19話 それは、もっと強い魔法
擬態魔がジルに顔を向ける。先ほどまでリネットの父親だった顔が大きく歪み、皮膚も服も溶けるように崩れたかと思うと、今度は見慣れた女性の姿へ変わっていった。
私と同じ髪、同じ顔。同じ紺色の制服を身につけたもう一人の私が、助けを求めるようにジルに手を伸ばす。
「ジル、助けて……」
自分と同じ声が聞こえ、背筋が寒くなった。
けれど、ジルは少しも迷わなかった。
杖を素早く動かすと、淡い光の線が複雑に重なり、一つ目の魔法陣が完成する。そこから放たれた光の鎖が擬態魔の両腕に巻きつき、逃げようとした身体を地面に引き倒した。
「俺が先輩を見間違えると思うな」
ぞっとするほど低い声でジルはそう言い捨てる。
擬態魔は私の顔で憎々しげにジルを睨み、拘束を振りほどこうともがく。腕が再び黒く変わり、光の鎖に亀裂が入った。
しかし、その間にも、ジルの杖は止まらない。青く輝く魔法陣の中から無数の氷の矢が放たれ、擬態魔の周囲に次々と突き刺さった。
地面に刺さった矢から氷が広がり、魔物の足をその場に縫いつける。
(すごい……!)
これが、王立魔法士団の筆頭魔法士。
五年前、魔力をうまく扱えずに落ち込んでいた少年の姿は、どこにもなかった。
追い詰められた擬態魔が咆哮を上げ、私の姿を捨てて黒い塊に変わる。全身から伸びた何本もの腕が、四方からジルに襲いかかった。
ジルが大きく杖を振ると、目の前に描かれた魔法陣が眩く輝き、半透明の壁が現れる。黒い腕は一つ残らず壁に弾かれ、その反動で擬態魔の胸元が大きく開いた。
そこには、濁った赤色の石が脈打つように光っている。
「終わりだ」
その言葉とともに氷の矢が走り、赤い石の中心を正確に貫いた。
擬態魔は声にならない叫びを上げ、伸ばしていた腕を力なく地面に落とす。やがて黒い身体は崩れ、灰のような細かな粒となって風に消えていった。
静けさを取り戻した森の中で、私はただ立ち尽くすことしかできない。
「……本当に、一人で倒してしまわれましたわ」
隣で腰を抜かしたまま呆然としていたリネットが、小さな声を漏らす。
ジルは倒した魔物には目もくれず、私たちのもとに駆け寄ってきた。真っ先に私に視線を走らせ、怪我がないことを確かめると、すぐにリネットに膝をつく。
「立てるか?」
「こっ、このくらい、平気ですわ」
強がって立ち上がろうとしたものの、リネットの足は力なく崩れた。私が彼女の身体を支えた直後、少し離れた場所から大勢の足音が聞こえてくる。
「エレナ! リネット!」
木々の間から現れたのは、オズワルド団長と応援の魔法士たちだった。その後ろにはユアンたちの姿もあり、全員が無事だったことに胸を撫で下ろす。
「擬態魔はどうした?」
「ジルが倒しました。それより、リネットが怪我をしています」
オズワルド団長の表情ががらりと変わる。
「どこをやられた」
「手首と足を少し痛めただけですわ。自分で歩けますから――きゃあっ!」
言い終えるより先に、団長は腰を屈め、リネットの身体を大きな荷物のように肩に担ぎ上げた。
「ちょっと、団長! 何をなさいますの!?」
「怪我人を運んでいる」
「せめて、もう少し丁寧な運び方があるでしょう! 下ろしてくださいませ!」
「立つこともできない人間が騒ぐな。暴れると落とすぞ」
「横暴ですわ!」
背中を叩かれても団長はまるで気にせず、そのままリネットを担いで歩きだす。ユアンたちは助けるべきか迷ったように顔を見合わせたあと、諦めて二人の後ろをついていった。
「魔物については連れてきた魔法士で調べる。ジル、お前はエレナを連れて戻れ」
「分かりました」
応援に来た魔法士たちが周囲の確認を始め、団長たちの姿も木々の向こうに消えていく。
気づけば、その場に残っているのは私とジルだけになっていた。
「ジルも怪我はない?」
「俺のことより、先輩でしょう。どうして……」
まるで氷のように冷たい声だったけれど、正面に立ったジルは私の両肩に手を置くと、再び顔や腕に傷がないか確かめるように見つめた。
「どうして一人で戻ったんですか」
「リネットを置いていけなかったの」
「だからといって、一級の魔物を一人で追ったんですか?」
「戦うつもりはなかったわ。居場所を見失わないように、あとを追うだけのつもりで……」
「同じことです!」
きっぱりと言い切られ、私はぐっと黙り込んでしまう。
