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名前を忘れるな――四階のない寮の夜  作者: 空の異変


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第六話 学園長の仕事

抽斗の中に、書類挟みが一つ入っていた。


厚紙の表紙をめくると、印字された一枚があった。


あなたはこの学園の学園長です。学生を保護する責任を負います。


その下に、事務的な文が続く。登録を定期的に確認すること。


汚染度が90を超えた者については隔離の処置をとること。寮監を通じて寮生と連絡すること。


羽の交付はこの職の権限に属すること。必要があれば、学生の身分を用いて保護にあたること。


読んでいるあいだに、後頭部の痛みが引いた。


引いたというより、そこにあった何かが通り抜けていった。


    *


俺は、卒業を控えた大学生だった。


そこだけは、さっき渡り廊下で浮かんだ断片と同じだ。校名も、学部も、今も出てこない。


出てくるのは、送った履歴書の枚数と、返信の文面の書き出しだけだ。


その時期に、求人サイトで一枚の頁を見た。


学園長募集。月給80万円。社会保険完備。寮完備。新卒可。経験不問。契約解除時の違約金あり。


新卒に学園の統括職を出す組織はない。


最初は笑って閉じた。27通目の不採用通知のあとで、保存した頁をもう一度開いた。


応募してから返事が来るまで、3分もかからなかった。


澄杜学園(すみもりがくえん)の門に立ったとき、校舎の上半分は霧の中にあった。


迎えは来なかった。学園長室の場所がわからず、構内を30分歩いた。


途中で一人、学生に道を訊いた。


赤いベストを着た学生だった。返事はなく、俺の顔を見て笑った。


学園長室の扉枠には、蜘蛛の巣が張っていた。何年も使われていない部屋の張りかただった。


着任して、俺は仕事を覚えた。


登録の確認。寮監からの報告。


数字が90を超えた学生の隔離。隔離の行き先は、この学園の建物にはないはずの階だった。


俺はそれを止められなかった。止める権限が、この職についていない。


できたのは、学生が自分で身を守れるようにすることだけだ。寮監の報告と、自分が見たものを突き合わせて、避けられたことと避けられなかったことを書き出した。


6つに絞った。それ以上増やすと、誰も覚えない。


寮務連絡に流す時刻を設定して、以後は放っておいても配信されるようにした。


俺の汚染度が90に届いたのは、その年の秋だ。


隔離の対象になる数字を、自分が持った。


それは、俺を職ごと追っていた。


職の名前と居場所を持っている人間は、追いやすい。だから俺は、名前と居場所を捨てることにした。


記憶を消した。方法はここに書かない。書いてあるものを、今の俺はもう持っていない。


消してから、寮生として北寮に入った。


使った登録は、4階へ送られた学生のものだ。榊直人、19歳、大学部1年。


その学生は俺とは別の人間で、俺は彼の名前を借りた。体を取ったわけでも、譲られたわけでもない。


彼は今も4階にいる。


同じ部屋に、朝倉陽介を入れた。


この学園で、あれの側に数えられていない学生が一人いた。理由は当時もわからなかった。


わからないまま、そばに置いた。あとで誰かが必要になったときのために。


置いただけだ。今夜あの男がどう動くかは、俺が決めたことじゃない。


記憶を消しても、汚染は消えなかった。


90が、99になっていた。


    *


扉が2度叩かれた。


ノックの間隔が、夜中に聞いたどれとも違った。焦っているだけの叩きかただ。


「直人、いる?」


雨宮の声だった。


開けると、二人が立っていた。雨宮は前髪が額に貼りついていて、朝倉は上着の肩が濡れている。外は霧だ。


「出口、また同じ階段だった」


雨宮が両手を広げた。


「正門まで行ったの。行ったのに、気がついたら寮の3階の廊下にいて、そこからまたここ。3回やった」


「3回とも、最後は4の踊り場に出た」


朝倉が付け足した。


「歩けば出られるという前提が、成り立たない」


「2回目のとき、俺、廊下で相馬の名前呼んだ」


雨宮が親指の爪を噛んだ。


「返事、なかった。掛け金の扉も、探したけど見つかんなかった」


「4階は、探すと出てこない」


「そういうのずるくない?」


