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名前を忘れるな――四階のない寮の夜  作者: 空の異変


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第四話 扉の向こうの相馬

階段に出ると、下りる足が上りに変わっていた。


そう気づいたのは、踊り場の数字を二つ見送ったあとだ。3の次に5が来るはずの階段で、俺たちは4に向かって上がっていた。


「上だよ、朝倉。上がってる」


雨宮の声が、階段の壁に吸われる。


「日誌にあった行は4階だ。寮生が外へ向かった記録は、それしかない」


朝倉は振り返らずに答えた。ノートは小脇に挟んだままだ。


「送った、で終わってる行だろ」


俺は言った。頭の後ろが重い。


「確認が書いてない行に、俺たちが行くのか」


「ほかに行き先の候補がない」


理屈は通っている。通っているのに、足の裏が納得しない。


4の踊り場に、また出た。


さっきと同じ白い数字。さっきと同じ長さの廊下。違うのは、非常灯の緑が奥まで途切れていないことだった。


朝倉が先に踏み込んだ。雨宮が俺の腕を取って、あとに続いた。


    *


廊下は、うちの階と同じ造りだった。


左右に居室の扉が並んで、床の色も、幅木の高さも同じ。違いは、扉の番号札が全部外されていることだけだ。


俺の頭痛が、額の内側で一段深くなった。


歩くたびに、こめかみの奥で紙をめくるような音がする。めくれた紙の上に、ないはずの光景が載っていた。


寮監室。椅子に座った俺。膝の上のノート。


肩を揺すられている。朝倉の手だ。


「榊。起きろ。僕は学園長室へ行く」


「なん……で。ここが一番安全だって」


「違う。説明はできない。紙を2枚、ポケットに入れた」


朝倉の顔が近い。窓の側に一度だけ目をやって、それから俺に戻った。


「名前を忘れるな。誰も信じるな。僕もだ」


まぶたが落ちる。落ちていく途中で、朝倉が何か言い足した。音はもう届かない。


「榊。読めたか。読めたなら、返事を」


そこで切れている。


俺は廊下の真ん中で足を止めた。


汗が顎の先から落ちて、床に小さな点を作る。


3歩前を歩いているものが、こちらを振り返った。


「どうした」


朝倉の声だ。朝倉の顔で、朝倉の立ちかたで、朝倉の「僕」で喋っている。


ただ、この男は寮監室を出る前に、学園長室へ行くと言った。言って、俺を置いていった。


置いていった人間が、俺の前を歩いているはずがない。


「雨宮」


俺は言った。喉が乾いていて、思ったより小さな音しか出なかった。


「走れ」


「え」


「階段まで走れ。俺のことは――」


最後まで言えなかった。


俺の前にいたものの肩が、いちど下がった。腕が膝の下まで伸びて、指の節が床を擦る。


首は正面を向いたまま、ゆっくりと左へ回りきった。


廊下の両側で、錠の外れる音がした。


一斉ではない。手前から順に、二つ、五つ、十いくつ。


扉が内側から押されて、拳ひとつぶんずつ開いていく。どの隙間にも、こちらを向いた形がある。


膝から力が抜けた。


床が近づいて、肩を掴まれて、床が遠ざかった。


「直人、腕、こっち。離さないで」


雨宮だった。俺の右腕を自分の首にかけて、腰ごと持ち上げている。


俺より頭半分低い体のどこに、この力が入っているのかわからない。


引きずられながら、俺は後ろを見た。


非常口の表示にいちばん近い扉が、10センチほど開いていた。その隙間から、足が一つ出ている。


室内履きだ。


甲の破れを、黒い糸で縫い直してある。糸端が外に垂れたままの、結び直していない縫い目。


「相馬!」


呼んだ。声は出た。


扉はそれ以上開かなかった。廊下側に、太い掛け金が渡してある。


扉の縁と枠をまたいで、外から掛かっている。隙間の幅は、掛け金の長さで決まっていた。


「直人、前見て、前!」


雨宮が俺の頭を自分の肩で押した。


階段の踊り場が来て、4の白い数字が後ろへ流れて、俺の踵が段を3つ滑った。


ポケットの中で、羽の軸が腿に当たっている。


拾ってから、この羽は一度も何もしていない。


    *


1階まで下りきって、非常口の前で、雨宮は俺を床に下ろした。


自分も座り込んで、両手を膝についた。


「はあ……っ、あ、無理。もう無理」


「お前、力あるんだな」


「引っ越しのバイトだって。2年」


