24話 幸せを願うだけでは、足りなくて
エレナ先輩は俺の訓練に付き合うだけではなく、団長から特別に許可を取り、少しずつ外の世界に連れ出してくれた。
失敗をした日には、落ち込む俺を王都のパン屋に連れていき、蜂蜜パンを買ってくれた。
『俺が店に入ったら、迷惑をかけるかもしれません』
『パンを買うだけよ?』
店の扉を開けることさえ躊躇していた俺の手を引き、先輩は何事もないように中に入った。生まれて初めて食べた焼きたてのパンは本当に美味しかった。
先輩はパン屋だけでなく、団員たちが集まる食堂や本の並ぶ図書室にも俺を連れていき、休みの日には買い物に付き合わせた。初めのうちは周囲の視線が気になり、用事が済めばすぐに部屋に戻ろうとしたけれど、先輩は誰かに見られても態度を変えず、ほかの見習いたちと同じように俺を叱り、笑いかけた。
誰かと向かい合って食事をすることも、店先に並ぶ品物を眺めることも、それまでの俺には縁のないものだった。閉ざされた部屋しか知らなかった俺に、普通に暮らすとはどういうことなのかを教えてくれたのは、エレナ先輩だった。
そして、訓練を重ねるうちに暴発は少しずつ減り、先輩の付き添いがなくても部屋の外に出られるようになると、ようやく保護対象ではなく、ほかの者と同じ見習いとして扱われるようになった。
その後、正式な魔法士になるための試験にも合格した。結果を伝えると、先輩は自分のことのように喜んでくれたことを今でも覚えている。
自分の杖を作るために世界樹のもとを訪れた日も、先輩は最後まで付き合ってくれた。
俺が自分の背丈ほどある枝を選ぼうとすれば、大きければ強い魔法を使えるわけではないと呆れ、魔法石が決まらずに辺りが暗くなっても、まだ探していない場所があると言って帰ろうとしなかった。
そして、大きな根の陰で深い藍色の石を見つけた。
『綺麗……魔法士の制服と同じ色ね』
『俺には似合わない気がします』
『今はそうでも、いつか必ず似合うようになるわ。ジルはきっと、立派な魔法士になるもの』
先輩が信じる未来に辿り着きたくて、俺は訓練を続けた。
少しずつ任務を任されるようになっても、失敗するたびに先輩のところに行けば、厳しく叱ったあとで必ず次に直すべきところを教えてくれた。
俺にとって先輩は、初めて信じられた人であり、追いつきたい目標でもあった。
それが恋だと気づいたのは――いつだっただろう。
もっと頼ってほしい。いつか守られる必要がなくなるくらい強くなり、今度は自分がこの人を支えたい。
そう願う気持ちが、後輩としての憧れだけではないと自覚するまで、それほど時間はかからなかった気がする。
けれど、気持ちを伝えられるほど成長する前に――先輩は別の男との結婚を決めた。
『私、結婚することになったの。魔法士団も辞めるわ』
訓練を終えたあとの帰り道で、先輩はさらりと告げた。
突然のことで何も考えられなくなったのに、口から出たのは、聞き分けのよい後輩の言葉で。
『……おめでとうございます』
『ありがとう。ジルなら、もう一人でも大丈夫ね』
『はい。少し寂しいですが、大丈夫です!』
本当は、少しも大丈夫ではなかったのに。
行かないでほしい。結婚などしないで、これまでと同じようにそばにいてほしい。
(……どうすれば、振り向いてくれる?)
けれど、いまだに先輩に助けられてばかりで、地位も実績もない俺が、彼女を引き留めてどうするのか。先輩の将来に責任を持つこともできないまま、自分が寂しいという理由だけで縋ることはできなかった。
だから笑って見送った。
彼女が去ったあとも魔法士団に残り、さらに魔力の制御を覚え、誰よりも多くの任務をこなした。小隊長になり、部隊長になり、筆頭魔法士になっても、心のどこかではずっと、先輩が戻ってきたときに恥ずかしくない自分でありたいと願っていた。
結婚した先輩が幸せなら、それでよかった。
だが、五年ぶりに再会した彼女は、以前よりも痩せ、どこか自信を失ったような顔をしていた。
(幸せにできないのなら、どうして俺から奪ったんだ)
そんな身勝手な怒りと同時に、一度でも気持ちを伝えていれば、何かが変わったのではないかという後悔が込み上げた。
もう二度と、何も言わないまま大切な人を手放したくなかった。
たとえ、それが侯爵様を忘れるための、ただの手段だったとしても。
◇
準備を終えて時計を見ると、まだ待ち合わせまでかなり時間があった。だけどなんだか落ち着かなくて、家を出た。
王都の中心にある噴水広場に着いたのは、約束より一時間も早い時間だった。
当然、先輩はまだ来ていない。
噴水の前で待ちながら、何度も人の行き交う通りに目を向ける。オズワルド団長の退屈な話を聞いているときですら、これほど時間が進むのを遅く感じたことはなかった。
やがて広場の時計が約束の時間に近づいた頃、淡いブルーのワンピースを着た女性が、こちらに歩いてくるのが見えた。
綺麗に結い上げられた髪には、細いリボンが結ばれている。見慣れているはずの顔なのに、すぐには先輩だと分からなかった。
「ジル?」
立ち尽くしたままの俺を不思議に思ったのか、先輩が顔を覗き込んでくる。
「ごめんなさい。待たせた?」
「いいえ。俺が早く来すぎただけです」
「どのくらい前に来たの?」
「……少し前です」
一時間前から待っていたなどと言えば、呆れられるに決まっている。
誤魔化すように視線を逸らしたものの、先輩の姿が見たくて、じっと見下ろしてしまう。
「先輩、その服……」
「変かしら? リネットにおすすめされた店で買ってみたのだけれど」
「違います。その、とっても綺麗です」
もっと気の利いた言葉を用意していたはずなのに、実際に先輩を前にすると、それしか出てこなかった。語彙力のない自分がもどかしい。
先輩はぱちぱちと瞬いたあと、少し照れたように笑う。
「ありがとう。少し気合いを入れすぎたかと思っていたの」
「そんなことありません。俺も、もっと気合いを入れてくればよかったです」
「ジルも素敵よ。いつもと雰囲気が違って、少し驚いたわ」
何気なく返された言葉だけで、先ほどまでの緊張が嘘のように解けていく。
昔は、先輩に置いていかれないよう追いかけるだけで精一杯だった。けれど今日は、後輩として後ろをついて回るのではない。
「先輩」
「どうしたの?」
五年前には言えなかった言葉を、今度こそ飲み込まないよう、真っ直ぐに先輩を見つめる。
「――今日は、俺のことだけ見ててくださいね」




