1話 結婚五年目、離縁の決意
『先輩、結婚おめでとうございます!』
あの時、純白のドレスを纏った花嫁姿の私を見た君は、そう言って無邪気に笑ってくれたのに。
「先輩、逃げないでください」
「だ、だって……」
気づけば壁に追い詰められており、すぐ目の前にはジルの顔があった。
すっと通った鼻筋も、意志の強そうな口元も、見上げてしまうほどの長身も――もう昔の少年らしさはすっかり抜けてしまったと改めて実感させられる。
彼以外纏うことが許されない筆頭魔法士の制服が、もう“可愛い後輩”ではないことを容赦なく突きつけてくる。
「あなたが結婚する時、俺がどういう気持ちだったか分かりますか?」
意味がわからず、私はただただ彼を見上げる。
「ど、どういう気持ちって……?」
ジルがふっと目を細める。
その眼差しは、獲物を逃がさない肉食獣みたいに熱くて。
「それは……さすがに鈍感すぎませんか? エレナ先輩」
――こんな後輩、私は知らない!
【愛人を選んだ旦那様と離縁したので、恋心を忘れる魔法をかけてもらった】
「正妻の座を、私に譲ってくださいませんか?」
あまりにも突拍子のない言葉に、私はすぐには意味を理解できず、ぱちぱちと瞬きをした。
応接室の向かい側のソファに座ったミレーユ・オルタン様が両手を膝の上に揃え、緊張した面持ちでこちらを見つめている。
淡い蜂蜜色の髪に、潤んだ青い瞳。
一年ほど前に夫を亡くした彼女は、黒を基調とした控えめなドレスに身を包んでいた。
喪が明けてからも派手な装いを避けているせいか、私と同じ年齢なのにも関わらずずっと儚く見える。
(どうしよう、どうすれば……)
言い返そうとしたのに、口から言葉が全然出てこない。
もし、これがミレーユ様おひとりだったら、きっと何かの冗談だろうと思えたはずだ。私がこんなにも動揺しているのは、ミレーユ様の隣に――夫であるアルベルトまで座っていたからだ。
「俺からも、頼む」
アルベルトの言葉に、鈍器で殴られたかのように頭がくらくらとしてきた。
私は、何か悪い夢を見ているのだろうか。
「俺は、ずっとミレーユのことが好きだった。だから、彼女を妻にしたい」
「ずっと……?」
ミレーユ様が夫を亡くしてから、彼女の幼馴染であるアルベルトが何かと気にかけていたことは知っていた。
生活に困っていると聞けば援助をしていたし、理由をつけては屋敷を訪ねていた。体調を崩せば医師を手配し、つきっきりで看病していたこともある。
(そのおかげで、私はここ一年領地の仕事を任されっぱなしだったのよね……)
もちろん、妻として思うところがなかったわけではない。
けれど夫を失ったばかりの孤独な幼馴染を放っておけないのだと思おうとしてきた。
「アルベルト様は、とてもお優しい方です」
ミレーユ様は胸元で手を握った。
「私がどれほど救われたか分かりません。夫を亡くして、何も考えられなくなっていた私を、ずっと支えてくださいました」
「そういうわけだ、エレナ」
「待ってください!」
アルベルトが話を纏めようとしたため、私は慌てて彼の言葉を遮った。
これでも五年も一緒に暮らしてきたのだ。「離縁しましょう」「はいそうですか」なんて簡単に話が進むわけがない。
「それなら、今のままでは駄目なのでしょうか」
「えっ?」
「これまでどおり、ミレーユ様を支えても構いません。ですから、どうか!」
思わず立ち上がって声を張り上げてしまった。
我ながら、みっともないと思う。浮気をされても、離縁してくれとまで言われたって、夫に捨てないでほしいと縋っているのだから。
それでも、引き下がれない。
だって、私は、アルベルトにひどく惚れている――。
アルベルトとの婚約は、両家の利害が一致したことから始まった。
両親を事故で失ったばかりの彼は、若くして侯爵位を継いだものの、後ろ盾も乏しかった。そこで私の父は、我が家から一時的に資金と領地経営の支援をする代わりに、私との縁談を持ちかけたのだ。
『結婚なんてしたくありません!』
当時、魔法士として順調に出世していた私は、当然のように反発した。結婚するつもりなどなかったし、ほとんど知らない侯爵の妻になるなんて御免だった。
それでも顔合わせを重ねるうちに、少しずつ彼を知った。
料理を口いっぱいに頬張って「おいしい」と言ったこと。両親の話になると、決まって窓の外を見ていたこと。
気づけば、彼となら一緒に生きていきたいと思うようになっていた。
『僕と結婚してください』
『ええ、もちろん!』
『……! 大切にするよ』
だから今だって、こんなにもアルベルトに失望しているのに、簡単に決断を下すことができない。そんな私をみて、ミレーユ様は憐れんだ表情を浮かべる。
「エレナ様は、美しくて、聡明で、社交も領地のことも何でもお出来になる。アルベルト様だって、あなたを妻として尊敬していらっしゃいます……でも、それは愛とは違うと思うんです」
ミレーユ様の言葉に、アルベルトも深く頷いた。
「そうだ。君は一人でも生きていけるだろう?」
「……」
「俺もミレーユも、家族を失って孤独を味わったんだ。この気持ちは君には分かりようがない」
アルベルトは、今にも泣きだしそうなミレーユ様の肩を抱いた。
その目は、私ではなく彼女だけを見つめていて。
(ああ、もう。終わってしまったんだ……)
左手の薬指を見る。
そこには、五年前にアルベルトが嵌めてくれた結婚指輪がある。
プロポーズしてくれた時の彼は、私以上に緊張していた。
指輪を嵌める手が少し震えていて、二人で笑い合った時に感じた気持ちはきっと嘘じゃなかったと思いたいのに。
「……分かりました」
指輪に少しだけ力を入れると、ようやく薬指から抜けた。
白く残った跡が、痛々しい。
「離縁を受け入れます」