「ずるい」


朝倉が即答した。


「それで戻ってきたのか」


「それもある」


朝倉はそこで言い直さなかった。


雨宮が俺の顔を覗き込んで、眉を寄せた。


「あと、直人、一人にしといたら死ぬなって思ったから」


「99の男だぞ」


「知ってる。数字見たもん、俺」


雨宮は靴のまま部屋に入ってきて、机の前で立ち止まった。


「でも、直人も、一緒に来てくれよ」


    *


俺は左の抽斗を、もう一段下まで引いた。


底に、黒い羽が散らしてある。寮監室のものと同じ長さ、同じ反り。


2本、つまみ上げた。


「これは、この部屋の職の権限で渡すものだ」


言いながら、書類挟みの一枚を机の上に開いて見せた。羽の交付はこの職の権限に属すること、と印字された行に、指を置く。


朝倉が、その行を読んだ。読んでから、顔を上げた。


「日誌に、交付と受領を分けて書いた行があった。退寮確認済み、と付いていた」


「寮監はそれをやっていた。職としてやっていた」


「君が寮監室から拾った一本は」


「何にもならなかった。4階で、ただポケットに入ってただけだ」


俺は2本の羽を、机の手前に並べた。


「拾うのと、渡されるのは、別だ」


朝倉は、少しのあいだ黙っていた。


それから、はっきり言った。


「学園長」


その呼びかたを、この男は今夜初めて使った。


「これで僕らを外へ出せるんだね」


「出せる」


「確認したいことがある。これは汚染度を消すのか」


「消さない」


「4階の掛け金は」


「外れない」


朝倉は頷いた。


「わかった。榊、受け取る」


俺は一本を朝倉に渡した。


もう一本を持ち上げて、雨宮のほうへ差し出す。


「雨宮、これを持って行け。二人とも外へ出たら、連絡してくれ」


雨宮は受け取らなかった。


手は出している。出したまま、止まっている。


「直人は」


「残る」


「なんで」


「この職に、まだ学生が残ってる。相馬も、この名前の持ち主も、4階にいる」


俺は羽を、雨宮の手のひらに押し込んだ。


「それと、99を外に持っていきたくない」


雨宮の指が、羽の軸を握った。握ってから、俺の袖を掴もうとして、途中でやめた。


「あとで迎えに来るからな」


「来るな」


「行くから」


言い返しかたが、階段で椅子を譲ったときと同じだった。理屈になっていない。


二人は扉から出ていった。


足音が階段のほうへ遠ざかって、消えた。


俺は椅子に座って、端末を机に置いた。


4時のまま動かない画面に、20分か、30分か、それくらい経ったと思うころ、個別連絡が一件落ちてきた。


雨宮だ。


門、出た。霧の外、明るい。


その下に、もう一件。


朝倉から。


2名、校外。確認した。


    *


机の端に、透明のデスクマットが敷いてあった。四隅のうち、右手前だけが反り返っている。


その下には何も挟まっていない。


俺は端末を伏せて、机の上の端末を起こした。


求人の管理画面は、職務資料の挟みと同じ抽斗に、接続の手順ごと入っていた。指が覚えていた。


新規掲載。職種、学園長。


月給80万円。社会保険完備。寮完備。新卒可。経験不問。契約解除時の違約金あり。


文面は、俺が読んだものと同じにした。


変えれば、来る人間が変わる。変わったところで、この部屋の椅子は一つしかない。


公開を押した。


一行目が、画面の上に出た。


学園長募集(急募)


    *


頭の中で、音が鳴った。


耳ではない。頭蓋の内側で、短い電子音が2回。


「検知。主要筋書きの完了を確認しました」


「対象の自律意識を開放します」


「多方世界の任務へ移行してください。任務の完了をもって、あなたの身体を返還します」


身体。


その二文字が、自分のものとして通り過ぎていくのを、俺は椅子に座ったまま聞いていた。


二人を出したのは、この報せの前だ。残ると決めたのも、前だ。


順番だけは、動かせない。


画面の中で、掲載一覧の一番上に、さっきの一行が並んでいる。


学園長募集(急募)


廊下の奥で、外扉が開く音がした。


靴の音が、階段を上ってくる。


新しい靴だ。踵の底がまだ硬くて、段の一つ一つで高く鳴る。5階まで、あと半分。

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