36話 北の森の最終決戦
「うえ………転移魔法ってこんなに酔うのね」
「はい先輩、回復薬です」
ジルの差し出してくれた苦い回復薬を飲み、少しだけ胃のむかむかが減っていく。転移魔法は魔力を多く消費するため緊急時にしか使わない。私も転移魔法を使ったのは初めてだった。
一瞬で侯爵領についたことに驚きつつ、あたりをきょろきょろと見渡す。
「先輩、見てください。あれ……」
ジルが指さした森の上空を覆っていた結界には大きな亀裂が走り、その隙間から黒い霧が絶え間なく漏れ出している。
「結界が破られ始めている……」
アルベルトの話では、すでにいくつかの魔法石が壊されているのだ。このまま残りの石まで壊されてしまえば、森にいる魔物が一斉に領地に出てきてしまう。
「団長、ここは任せます。私とジルで、擬態魔を追います」
「待て。二人だけで行くつもりか?」
「大勢で追えば、魔物を人里に逃がす可能性があります。それに、こちらにも戦力を残さなければ、結界から出てくる魔物を止められません」
オズワルド団長はしばらく考えたあと、私たちに向かって頷いた。
「分かった。こちらで魔物を食い止める。だが、無理だと判断したらすぐに戻れ」
「承知しました」
ジルは、こんな状況なのに優しく私の手を取った。
「行きましょう、先輩」
「ええ」
二人で森の中に踏み込むと、すぐに激しい風が吹きつけてきた。
闇の中でがさごそと何かが動く音がする。夜会のために着てきた礼装の長い裾が木の根に引っかかりそうになり、片手で持ち上げながら走った。
(確か、魔法石はこの先に……!)
やがて木々が途切れ、広く開けた場所に出た。
その中央には、地面から半分ほど顔を出した大きな魔法石があった。表面にはすでに幾つもの亀裂が入り、その前にミレーユ様の姿をした女性が立っている。
「あら、追いつかれてしまったのね」
彼女は少しも焦ることなく、私たちを見て微笑んだ。夜会で見たときと同じ、穏やかで上品な笑顔だった。
けれど、今はもう、その姿に騙されることはない。
「へえ、この結界、あなたが管理していたの? 魔法石一個壊すのにとっても時間がかかるんだけれど」
「魔法石から離れなさい!」
私がそう告げると、偽のミレーユ様は楽しそうに目を細めた。
「嫌だ」
彼女はこの場に似つかわしくないくらいにっこりと笑みを浮かべた。
「森の中には、長い間閉じ込められてきた仲間が大勢いるの。街には餌が溢れているというのに、強い魔物ばかりを森に押し込めて、餌だけが安全に暮らしているなんて不公平でしょう?」
(――魔物に話が通じるはずがなかったわ)
「人間って、騙されやすくて本当に馬鹿よね? たくさん遊んでくれてありがとう」
亀裂の入った魔法石に、偽のミレーユ様が片手を触れる。
「この結界さえなくなれば、みんな自由になるわ」
「させないわ!」
私は杖を構え、急いで魔法陣を描いた。
完成した魔法陣から氷の矢が放たれ、魔法石に触れていた彼女の腕を貫く。けれど、傷口から流れ出したのは血ではなく――霧だった。
「先輩は右をお願いします。俺は左を」
「分かったわ」
二人で左右に分かれ、次々と魔法陣を描いては魔物を追い詰めていく。
けれど、やはり一級の魔物だからかかなりしぶとい。魔法でえぐられた傷も、すぐに塞がってしまう。
「本体は、あの分身とは比べものにならないくらい強いですね」
「何度でも再生するみたい。どこかに弱点があるはずよ!」
そう話している間にも、擬態魔の身体から霧が溢れ出した。あっという間に視界を覆われ、すぐ隣にいたジルの姿さえ見えなくなる。
「ジル!」
呼びかけても返事はなく、私は杖を構えたまま周囲を見回した。やがて正面の霧がぱっと晴れて、ジルが姿を現す。
「先輩、こちらです。危険ですから、離れないでください」
ジルは私の前まで来ると、いつものように片手を差し出した。
(あれ……?)
顔も声も、話し方まで。本物と何一つ同じなのに……私にはわかってしまった。
「あなたは、ジルじゃないわ」
私は、魔物に向かって攻撃を放った。
氷の矢で胸を貫かれた偽のジルの姿がぐにゃりと崩れる。その瞬間、黒い霧の中に、丸い核のようなものが見えた。
どくどくと脈打つ心臓のようなそれは、すぐに霧に隠れ、擬態魔の身体に戻っていく。
(今のは……?)
「先輩!」
背後から呼ばれて振り返ると、霧の向こうから本物のジルが駆け寄ってきた。
彼は真っ先に私に怪我がないか確かめ、安堵したようだった。
「先輩、どうして偽物だって分かったんですか?」
「分からないけれど、なんとなく?」
ジルは面食らったような顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
「それは、かなり嬉しいですね」
ジルは、頬の擦り傷を手で拭いながら笑った。そして、私たちは魔物に向き直った。
「先輩が攻撃したあと、胸元に核が見えたでしょう。あれが奴の弱点です」
私は、先日の討伐でもジルが宝石のような核を壊して魔物を倒していたことを思い出した。
「俺が核を壊します。先輩は、あいつの動きを止めてもらえますか?」
「ええ。任せて」
私は地面に向けて杖を動かし、大きな拘束の魔法陣を描き始めた。
擬態魔は私の狙いに気づき、にゅるにゅると背中から何本もの黒い腕を伸ばしてくる。
(ひ! 気持ち悪い!)
けれど、ジルが次々と攻撃の魔法陣を描き、その腕を弾き返した。
「先輩、そのまま続けてください!」
ジルを信じ、目の前の魔法陣に集中する。
そして、魔力を流し込めば、乳白色の光が擬態魔の足元に広がった。
「捕まえたわ!」
魔法陣から伸びた氷の鎖が、ぴしりと擬態魔の腕と身体に巻きつく。
擬態魔が暴れるたびに、杖を握った手に強い痛みが走った。それでも魔力を注ぎ続け、動きを押さえ込む。
「ジル、今よ!」
私の隣で、ジルが攻撃の魔法陣を描き始める。
擬態魔はミレーユ様からアルベルトに――そして私へと姿を変えた。
「ジル……助けて。痛いわ」
私と同じ顔で涙を浮かべ、ジルに手を伸ばす。その胸元に怪しく光った核が現れた。
「残念。大好きな先輩は、もう俺の隣にいるからな」
ジルは軽蔑したように目を細めた。そして、稲妻のように、藍色の魔力が走る。
「ぐ、ぐあ……っ」
魔物の核に亀裂が走り、甲高い音を立てて砕け散った。
擬態魔の身体も黒い霧となり、今度は元に戻ることなく、夜風に流されて消えていった。




