17話 優しい声の罠
元旦那の名前を呼びかけると、記憶の中の彼と同じように目元を和らげた。
「迎えに来たんだ。一緒に帰ろう、エレナ」
差し出された手を見つめたまま、私は何度も瞬きを繰り返した。
アルベルトが私を迎えに来るはずなどない。
だって今頃は遠く離れた領地にいて、ミレーユ様と暮らしているはずなのに、目の前に立つ彼の顔も声も、私が大好きだった彼そのもので。
「手紙を見たよ。君がいなくなって、ようやく分かった。領地にも、あの家にも、そして俺にも――やはり君が必要なんだ」
それは、ずっと聞きたかったはずの言葉だ。
妻として必要だと言ってほしくて、いつか私の努力を認めてほしくて、届かない期待を抱きながら、毎日を過ごしていた。
離縁した今になって、その願いが叶うはずはないと分かっているのに、私に残っていた未練が、差し出された手に縋りそうになる。
(あれ、でも……)
目の前にいるアルベルトは、少しだけ若い気がする。彼の服装が――私にプロポーズをしてくれた日のものと同じだと気が付いた時だった。
「――その人から離れなさい!」
リネットは、血の気が引いて青くなった顔でアルベルトを見つめていた。
「どうしたの?」
「そ、そ、その男、ここまで歩いてきたはずなのに、靴が少しも汚れていないでしょう……!」
そう言われて初めて、彼の足元に視線を落とす。
森の中の湿った土の上を歩けば、靴だけでなく裾にも泥が跳ねるはずなのに、アルベルトの服は不自然なほどに綺麗だった。それどころか、彼が歩いてきた場所にはなぜか足跡すら残っていない。
「……エレナさん、下がって」
リネットに腕を引かれ、よろめくように後ろに下がった直後、先ほどまで私が立っていた場所をひゅんと彼の腕が薙いだ。
(え、どういうこと……!?)
驚いて顔を上げれば――アルベルトの右手が、あり得ないほど長く伸びていた。
「……どうして逃げるんだ、エレナ」
穏やかな声とは裏腹に、彼の腕は魔物のように黒っぽいものへと変化していく。それを見た瞬間、訓練場で耳にした話が頭をよぎった。
もしかして。あれは。
「人の心を読んで、親しい相手の姿に変わる魔物……!?」
「……間違いない。一級指定の擬態魔ですわ。――全員、今すぐ撤退しなさい!」
リネットの指示に、私たちは一目散に駆けだした。
一級指定の魔物は、ベテランの上級魔法士を集めた部隊であっても犠牲を出す恐れがある。三級指定の魔物を想定して組まれた小隊の私たちが、戦って勝てる相手ではない。
「このまま来た道を戻るわ。わたくしが最後尾につくから、絶対に足を止めないで!」
誰よりも動揺していたはずのリネットは、すでに切り替えているようだった。
私たちは擬態魔に背を向け、森の出口を目指して走り出す。背後からアルベルトの声で何度も名前を呼ばれたけれど、私は振り返らなかった。
――だって、本物のアルベルトは、私を迎えになど来ないから。
その時だった。
擬態魔は近くの幹を蹴り、異様な高さまで跳び上がると、私たちの頭上を越えて長い腕を振って攻撃をしかけてきた。
リネットは当然として、ユアンと私はぎりぎりのところで避けることができたものの、攻撃は残りの二人の元に向かっていく。
「危ない!」
一人の魔法士が仲間を突き飛ばして庇ったけれど、自分は足を取られて地面に転がった。攻撃は避けたようだが、足首を痛めたらしく、立ち上がることができない。
「何やってるんですの! この馬鹿者!」
リネットは暴言を吐きながらも素早く魔法陣盤を交換すると、赤く輝いた魔法陣から擬態魔に炎を放った。しかし、魔物は木の陰に飛び込んで炎を避け、そのまま姿を消してしまう。
「消えた……?」
魔物がいなくなり、ほっとしたのも束の間、あたりは突如として深い霧に覆われた。前がよく見えず、足音を頼りに皆がいることを確認して進んでいく。
ユアンを先頭にして、怪我をした子と介抱している子が並んで歩き、その後ろに私、一番後方がリネット。
はぐれないように速度を落としながら進み、やっと森の出口が見え始めた頃だった。
「隊長……待ってください」
背後から、掠れた声が聞こえた。
「隊長、助けて……」
今度は、はっきりとユアンの声だと分かる。
(どうして、後ろにユアンが?)
