37話 お帰りなさい
魔力を使いすぎたせいで身体に力が入らず、ぐったりと項垂れていると、隣にいたジルが私の腕を取った。
「無理をしないでください。歩けますか?」
「ええ。少し休めば大丈夫よ。ジルも人のことは言えないでしょう?」
彼の白い手袋はすっかり汚れ、豪華な礼装もずいぶんと派手に切り裂かれている。指摘すると、ジルは困ったように笑った。
「お互い様ということにしておきますか」
差し出された手を取り、森の入口に戻ると、焼け焦げた木々の根元に魔法士たちが座り込んでいた。その中に栗色の髪を見つけ、私は足を速めた。
「リネット!」
木の幹に背を預けていたリネットが、ゆっくりと顔を上げる。
「あら、随分と時間がかかりましたわね!」
よく見れば、いつも二つに結んでいたはずの栗色の髪は片方がほどけてボサボサだし、顔は土塗れだし、袖の一部も焼け焦げ、杖を持つ手には幾つもの傷ができているではないか。
「無事だったのね。よかった……」
「何が『無事だったのね』よ。こんなに泥だらけになって、本当に最悪ですわ! 帰りますわよ!」
強気に言いながら立ち上がろうとしたものの、足に力が入らなかったらしい。身体が傾き、そばにいたユアンが慌てて支えた。
「小隊長、無理しないでください。さっきから『筆頭はともかくエレナさんは大丈夫かしら』って泣きそうになってたじゃないですか」
「余計なことを言わないでちょうだい!」
ユアンは泥だらけの顔で笑った。
「でも隊長は凄かったんですよ。結界から出てきた魔物をほとんど一人で引きつけたんです。おかげで、一体も人里に行かせずに済みました!」
犠牲者は一人も出なかったのだという。
リネットや皆がここを守ってくれたおかげなのだと思うと、なんだか涙がこみ上げてきそうになる。
「ありがとう。あなたたちがここを守ってくれたから、私たちも擬態魔と戦えたわ」
「ふ、ふん! 小隊長として、やるべきことをしただけですわ!」
リネットは顔を背けたけれど、汚れた頬が少しだけ赤くなっていた。
その後、応援に駆けつけた魔法士たちが、壊れた結界の補修を始めた。
完全に直すには時間がかかるものの、残っている魔法石をつなぎ直せば、魔物が抜け出す隙間はひとまず塞げるらしい。
オズワルド団長が補修作業を指揮する間、私たちは苦い回復薬を飲み、傷の手当てを受けた。
やがて空が白み始めた頃、結界に入っていた亀裂がゆっくりと閉じていった。
◇
結界の応急処置を終えると、私たちは休息をとるために侯爵邸に向かうことになった。
馬車の窓から、見慣れた景色が流れていく。
領民のために何度も足を運んだ畑も、私が整備に関わった道も、今となっては遠い昔の思い出のようだ。
(まさか、こんな形で戻ってくるなんて……)
離縁して屋敷を出た日のことを思うと、今でもひどく胸が苦しくなる。でも、それはアルベルトを好きだからじゃない。
だって、今の私の好きな人は――。
侯爵家の門をくぐると、玄関前には大勢の使用人たちが集まっていた。
「奥様!」
一人の侍女が駆け寄ってきたかと思うと、そのまま私に抱きついた。
「えっ……」
「奥様ぁ、ご無事だったのですねぇ……!」
驚いている間にも、ほかの使用人たちが次々と集まってくる。
「本当によかった……」
「森に向かわれたと聞いて、どれほど心配したことか」
「もうお会いできないのではないかと……」
手を握られ、腕に縋りつかれ、あっという間に皆に囲まれてしまった。戦いを終えたばかりで、髪も服装もひどい状態なのに、誰も気にする様子はない。
泣きながら無事を喜んでくれる懐かしい顔を見ているうちに、私の目にも涙が滲んだ。
「皆、心配をかけてごめんなさい。でも、私はもう奥様ではないのよ」
「分かっております」
屋敷のほうから、家令のローレンツがゆっくりと歩いてくる。
いつも冷静だった彼の目にも、じんわりと涙が浮かんでいた。
「エレナ様がこの屋敷の奥様ではなくなったことは、私どもも承知しております。それでも、あなた様と過ごした日々がなくなるわけではございません」
「ローレンツ……」
「私どもにとって、今も大切な方であることに変わりはないのです」
そう言って、ローレンツが深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ、エレナ様」
もう、この屋敷に帰ってきたわけではない。
事件が終われば、私は王都にある小さな家に戻る。そこでまた、魔法士としての暮らしを続けていくつもりだ。
それでも今だけは。
「……ただいま、ローレンツ。皆も、ありがとう」
声が震えると、抱きついていた侍女がさらに大きな声で泣き始めた。
私がやってきたことは無駄じゃなかったんだと、アルベルトとの暮らしの中でも確かに誰かに慕われていたのだと気が付けたのは、きっと私が自立できたからだ。
使用人たちに案内され、応接室に入ると、アルベルトが椅子に座っていた。団長の話では、あまりに騒ぐので事情聴取も兼ねて連れてきたらしい。
両手は縄で縛られ、その両脇を二人の魔法士に固められている。髪は乱れており、顔色もひどく悪い。
私の姿を見た途端、アルベルトは椅子から身を乗り出した。
「っ、ミレーユは?」
口から出たのは、私が無事だったことへの言葉ではなく、やはりミレーユ様のことだった。
「おい、この期に及んでこの男は……」
オズワルド団長が呆れたように呟く。使用人も含めた、周囲からのこんな男に惚れこんでいたのかという視線が痛すぎる。
私は、魂が抜けた表情をしているアルベルトの元にしゃがみ込んだ。
「あの擬態魔は討伐しました」
「と、討伐……?」
「はい。もう二度と、ミレーユ様の姿に戻ることはありません」
アルベルトの顔から血の気が引いていく。彼にとっては酷な話だろうが、これは受け入れてもらわなければならない。
「では、一緒に暮らしていたミレーユは……本当に……っ」
最後まで言葉にすることができず、彼は全身から力が抜けたようにぐったりと項垂れた。
偽物だったのだと、ようやく認め始めたのかもしれない。
けれど、その事実を知ったところで、彼がしてきたことまで消えるわけではない。彼は、領民の安全よりもミレーユ様を優先して、貴族としての義務を放棄した。
これから、その罪を問われることになるのだから。




