3話 あの後輩が、筆頭魔法士?
「先輩ですよね。どうして、王都に……」
筆頭魔法士の男性は、一緒にいた部下たちを置き去りにして私のもとへ駆け寄ってきた。
近くで見ると、ますます見目のよい人だった。
澄んだサファイアの瞳が、信じられないものを見るように私を見つめていた。
どうやら人違いではなく、私に話しかけているらしい。
だけど、こんなに目立つ男性と知り合いだった記憶はない。
「あの……どちら様でしょうか?」
「えっ」
私が尋ねると、彼はあからさまにショックを受けた顔をした。
先ほどまでの冷静な筆頭魔法士の面影はどこへやら、捨てられた子犬のように眉尻が下がっていく。
「俺です。ジルです。ジル・レーヴェン」
「ジル……?」
聞き覚えのある名前を頭の中で繰り返す。
「もしかして、あのジル!?」
「はい! あのジルです!」
ジルは、私が王立魔法士団に所属していた頃の直属の後輩だ。
並外れた魔力量を持っていたものの、その制御が不得意で、問題ばかり起こしていた子だった。
『先輩、俺、もう辞めたいです……』
任務で失敗するたびに私のもとへやってきて、何度そう泣き言を漏らしていたことだろう。
『一度失敗したくらいで辞めるなんて言わないの。次は失敗しない方法を考えましょう』
『でも、また暴発させたら……』
『その時は私も一緒に始末書を書いてあげるから!』
『でも、俺にはもう無理なんじゃ』
そう泣きじゃくるジルに、いつも背中を叩きながら励ましていた。
『自分には無理だと決めるのは、できることを全部試してからにしなさい!』
当時のジルは背丈も私より少し高い程度で、顔立ちにもまだ可愛らしさが残っていたはず。
それが五年の間に、いったい何があったのだろう。
見上げなければ顔が見えないほど背が伸びているし、頼りなかった体つきも、今では紺色の制服が似合う立派なものになっている。
何より、あれほど魔力制御に苦労していた彼が筆頭魔法士になっているなんて。
「先輩、覚えていてくれたんですね。よかった」
嬉しそうに笑ったジルの口元から、八重歯が覗いた。
その笑い方には、昔の面影がはっきりと残っている。
「本当にジルなのね……!」
「さっき名乗ったじゃないですか」
「だって、あまりにも変わっているから。背もこんなに大きくなって……」
「近所のおばちゃんみたいなこと言わないでください」
不満そうに唇を尖らせる表情も、昔と同じだった。
整った容姿と立派な制服に惑わされていたけれど、間違いない。
彼は私の後輩である。
「それにしても、あなたが筆頭魔法士だなんて。本当に立派になったのね」
「先輩に辞めるなって何度も叱られましたから」
「叱ってはいないわ。励ましていたのよ」
「そうだったんですか? 先輩、結構怖かったですよ」
「それはあなたが、同じ失敗を何度も繰り返すからでしょう!」
懐かしいやり取りに、頬が緩んでいく。
思えば、誰かとこんなふうに気兼ねなく話すのは、随分と久しぶりな気がする。
けれど、私たちが昔話をしている間、周囲は妙な雰囲気に包まれていた。
「……筆頭が笑っている」
「『先輩』って、いったい何者なんだ?」
「というか、あんな話し方をなさるんだ……」
小声で交わされている魔法士たちの言葉が、耳に届いた。
私は首を傾げる。それじゃあ、まるでジルが怖い人みたいな――。
「――お前たち、聞こえているぞ」
ジルが振り返り、ぞっとするほど低い声で告げる。
それだけで、先ほどまで囁き合っていた魔法士たちがぴしりと背筋を伸ばした。
(……二重人格!?)
あまりの変わりように驚いていると、魔法士たちはあわあわしながら頭を下げる。
「も、申し訳ありません!」
「ご、ごめんね。任務帰りなのでしょう? 引き止めてしまってごめんなさい」
私が慌ててそう言い、片手を上げる。その時、ふとジルの視線が私の左手に止まった。
――正確には、何も嵌まっていない薬指に。
彼の表情から、すうっと笑みが消えた。
「先輩」
「な、何かしら」
「結婚指輪はどうしたんですか?」
ぎゅっと心臓を直接つかまれたような気がした。反射的に左手を隠そうとしたけれど、もう遅い。
「今日は、たまたま外しているだけですか?」
「それは……」
「先輩?」
ずいっと顔を覗き込まれて、私はだらだらと汗をかくことしかできない。
彼は筆頭魔法士。いずれ社交界にて、私が離縁したことは知られるのだ。隠し続けられるものでもない。
「あのね。アルベルトとは、離縁したの」
「……え?」
彼の形のいい瞳が、大きく見開かれた。
ジルの後ろにいる魔法士たちも驚いているけれど、今は気にする余裕がない。
「何があったんですか」
「いろいろあったの。でも、もう終わったことだから」
「終わったことって……」
納得がいかないような顔をしているジルに告げる。
「私は大丈夫よ」
ここ数日間で、いったい何度この言葉を口にしただろう。
だから今回も、いつものように微笑んでみせようとしたのに。
「だから、ジルも心配しないで――」
そこで、不意に視界が歪んで、頬を温かいものが伝った。
それが涙だと気づいたのは、ジルの表情ががらりと変わったからだ。
「あ……」
慌てて指先で拭うけれど、一度こぼれた涙は止まってくれなかった。
両親の前ですら泣けなかったのに、五年ぶりに会った後輩の前で、どうして今さら泣いているのだろう。
「ご、ごめんなさい。違うの。これは……」
「先輩、少し待っていてください」
ジルはそう告げると、部下たちへ向き直った。
先ほどまで私に見せていた柔らかな表情は消え、再び筆頭魔法士の顔に戻っている。
「今日の報告は団長へ提出しておけ。残りの確認は明日の朝に、俺がやるから」
「しかし筆頭、このあとの会議は――」
「緊急の案件だけ団長へ回せ。それ以外は明日で構わないだろう」
「ですが……」
ジルの瞳がすっと細められた。
「これは命令だ。俺の人生がかかってる」
「承知いたしました!」
(俺の……人生?)
聞き返したくて仕方ないけれど、ジルが殺気に近いものを放っており、口をつぐんだ。
魔法士たちは、私が何者なのか気になって仕方がないらしく、立ち去りながらも何度もこちらを振り返っている。
全員の姿が見えなくなってから、私はジルを見上げた。
「よかったの? 私のために仕事を中断するなんて」
「まあ、明日の俺が苦労するでしょうけど」
ジルは、まるで太陽かと思うほど眩しい笑みを浮かべてみせるのだ。
「――でも、今は先輩の方が大事だから」
誰かに自分の方が大事だと言ってもらえることが、こんなにも嬉しいなんて忘れてしまっていた気がする。
「……ありがとう」
声を震わせる私に、ジルは白いハンカチを差し出した。
「先輩は昔から、つらい時ほど大丈夫なふりをしますよね」
「そんなこと……」
「少なくとも今は、無理に笑わなくていいですから」
否定できず、私は借りたハンカチで涙を拭った。
ジルはそれ以上何も尋ねず、私が泣き止むまで待ってくれた。
「先輩、こういう時はお酒ですよ。お酒! 今日は俺の奢りです!」
どこかで聞いたことのあるようなセリフに、ふっと吹き出して笑った。
「……それ、昔の私の真似?」
魔法士団にいた頃は、よく皆と飲んでいたことを思い出す。特に、嫌なことがあった日なんてお酒を飲まないとやっていられなかった。
ジルはちろりと舌を出して悪戯っぽく笑った。