言いながら、雨宮の目はまだ階段の上を見ている。


俺は右のポケットに手を入れた。


羽と、折り畳んだ紙。2枚。


広げた。日誌の紙と同じ罫線、同じ色の紙。破り取られた側の縁が、綴じ目の帯とぴったり合う形になっている。


6月30日 曇 4階へ行くな。あれは嘘をつく。


1枚目はそれだけだった。


2枚目。


7月1日 晴 私は


そこから先が、ない。


一行ぶんの空白に、何度も線が引かれている。書いて、消して、また書いて、また消した跡だ。


インクが紙を裏まで抜けて、繊維が毛羽立っている。三文字ぶんくらいの幅が、真っ黒に潰れていた。


裏返した。


「私」


その一文字と、横に疑問符が一つ。それだけが、消されずに残っている。


「……なにこれ」


雨宮が俺の手元を覗き込んだ。


「寮監が書いたやつだ。4階へ行くなって書いてある」


「行ったじゃん。俺たち、いま行ったじゃん」


「日誌のほうは、4階へ送ったって書いてあった」


俺は2枚を並べて、日付を確かめた。4月23日と、6月30日。


「後から書いたほうが、行くなって言ってる」


「じゃあ日誌は」


「途中から、嘘になってた」


言葉にすると、単純だった。単純なことに、3時間かけて気づいた。


紙を畳もうとして、指が止まった。


6月30日。7月1日。


その並びを見ていると、別の日付が浮かんでくる。3月の、卒業式の日程が貼り出された掲示板。


就職課の窓口。履歴書を出して、封筒を出して、また封筒を出した。


俺は19歳だ。1年生だ。4月に入学した。


入学した年に、卒業を待っている記憶がある。


こめかみの奥で、また紙がめくれた。


    *


渡り廊下は、1階の屋根つきの通路だ。側面は開いていて、腰の高さから上は外気が通る。


霧が出ていた。


街灯の光が、球の形のまま宙に止まっている。排水溝の格子に、枯れ葉が一枚挟まっていた。


雨宮が空を見上げて、動かなくなった。


月が、校舎の屋根の上にある。


さっき窓から見たときより、大きい。低い。3階の窓枠を埋めていたものが、今は空の三分の一を占めている。


その表面に、黒い粒が並んでいた。並んで、動いて、また並ぶ。粒の縁から、細いものが一本ずつ垂れている。


羽だ。


俺はポケットから自分の羽を出して、光にかざした。


長さも、反りも、軸の硬さも、月の縁で揺れているものと同じだった。


「見んな」


俺は雨宮の後頭部を押して、下を向かせた。


「あれ、こっち見てるよ」


「見てる。だから見るな」


端末を出した。電波の表示は立っていない。立っていないまま、個別連絡の画面は開く。


朝倉、と打った。


学園長室はどこだ。


送信。既読はつかない。


十数えて、20数えた。返事が落ちてきたのは、30を過ぎてからだった。


行政棟5階、階段を出て左手の最初の部屋。


名簿を見つけた。汚染度という欄がある。


「汚染度」


声に出して読んだ。意味は取れない。取れないまま、その三文字が喉の奥に引っかかった。


月を見上げるな。


3通目は、それだけだった。


俺は読み終えてから、顔を上げた。


人は、やるなと言われたことを、確かめたくなる。


月は、こちらを向いていた。鴉の目が、列ごとに赤く点っている。数は、さっきより増えていた。


    *


行政棟の階段は、寮の階段と同じ跳びかたをしていた。


3の次が、5。


異常ではない。この学園では、どの建物もそう書いてある。


4階のない5階に出て、左手を見ると、最初の扉の上に札がかかっていた。


学園長室。


「ここ?」


雨宮が首を伸ばす。


「札にそう書いてある」


「でもさ、朝倉が言ったから来たわけじゃん。朝倉が本物かどうかも、まだ」


「わかってる」


扉は閉まっていた。


罠なら、ここで終わる。廊下に立っていても終わる。4階へ引き返せば、確実に終わる。


俺は雨宮を、扉から2歩離れた位置に下がらせた。


「俺が先に入る。中が変だったら、お前は階段まで走れ。振り返るな」


「やだよ、それ」


「聞け。俺はさっき、日誌を信じるほうに乗った。それで4階まで行った」


自分の声が、思ったより低く出た。


「今度は俺が決める。中にいるのが朝倉なら、なんで俺たちを置いていったのか、本人に訊く」


雨宮が何か言いかけて、やめた。


俺はノブに手をかけて、回した。

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