2話 さよなら、旦那様
離縁の手続きを始めてから一週間が経った。私は荷物を纏めて、屋敷を発つ準備を始めていた。
ちなみに実家に離縁を知らせる手紙を送ったところ、王都で暮らせばいいと返事が返ってきた。そもそも私の希望を無視して縁談を持ってきたような実家だから、関係は上手くいっていない。
こういう時、帰る家があるとどんなに救われるだろう。
(まだ、夢を見てるみたい)
荷物を整理しながら、私は、どこかでまだ期待を捨てられずにいた。
最後の最後にはアルベルトが考えを変えて、やっぱり君を選ぶと言ってくれるのではないかと。
自分でも、ひどく往生際が悪いと思う。
そんな日の午後、荷造りに使っていた紐が足りなくなり、一階の物置へ向かって廊下を歩いていた時だった。
「白も素敵ですけれど、こちらの少し青みがかった方が、私には似合うと思うのです!」
応接室の向こう側から聞こえた、可憐な鈴の鳴るような特徴的な声に背筋が凍り付いた。
――ミレーユ様である。
どうして彼女が屋敷にきているんだろうかと疑問に思っていると、扉の向こう側から続けて会話が聞こえてきた。
「アルベルト様は、どちらがお好きですか?」
「俺に聞かれても分からない。君が着るものなんだから、君が好きな方を選べばいいだろう」
盗み聞きなんてするつもりなかったのに、私は手にしていた紐を強く握りしめたままその場で立ち止まってしまった。
「では、こちらの生地を第一候補にいたしましょう。ミレーユ様は華奢でいらっしゃいますから、この形もきっとよくお似合いになりますよ」
「まあ、本当ですか? 結婚式が楽しみです!」
楽しそうに弾む声を聞きながら、私はようやく何の話をしているのか理解した。
――花嫁衣装だ。
私はふと、自分の結婚式のことを思い出していた。
両親を事故で失ったばかりのアルベルトが若くして侯爵位を継いだ頃、クライン侯爵家は決して安定していたわけではなかった。だから、私たちの挙式は親しい人間だけを呼んで慎ましく執り行ったのだ。
あれから五年。
アルベルト自身もよく働き、侯爵家は立て直され、私の実家には借金を返すどころか、お礼として追加で莫大な資金を支払った。世間から見ても、クライン侯爵家は義理堅いと評価を受けていた。
「ふふ、本当に楽しみですわ」
嬉しそうに笑うミレーユ様の声を聞いたところで、私はようやくその場を離れた。
これ以上、ここにいたら私が惨めになるだけだからだ。
自室へ戻って扉を閉めると、部屋の中には途中まで荷物を詰めた箱がいくつも並んでいた。
アルベルトと初めて観劇へ行った時に着たドレス。
誕生日にもらった髪飾り。
領地へ向かう馬車の中で二人して読み、どちらが先に犯人を当てるか競った小説。
どれも見れば、その時のことをすぐに思い出せる。
彼との五年間を後悔しているわけではない。
(幸せだった。少なくとも、私は)
離縁状はもう提出しており、受理の連絡を待つだけなのだ。
私がいつまでもここに居座るのが間違いだったのかもしれない。
私は床に膝をつくと、箱から必要最低限の荷物だけ出して、旅行カバンに詰め込んだ。思い出を持って行けば、自分が辛くなってしまうのが明らかだった。
箱のものは全て処分するように書き置きを残して、旅行カバンを手に玄関を出ると、待たせていた馬車へ乗り込んだ。
「奥様!」
御者が馬を出そうとしたところで、屋敷の方向から呼び止められた。
振り返ると、家令のローレンツが息を切らしながらこちらへ向かってくる。彼は先代の頃からクライン侯爵家に仕える侯爵家の重鎮である。
「ローレンツ。どうしたの?」
「どうしたのではございません。お発ちになるのなら、せめて私どもに一言お声をかけてください」
「ごめんなさい。騒ぎにしたくなかったの」
ローレンツは何かを堪えるように唇を引き結んだ。
「奥様がいなくなられたあと、この屋敷がどうなるのか……。私には、かの方に侯爵夫人が務まるとはとても思えません」
「ローレンツ」
「失言でございました」
深く頭を下げながらも、撤回するつもりはなさそうだった。確かに、アルベルトがミレーユ様にうつつを抜かして仕事を放り投げてからというもの、家のことは全て私が回してきた。しばらくは、ローレンツに苦労をかけてしまうのが申し訳ない気持ちだ。
