32話 もう一人の彼女
「後輩として慕っているのではありません。一人の女性として、先輩が結婚する前からずっとずっと好きでした」
それなら、郵便局で言われたことも、デートに誘われたことも、今までとはまるで違う意味に思えてくる。
何か答えなければと思うのに、驚きで胸がいっぱいになり、言葉が浮かばなかった。
まっすぐに真剣な顔でそう伝えられて、どうすればいいのか分からなくなってしまう。
「今すぐ返事が欲しいわけではありません」
迷っていることを察したらしく、ジルは壁についていた手を下ろすと、私から一歩離れた。
「ただ、俺が先輩のために何かをするのは、元気づけたいだけでも、昔の恩を返したいからでもありません。俺自身が先輩のそばにいたいからです」
「……分かったわ」
「本当に分かりましたか?」
「今度こそ、たぶん」
自信なく答えると、ジルは困ったように笑った。その表情は普段の彼に近くて、やっといつもの距離に戻った感じがする。
「そろそろ戻りましょうか」
差し出された白い手袋に包まれた手を見て、デートの始めに彼が手を差し出してくれたことを思い出した。
今はまだ、ジルの気持ちに何と答えればよいのか分からないけれど。
「ええ」
手を重ねると、ジルはびくりと肩を震わせたあと、大切なものに触れるように、そっと握り返してくれた。
そのまま二人で大広間に戻ったところで、聞き慣れた声に呼び止められる。
「エレナ」
振り向くと、正装したアルベルトが立っていた。
その隣には、彼の腕に手を添えたミレーユ様がいる。アルベルトは私たちの顔を交互に見たあと、つないだ手に視線を落とし、表情を強張らせた。
(本当に、毎回タイミングが悪い人!)
アルベルトに見られてしまったこの状況は、この前と同じはずなのに、不思議と逃げ出したい気持ちにはならなかった。
「陛下から、魔物討伐の功績を称えられたそうだな」
祝いの言葉を口にしているはずなのに、アルベルトは複雑そうな表情を浮かべている。
「エレナ様、ご活躍は私も伺っております。おめでとうございます」
ミレーユ様は穏やかに微笑んだ。
慣れない場所を怖がり、夜会に出たがらないと聞いていたけれど、今夜の彼女に怯えている様子はない。大勢の視線を浴びても落ち着いており、まるで何度もこうした場に出ているように見えた。
「あら、エレナ様ではありませんか」
声をかけてきたのは、侯爵夫人だった頃に親しくしていた年配の夫人だった。社交界を仕切っている噂好きの権力者である。
「王都に戻られたとは聞いておりましたけれど、お会いできて嬉しいわ。侯爵家にいらした頃も領地や社交のことを見事に取り仕切っていらしたのに、魔法士としても陛下からお褒めの言葉をいただくなんて、本当に何をなさっても優秀なのね」
「ありがとうございます。私一人の力ではありません」
「相変わらず謙虚でいらっしゃること」
夫人は親しげに私の手を取ったあと、アルベルトとミレーユ様に向き直った。
「そういえば、今年の慈善会について侯爵家に何度かお手紙を差し上げましたが、まだお返事をいただけておりませんの」
「それは……屋敷に戻り次第、確認させます」
「あら、アルベルト様はご存じなかったのですね。以前はエレナ様が早くにお返事をくださったので、皆もどうしたものかと困っておりますのよ」
責めているわけではないのだろうけれど、周囲にいた者たちがアルベルトに視線を向ける。
「新しい奥方様も、これほど何でもこなされる方のあとでは大変でしょうね」
「……」
アルベルトは何も言わず、きつく唇を結んでいる。
以前なら私が話題を変え、夫人との間を取り持っていたけれど、今の私がその役目を引き受ける必要はない。
そんなアルベルトを見て、ミレーユ様は場違いかと思うほどニコニコと微笑んでいる。まるで、この状況を楽しんでいるようで、もはや不気味なほどだ。
やがて気まずさに耐えかねたように、アルベルトは一礼してその場を去っていった。
夫人は困ったように頬に手を当てた。
「エレナ様がいらっしゃらなくなってから、侯爵家とはなかなか話が進まなくて。あなたがどれほど多くのことを引き受けていたのか、今になってよく分かりましたわ」
返事に困っていると、ジルが私の手を握ったまま、アルベルトの背中を見つめていることに気づいた。
「ジル?」
「いえ。先輩があの家に戻らなくて、本当によかったと思っただけです」
そのとき、会場の入口から一人の魔法士が駆け込んできた。
王宮の夜会には不似合いな慌ただしさで周囲を見回し、ジルの姿を見つけると、真っ直ぐこちらに向かってくる。
「筆頭、至急お耳に入れたいことがございます」
「何があった?」
魔法士はジルの耳元に顔を寄せ、周囲には届かないほど声を落とした。
「先ほど、ミレーユ・オルタンと名乗る女性が魔法士団本部に駆け込み、保護を求めてまいりました」
すぐ隣にいた私には、その言葉が聞こえてしまった。息を呑んでジルを見ると、彼も表情を強張らせている。
「その女性を安全な部屋で保護し、すぐに団長に知らせろ。このことは、まだほかの者には話さないように」
「承知しました」
魔法士が足早に立ち去ると、私は広間の向こうに目を向けた。
アルベルトの隣には、ミレーユ様がいる。彼女は私の視線に気づくと、不思議そうに首を傾げた。
(ミレーユ様は、ここにいるのに……)
では、魔法士団本部で保護を求めている女性は、いったい誰なのだろう。