ジルが怒るのも当然だ。応援を待つつもりだったとはいえ、結果として一級の魔物と戦い、あと少し彼の到着が遅ければ命を落としていたかもしれない。
「……ごめんなさい」
「本当に、分かっているんですか」
俯きかけたところで、私の肩に置かれた手が震えていることに気づいた。
顔を上げると、ジルは苦しそうに眉を寄せていた。青ざめた顔で唇を噛みしめ、何かを堪えるように私を見つめている。
「あと少し遅かったら、先輩は死んでいたかもしれないんですよ」
「ジル……」
「また俺の手が届かないところに行ってしまうかと思った」
掠れた声とともに、ジルの瞳から一筋の涙が零れた。
いつも冷静で、誰よりも頼もしい筆頭魔法士になったと思っていたのに。驚いて手を伸ばしかけた瞬間、強く腕を引かれ、広い胸の中に抱き込まれた。
「無事でよかった……」
耳元で聞こえた声は、まるで迷子の子どものようで。
背中に回された腕は苦しいほど強く、ジルの速い鼓動が制服越しに伝わってくる。私はどうしたらいいか分からないまま、宙に浮いていた両手を、ためらいがちに彼に回した。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「もう二度と、こんな無茶はしないでください」
「……約束するわ」
そう言うと、抱きしめる力がさらに強くなった。
抱きしめる腕の力でジルも男性なのだと意識した途端、心臓が落ち着かなくなり、顔まで一気に熱くなっていく。
どれほどそうしていたのか分からない。やがてジルは名残惜しそうに腕を解いたものの、私の手を掴んだまま離そうとはしなかった。
「先輩。聞きたいことがあるんですが」
「どうしたの?」
「あの擬態魔は、先輩の前では誰の姿をしていたんですか?」
(そ、れは……)
リネットの前では、大切な部下の姿やかつての家族に変わった。彼女の心を揺らし、警戒を解かせるために。
そして、私の前に最初に現れたのは――。
「……アルベルトよ」
名前を口にした途端、ジルが私の手を握る指に力を込めた。
「迎えに来たと言われたの。一緒に帰ろう、私が必要だって」
「それを、信じたんですか?」
「アルベルトがこんな森にいるはずはないと分かっていたわ。でも……ほんの一瞬だけ期待をしてしまった。バカみたいよね」
今さら迎えに来られても、以前の暮らしに戻るつもりはない。それでも、ずっと欲しかった言葉をアルベルトの姿で告げられたとき、思わず差し出された手を取ってしまいそうになった。
「私はまだ、アルベルトへの気持ちを全部捨てられていないのかもしれない」
正直に話すと、ジルは傷ついたように目を伏せた。
「そうですか」
「ごめんなさい」
「どうして先輩が謝るんですか。先輩が、侯爵様のことをすぐに忘れられないのは分かっています」
そう言ってくれたけれど、世界樹の下では、アルベルトのことを思い出す暇もなかったと笑っていたのだ。嘘をついたみたいで、何となく後ろめたい気持ちになる。
「ジルの魔法、順調だと思っていたのにね」
冗談めかして笑うと、ジルは困ったように眉を下げた。
「……先輩。実は、あれは魔法じゃないんです」
「…………え?」
「恋心を忘れる魔法なんて、ありません。あれはただの俺の冗談です」
ジルは耳を赤くして、気まずそうに目を逸らした。
「……ずっと黙っていて、ごめんなさい」
なんということだろう。
王国随一の筆頭魔法士が開発した画期的な魔法だと思っていたのに!
「じゃあ、あれは全部嘘だったの!?」
「うっ……すみません」
「私、本当にすごい魔法だと思っていたのよ! 術式だって気になっていたのに!」
「……そっちですか?」
ジルは拍子抜けしたように笑ったあと、サファイアのような瞳がまっすぐ私を射抜いた。
「でも、先輩。魔法じゃなくたって、俺にできることはあるって気が付いたんです」
そう言って、握っていた手に力を込める。まるで何かの決心がついたかのような表情だったから何を言われるのかと少し身構えてしまう。
「先輩が侯爵様のことを思い出す暇もないくらい、俺が何度でも楽しい場所に連れ出します」
「……ジル」
ジルが、恋心を忘れる魔法が冗談だったと言い出せなかったのも、きっと私のことを心配してくれていたからだ。喉の奥がぎゅっとしまって、涙が零れそうになる。
この子は、どれだけ先輩の私のことを慕って――。
「俺は本気ですよ、先輩。ですから、まずは――俺とデートしてください」
「えっ」




