第五話 名簿の最後の欄
部屋の奥に、机があった。
その向こうの椅子に、朝倉が座っていた。
紙の束を広げて、一枚ずつ左に送っている。顔を上げて、俺を見た。
「来たか」
俺は3歩で机を回り込んで、朝倉の襟を掴んだ。
椅子の脚が床を擦る。紙が2枚、机から滑り落ちた。
「名前は」
「朝倉陽介」
答えるのに、間がなかった。
「本物のほうだろうな」
「確かめかたなら、君のほうが持っている。僕は4階に行っていない」
雨宮が扉のところで固まっていた。
「え、ちょっと、なんで。榊……直人、なんで殴るの」
「殴ってない」
「掴んでるじゃん」
俺は指の力を抜かなかった。
「朝倉。寮監室を出るとき、俺を起こしたな」
「起こした」
「紙を2枚、俺のポケットに入れた」
「入れた」
「読めたかどうか、確かめたのか」
朝倉の視線が、俺の手首のあたりで止まった。
「確かめていない」
「なんで」
「君は目を開けていた。返事もした。起きていると判断した」
そこで朝倉は言葉を切って、こう続けた。
「返事は確かめていない。起きていると判断したのは、僕の間違いだ」
俺は手を離した。
離した勢いで、朝倉の背中が椅子に戻る。彼は襟を直さなかった。
雨宮が机のこちら側まで来て、両手を天板についた。
「朝倉、紙を入れた後は? 直人の返事、聞いた?」
「聞いていない」
「じゃあなんで置いてったんだよ。俺ら二人とも寝てたわけじゃん。起きてる保証ないじゃん」
「君たちを信じていなかった」
雨宮の口が、途中で止まった。
「……は?」
「榊は名前を言うのに3秒かかった。君は階段で、4の側に足が向いていた。僕は、二人のどちらが先に変わってもおかしくないと考えた」
朝倉は俺を見た。目をそらさない。
「だから、確認せずに出た。紙を渡せば済むと思った。それは僕の判断で、僕の失敗だ」
「4階に相馬がいた」
俺は言った。
雨宮の肩が跳ねた。
「え」
「扉の隙間に、あいつの室内履きがあった。甲を黒い糸で縫ったやつだ。糸端が、結び直してないまま出てた」
「待って、待って。相馬いたの。いたのに」
「掛け金が掛かってた。廊下側から、太いのが一本」
雨宮は両手で自分の顔を挟んだ。
「俺、直人引っ張ってた。後ろ見てなかった」
「見てたのは俺だ。見て、そのまま逃げた」
朝倉は何も言わなかった。
言わないまま、机の上の紙束から一冊を抜いて、俺のほうへ滑らせた。
*
表紙に、寮生名簿、と印字してある。
めくると、名前と数字が並んでいた。学年ごとに区切られていて、一行に4つの欄がある。
氏名。性別。年齢。汚染度。
俺は自分の部屋の頁を探した。指が先に止まった。
相馬 亮 男 19歳 90
雨宮 透 男 19歳 30
朝倉 陽介 男 19歳 0
榊 直人 男 19歳 99
4行だけだ。
同じ頁の、同じ間隔で、4行。
「99」
雨宮の声だった。俺の肩越しに覗き込んでいる。
「これ、なに。点数?」
「汚染度、って書いてある」
「意味わかんない。意味わかんないけど、相馬が90で、直人が99ってことでしょ」
雨宮の靴が、床を擦った。
半歩。それから、もう半歩。
後ろに下がったのが、自分でもわかったらしい。下がってから、自分の足元を見た。
「ごめん」
「謝るな」
俺は名簿を机に置いた。置くとき、指が震えていて、紙の角が天板を2度叩いた。
「お前が下がるのは正しい」
「正しくないよ」
「正しい。数字を見て、遠ざかる。それが読みかただ」
朝倉が、0の欄に指を置いた。
「僕の欄だ」
「0ってなんだよ」
雨宮が食ってかかった。
「同じ部屋に住んで、同じ階段下りて、同じもん見てきて、なんでお前だけ0なんだよ」
「僕にも説明のしかたがない」
「ないって、そんな」
「今は言えない、が正確だ」
朝倉はそこで指を引いた。
「数字は状態の記録で、人の判定じゃない。99は、榊が同化し終えたという意味じゃない。90が、相馬がもう死んだという意味でもない」
「じゃあなんの意味があるんだよ」
「どの順で危ないかがわかる。それだけだ」
*
俺は端末を出した。
画面は4時のまま。電波は立っていない。個別連絡だけが、今夜ずっと開いた。
受信履歴を、一番下まで戻した。
午前0時23分 受信 送信 午前0時19分
「直人、開けてくれ。」
午前0時24分 受信 送信 午前0時8分
「直人、絶対に開けるな。」
「見ろ」
二人を机の横に呼んだ。朝倉が身を乗り出し、雨宮が下から覗く。
「受信は、上が先だ」
「うん」
「送信は、下が先だ。8分と19分。11分ちがう」
雨宮が口の中で数字を繰り返した。
「……あ」
「8分に、あいつは開けるなと打った。そのころ、俺たちの部屋の外で、あいつの声が俺の名前を呼んでた」
「ノックのやつ」
「あれのことだ。相馬は外にいて、自分の声を使われてるのを見た。だから先に警告した」
俺は19分の行に指を置いた。
「それから11分後に、開けてくれ、と打った」
朝倉が短く息を吸った。
「場所が違う」
「4階だ。廊下側に掛け金が掛かった扉の内側から、あいつは開けてくれと言った」
言葉にすると、そこに段差はなかった。
11分の差と、二つの扉。それだけのことだった。
「俺は、受け取った順で決めつけた」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「後に届いたほうが新しい指示だと思った。相馬が前の頼みを取り消したんだと思った。取り消してない。あいつは二つの違う扉の話をしてた」
「居室の扉は開けなくて正しかった」
朝倉が言った。
「6番はそのとおりだ。君が扉を開けていたら、部屋の3人が今ここにいない」
「知ってる」
俺は名簿の端を見ていた。
「それとは別に、4階の掛け金は、外から外せた。廊下に立ってたのは俺だ。あれは居室の応答じゃない。6番は、あれを禁じてない」
雨宮が何か言おうとして、口を閉じた。
「相馬が開けてほしかったのは、4階の扉だった」
*
頭痛は、こめかみから後頭部へ回っていた。
視界の端が、水に濡れた紙みたいに歪む。立っているつもりで、俺は机の縁に体重を預けていた。
「行け」
「は?」
「二人で出口を探せ。俺はここにいる」
「なに言ってんの」
雨宮が俺の腕を取ろうとした。俺はその手を避けた。
「99だ」
「数字がなんだよ」
「お前が半歩下がったとき、俺は正しいって言った。今は一歩下がれって言ってる」
朝倉が雨宮の肩に手を置いた。
「出口を見つけたら戻る」
「戻るって、おい」
「見つけてからだ」
二人が出ていった。
扉が閉まる音を聞いてから、俺は机の向こうへ回った。
窓際に鉢が一つ置いてある。植わっていたものはもうない。鉢皿に、乾いた土が薄く溜まっていた。
椅子は、背が高くて、肘掛けがついていた。
座ると、背中の角度が合った。高さも、肘の位置も、直す必要がなかった。
座ったまま、俺の左手が下がった。
机の左側。上から2段目。指が把手を探して、当てて、引いた。