前方にいるはずのユアンを確かめようとしたけれど、霧が深くて良く見えない。
再び後ろに目を向け、リネットの視線を追う。少し離れた木の根元には、足から血を流したユアンが倒れていた。
リネットは警戒するように杖を向けたまま、戸惑った声で問いかける。
「どうして、あなたがそこにいるの?」
「転んで、皆とはぐれてしまって……」
苦しそうに顔を歪め、彼はリネットに手を伸ばした。
縋るような声に、リネットが握っていた杖の先がわずかに震える。
姿も声も真似る魔物だと、誰より警戒していたリネットのことだ。目の前にいるユアンが偽物かもしれないことは、当然分かっているはずだった。
それでも、血を流して助けを求める部下を前に、リネットは唇を噛みしめる。
倒れていたユアンが立ち上がろうと手をついたけれども、痛みに耐えきれなかったように再び地面に崩れ落ちた。その姿を見た瞬間、リネットの気が――緩んでしまった。
「――リネット、駄目!」
私が叫ぶのと同時に、倒れていたユアンの口元が不自然に大きく吊り上がり、その身体から伸びた黒い腕がリネットの腰に巻きついた。
そして、私たちに見せつけるかのように、さあっと霧が晴れていく。
「きゃあっ!」
「リネット!」
悲鳴を聞きつけ、前方を進んでいた三人も一斉に振り返る。自分と同じ姿をした魔物にリネットが捕らえられている光景を目にしたユアンは、一瞬呆然としたあと、「隊長!」と叫びながらこちらに駆け戻ってきた。
私は杖に魔力を込め、急いで宙に拘束の魔法陣を描いた。完成した魔法陣から光の縄が放たれたものの、擬態魔はリネットを盾にするように抱え、木々の間に飛び退く。
「わたくしに構わず、逃げなさい!」
リネットは拘束を振りほどこうともがきながらも、撤退を命じた。
そして次第に、擬態魔は彼女を抱えたまま森の奥に消えていき、二人の姿はあっという間に見えなくなった。
「待って、追いかけないと……!」
ユアンがそのあとを追おうとしたため、私は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「待って。あなたでは、一級の魔物には勝てません」
「でも、俺を助けようとして、隊長は……!」
「だからこそ、戻ってはいけないわ。あなたたちまで危険な目に遭えば、リネットが逃がしてくれた意味がなくなるもの」
悔しそうに唇を噛むユアンに言い聞かせ、負傷した魔法士に目を向けた。この足では、魔物から逃げながらリネットを捜すことはできない。
「三人で森を出て。誰でもいいから、一級の魔物が現れたと伝えて、応援を呼んできて」
「エレナさんは、どうするんですか?」
「リネットを追う」
ユアンは「俺も行きます」と言って握り直した杖を胸の前に構えた。けれど、彼の後ろでは負傷した魔法士が仲間の肩を借り、どうにか立っている。
「今は、一刻も早く応援を呼ぶことが彼女を助ける一番の方法なの。分かって」
強く告げると、ユアンは何か言いたそうに口を開いたものの、やがて深く頭を下げた。
「……っ。必ず、応援を連れて戻ります!」
三人が森の出口に向かうのを見届け、私は擬態魔が消えた方向に顔を向けた。
一級の魔物を相手に、私一人でできることなど限られている。追いついたところで、リネットを取り戻せる保証もない。
それでも。
(置いていけるわけないわ!)
私は杖を握り直すと、二人の消えた森の奥に駆け出した。




