第三話 寮監の筆跡
朝倉は紙の束を3つに分けていた。
右が印刷物、真ん中が手書き、左が用途のわからないもの。分け終えると、真ん中の山を膝に戻した。
「榊。こっちを見てくれ」
差し出されたのは、厚い大学ノートだった。表紙の角が丸くなって、背の布が剥がれている。
何年も同じ引き出しに入っていた紙の匂いがした。
机の端に、インスタントコーヒーの瓶が置いてある。ラベルの端がめくれて、少し丸まっていた。
俺はノートを開いた。
1頁目は、日付のついた記録だ。
4月13日 晴 着任。月給48万円。妙に高い。
「寮監の日誌だ」
「48万」
雨宮が床から身を乗り出した。
「うちの兄貴より多い」
「学生の面倒を見て、夜中に階段を上り下りして、それでこの額だ」
朝倉は頁を送る指を止めない。
「額が高いのは、仕事の中身が普通じゃないからだ」
次の頁に、罫線を無視した横書きの表があった。日付、羽の本数、渡した相手の学年、そして最後の欄。
4月14日 羽を一本、寮生1名に交付。退寮確認済み。
同じ形の行が、4月の前半に6つ並んでいる。すべての行の最後に、退寮確認済み、と同じ筆跡で書いてある。
「交付」
俺はその二文字を指でなぞった。
「渡した人と、受け取った人が、行ごとに分かれてる」
「それと、出ていったかどうかの確認がある」
朝倉が次の頁をめくった。
「ここまでは、事務の書きかただ」
ポケットの中の羽が、布越しに軸の硬さを伝えてきた。
俺が引き出しから拾ったやつだ。拾っただけのものが、この表のどこにも載っていないことは、わかった。
4月15日 晴 赤いベストを見た。話しかけてしまった。笑われた。
3行しかない。
その3行の前後で、字の大きさが変わっている。前は小さく几帳面に、後ろは少しずつ右下がりになって、行の間隔が広がっていく。
「4番」
雨宮が小さく言った。
「赤いベストの者とは話してはいけない。この人、話しちゃってる」
「話して、そのあとも書き続けている」
朝倉はそこで一度だけ頁を戻して、日付を確かめた。
「消えてはいない。書きかたのほうが変わった」
4月23日 曇 学生が3名来た。羽を渡して、4階へ送った。
俺はその行をもう一度読んだ。
「退寮確認が、ない」
「4月の前半の行にはあった」
朝倉が右手の指で、前の頁と今の頁を交互に押さえる。
「送った、で終わっている。出たかどうかは書いていない」
「送ったって、どこに」
雨宮の声が高くなった。
「4階じゃん。ないって言われてる4階に、この人、学生送ってるじゃん」
4月30日 曇 窓の外に、何かいる。
5月15日 曇 来る学生が増えた。羽は、いくら渡してもなくならない。
6月15日 曇 名簿がなくなった。学園長室へ行く。
そこで記録は途切れている。
次の頁は、綴じ目に細い紙の帯が2本残っているだけだった。根元から破り取られている。切り口は真新しくない。
さらにめくると、罫線の上に、別の筆圧の字があった。
それはもう、こちらに気づいている。名前を忘れるな。
インクの色が違う。ペン先の太さも違う。日誌をつけていた几帳面な字とは、字の傾きが逆だった。
*
そこから先を、俺は覚えていない。
椅子の背に後頭部をつけて、ノートを膝に載せたままだった。朝倉はベッドの縁にいて、雨宮は壁を背にして床にいた。
位置だけは、はっきり覚えている。
途中で、右のポケットが押された感じがした。
布の上からではなく、中に何かが押し込まれる感じだ。誰かの指が、生地の内側で2度動いた。
声もあった。
俺の名前を呼んで、それから何かを続けようとして、途中で切れた。
切れたのではなく、俺のほうが聞き取れなくなった。頭の後ろから毛布をかぶせられるみたいに、音の輪郭がなくなっていく。
「――榊。読めたか。読めたなら、返事を」
そこまでだ。
目を開けたとき、部屋の明るさは変わっていなかった。
俺は椅子に座ったままで、膝の上のノートもそのままだった。
右のポケットに、手を入れた。羽がある。羽のほかに、折り畳んだ紙の厚みがある。2枚ぶんくらいの、硬い紙。
取り出そうとして、やめた。
理由はない。指が先に止まった。
朝倉がベッドの縁にいる。同じ姿勢で、同じノートを見ている。
ただ、開いている頁が違った。
さっきまで彼は、日付を前後に往復させて、書きかたの変化を追っていた。今は、4月23日の行だけを開いている。
学生を3名、4階へ送った、と書いてある行だ。
「起きたか」
「……ああ」
「寝ていたのは10分くらいだ」
「そうか」
雨宮は床で膝を抱えていて、目は開いている。
「朝倉、ずっとそこ見てるんだよ。俺が話しかけても、日付が、日付がって」
*
俺は端末を見た。
4時。
秒の表示は出ていない。4時ちょうどのまま、数字が動かない。
机の上に、丸い置き時計があった。
針は4時のところで重なっている。秒針は、4のすこし手前で震えていて、進まない。
「止まってる」
「二つとも、同じ時刻で」
朝倉が置き時計を持ち上げて、耳に当ててから戻した。
「音はしている。数字が進まないだけだ」
雨宮が自分の端末を3回叩いた。
「え、じゃあ夜明け来ないってこと。待ってれば明るくなるって、そういうのもうないってこと」
「時計が進まないだけで、俺たちは動けている」
俺は言った。言いながら、そのぶん何も終わらないことにも気づいていた。
「朝倉。破られてる頁があった。2枚」
「気づいていた」
「中身は」
「ない。あの2枚は、この部屋にはない」
朝倉はノートを閉じて、4月23日の行を親指で押さえたまま、立ち上がった。
「羽を渡して、4階へ送った。寮監はそう書いている。ここに書かれた中で、寮生が外へ向かった記録はそれだけだ」
「退寮確認がない行だ」
「確認が書かれていないことと、出られなかったことは、同じじゃない」
その言い方は、この男がいつもする言い方だった。根拠を分けて、断定の範囲を狭める。
ただ、今のそれは、4階のほうへ向かって狭まっていた。
窓の側で、雨宮が息を吸う音がした。
「ねえ」
カーテンは半分しか引かれていない。その隙間の外に、月があった。
大きい。低い。窓枠の上から下まで、ほとんど埋めている。表面の模様の凹凸が、指で触れそうな距離にある。
月の縁に、黒い粒が並んでいた。
1列、2列。電線にとまるみたいに、隙間なく並んで、こちらを向いている。
目のところだけが赤い。数えようとすると、列が増える。
「鴉だ」
俺がそう言い終わる前に、ガラスが鳴った。
窓の外側に、手形がついた。
5本の指と、掌の付け根。上から下へ、水滴が垂れるみたいに、ゆっくり下がっていく。
「ここ、3階だよ!」
雨宮の声が、裏返った。
「3階だって、寮監も書いてたじゃん。窓の外は空しか見えないって」
2つ目の手形がついた。
3つ目は、一つ目の隣に重なった。ガラスが内側にたわみ、サッシの金具が細かく鳴りはじめる。
「出るぞ」
朝倉がノートを小脇に挟んだ。
雨宮はもう扉のところにいた。
上の錠を外して、下のつまみに指をかけている。指が滑って、2度失敗して、3度目でかかった。
俺は椅子から立った。立った拍子に、ポケットの紙が腿を押した。
背中のガラスが、鳴りやんだ。




