女と出会ったばかりの頃を思い出していた。
『近寄るなよ! ……俺は化け物なんだ』
魔力の扱いが上手くいかなかった俺は、教育係になったという彼女に向かって叫んでいた。誰からも見放され、かつて教育係についた魔法士たちは皆辞めていった。きっとコイツも同じだとそう思ったのに。
『――そう? あなたは、普通の男の子だわ』
彼女はそう言って、俺の手を取ったのだ。
俺の白黒だった世界に色を付けたのは貴方だ。一度は諦めたはずなのに、この思いはだんだんと膨れ上がって留まることを知らない。
「どうしたら振り向いてくれるんですか、エレナ先輩」
俺は彼女の薄いピンク色の前髪を優しく撫でた。




