15話 最悪な夢から始まった日
「エレナ、聞いてくれ。今日、視察先で馬が泥に足を取られてな」
夕食の席で、アルベルトが珍しく楽しそうに話している。
どうやら慎重な彼が、馬から落ちそうになって慌てたらしい。身振りを交えて話す姿がおかしくて、私は堪えきれずに笑ってしまった。
「笑いすぎじゃないか?」
「だって、あなたがそんなに慌てるところなんて、想像できないんですもの」
「俺だって慌てることくらいある。あの場に君がいたら、当然助けてくれただろう?」
「どうでしょう。少しくらい眺めていたかもしれません」
「おい、エレナまで俺を見捨てるのか」
不満そうに眉を寄せながらも、アルベルトは笑っていた。
窓の外では穏やかな雨が降り、暖炉の火が食堂を暖かく照らしている。食事を運ぶ使用人たちも、私たちのやり取りを聞きながら微笑んでいた。
アルベルトとの結婚は、互いに望んだものではなかった。それでも私は少しずつ彼に惹かれたし――同じ家で暮らし、領地の問題を一緒に解決していくうちに夫婦らしくなっていると思っている。
「今日もお疲れさまでした」
「ああ。君もありがとう。帰ってきたときにエレナがいると、ほっとするよ」
そう言って、アルベルトが穏やかに目を細める。
彼の表情も声色も、全てが愛おしくて仕方がない。
けれど――暖炉の火が急に揺らぎ、食堂を照らしていた明かりがぽつぽつと消えていく。
気づけば、向かいの席からアルベルトの姿が消えていた。手をつけられていない料理だけが残され、すっかり冷めたスープの表面に、暗い天井が映っている。
「アルベルト?」
名前を呼んでも返事はなく、代わりに遠くから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
声を追って長い廊下を進むと、開け放たれた扉の向こうにアルベルトがいる。その隣にはミレーユ様がいて、二人は寄り添いながら、私には見せたことのない幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「待って……」
追いかけようとしても、足が動かない。
私と二人の間にある廊下が、どこまでも長く伸びていく。壁に飾られていた絵が落ちて、床には亀裂が走り、夫婦として過ごした日々が崩れるように、屋敷の景色まで次々と闇に沈んでいった。
ようやく振り返ったアルベルトは、ひどく遠い場所から私を見つめている。
「エレナ、離縁してほしい。俺はミレーユを愛している」
「私は……?」
声を振り絞ったはずなのに、言葉は彼に届かなかった。
アルベルトはミレーユ様の手を取り、私に背を向ける。呼び止めようと伸ばした手は宙を掴み、二人の姿は閉じていく扉の向こうに消えてしまった。
「――待って!」
自分の声に驚き、私は勢いよく身体を起こした。
薄暗い部屋の中で、自分の荒い呼吸だけが響いている。額には冷たい汗がにじみ、心臓が痛いほど速く脈打っていた。
見回してようやく、ここが侯爵家の屋敷ではなく、王都で借りた自分の家だと思い出す。
「……夢だったのね」
窓の外はまだ夜明け前で、部屋は薄暗かった。
ローザさんとアルベルトの話をしたせいだろうか。忘れたつもりでいた楽しい日々と、思い出したくもない別れの瞬間を同時に思い出してしまうなんて。
侯爵邸に戻りたいとは思わない。
それでも、夢の中で笑っていたアルベルトを見て、去っていく背中に手を伸ばしてしまった自分が、どうしようもなく惨めに思えた。
もう一度寝られるほどの時間は残っておらず、私は重い身体を引きずるようにベッドから下りた。顔を洗って制服に着替えても、胸に残った痛みはなかなか消えてくれない。
三日間待ち望んでいた、復帰後初めての討伐。
その当日の朝は、最悪の目覚めから始まったのだった。
◇
食欲はなかったけれど、何も食べずに討伐に向かうわけにもいかず、私はローザさんからもらったパンを口にして家を出た。
魔法士団の正門前に着くと、すでにリネットと三人の魔法士が待っていた。
「時間どおりですわね」
「遅れたら置いていくと言われたから……」
「当然ですわ。討伐は一人の遅刻で全員の予定が狂うのですから」
ほかの三人は気まずそうに私たちを見比べたあと、それぞれ名乗ってくれた。
その中でも一番年下のユアンは、リネットに聞こえないよう声を潜め、私のそばに寄ってくる。
「エレナさん、小隊長の言い方は気にしなくていいっすよ。俺もあの人、ちょっと苦手なんで」
「おい、ユアン。聞こえるぞ」
「だって、いつもあんな感じじゃないっすか。貴族の出だからプライド高いのか知りませんけど、もう少し優しく言ってくれてもいいでしょう?」
残る二人も否定はせず、困ったように顔を見合わせている。どうやらリネットの厳しい態度に苦手意識を抱いているのは、私だけではないらしい。
当のリネットは話が聞こえていないのか、馬車に積む荷物を一人で確かめていた。
やがて確認を終えたリネットに促され、私たちは馬車に乗り込んだ。王都から東に一時間ほど進むと、今回の目的地である森に到着した。
討伐するのは、鎧狼と呼ばれる三級指定の魔物だ。
狼に似た姿をしているものの、背中から脚にかけて樹皮のように硬い外皮に覆われており、鋭い牙で獲物に襲いかかる。単独ならそれほど危険ではないけれど、群れで行動するため、近くの村では家畜や木こりが襲われる被害が相次いでいた。
「事前の調査では六体ですわ。群れから離れた個体がいるかもしれないから、周囲への警戒を怠らないで。エレナさんは後方をお願いいたします」
「分かりました」
「五年前とは討伐の進め方も違いますわ。判断に迷ったら勝手に動かず、わたくしの指示に従うこと。いいですわね?」
リネットはそれだけ告げると、ほかの魔法士たちに手早く役割を割り振り、森の中へ入っていった。
言い方は厳しいけれど、魔物の足跡や折れた枝を見つけると立ち止まって周囲を警戒してくれている。歩く速さも、私たちが遅れない程度に抑えられており、なるほど彼女が小隊長である理由が分かった気がした。
森に入ってしばらくすると、先頭を歩いていたリネットが片手を上げる。
全員が足を止めた直後、茂みの向こうから低い唸り声が聞こえた。
「いきますわよ。全員、気合をいれて」