「私はもう奥様ではないわ。この家をよろしくね」
そう告げたとき、今度は屋敷の方からいくつもの足音が聞こえてきた。
「奥様、お待ちください!」
「行ってしまわれるなんて、本当ですか?」
顔を上げると、侍女たちがこちらへ駆けてくるところだった。
みな、手には箒や雑巾を握りしめている。どうやら仕事の途中で飛び出してきたらしい。
「奥様がいなくなるなら、私、屋敷を辞めます!」
「私もです!」
「ちょっと待って。どうしてそうなるの?」
急な辞職宣言に苦笑いすると、侍女たちは揃って泣きそうな顔をした。
「だって、奥様がいらっしゃらない屋敷で働くなんて……」
「駄目よ。あなたたちが暮らしていけなくなっちゃうでしょ?」
本当は、私だって寂しい。
けれど口にすれば泣いてしまいそうで、私は笑って手を振った。
「皆、元気でね」
ゆっくりと動き始めた窓の向こう側で、ローレンツが深く腰を折った。侍女たちも涙を拭いながら、何度も手を振っている。
何よりも愛おしかったこの場所を離れるのは、思っていたよりもずっと辛かった。
それでも私は、遠ざかっていく屋敷から目を離し、前を向いた。
ああ、あなたへの恋心なんて早く忘れられたらいいのに。
◇
数日後、私は王都の中心部で馬車を降りた。
荷物は、ひとまず御者に頼んで宿へ運んでもらうことにした。
(旅行カバンで飛び出してきたのは正解だったわね……)
まだ夕方だったから、部屋に一人で閉じこもる気にはなれなくて、私は街を散策することにした。
行き先も決めず、人の流れに交じって歩く。
焼きたてのパンの匂いが通りに漂い、露店には色とりどりの果物が並んでいる。
魔法士団に所属していたころは、よくこの辺りをパトロールしていたから、懐かしい気持ちでいっぱいになる。
家柄ではなく、自分の力ひとつでのし上がることのできる環境は本当に心地が良かった。
(それでも、私がアルベルトを選んだんだから)
向かいから歩いてきた若い夫婦が、楽しそうに笑っているのが目に入り、私はいたたまれない気持ちになっていく。
(どこで間違えてしまったんだろう)
魔法士でもない、侯爵夫人でもない、伯爵令嬢にも戻れない。
では今の私は、何なのだろう。
役目がなくなった途端、自分の中にぽっかり穴が空いてしまったようだった。
何をして生きていくのか考えようとするたび、頭の中がうまくまとまらない。
(もう今日は宿に帰ろう)
その時だった。
向かいから、紺色の制服に身を包んだ魔法士たちが歩いてきた。
五人ほどの一団は、どうやら任務から戻る途中らしい。杖や書類鞄を手にした彼らは、歩きながら今後の対応について言葉を交わしている。
かつて自分も着ていた制服を懐かしく思い、私は何気なくその姿を目で追った。
その中でも、集団の中央を歩く男性がひと際目を引いた。銀糸の装飾が施された長いローブは、王立魔法士団で最も優秀とされる魔法士だけに許されるものだ。
(あの方が、今の筆頭魔法士なのね)
私が所属していた頃の筆頭は、とうに引退したと聞いている。
後任にずいぶん若い人物が選ばれたという噂も、社交の場で耳にした覚えがあった。
周囲の魔法士より頭ひとつ分ほど背が高く、長い脚で歩く姿は、遠目から見てもかなり目立っていた。
涼しげな目元と、すっと通った鼻筋。きりりと結ばれた口元まで美しく、まるで腕のよい彫刻師が丹念に作り上げたような顔立ちをしている。
部下の報告に耳を傾ける眼差しは冷静で、筆頭魔法士としては驚くほど若いのに、周囲の者たちは彼へ従っている。
通りにいた女性たちが、彼の姿を見て頬を染めて囁き合っている。
私もつられるように、その横顔を目で追ってしまう。
(随分と綺麗な方……)
そんなことを考えているうちに、一団は私の横を通り過ぎていく。
けれど、数歩進んだところで、筆頭魔法士の男性が突然足を止めた。
何かを感じ取ったように振り返り、真っ直ぐに私を見る。鋭かった藍色の瞳が、大きく見開かれた。
「……先輩?」
(えっ?)
思いがけない呼びかけに、私はポカンと口を開けた。




