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名前を忘れるな――四階のない寮の夜  作者: 空の異変


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第二話 三階まで

1時を過ぎて、廊下に足音が立った。


ひとつ、ひとつ、扉の前で止まる歩き方だ。隣の隣あたりで一度止まって、また動いて、俺たちの前で止まった。


こん、こん。


「点呼です。開けてください」


女の声だった。落ち着いた、低めの、寮の事務室にいそうな声。


1時から3時は夜間点呼の時間だ。寮のしおりにもそう書いてある。


この時間に扉を叩かれること自体は、去年から何度もあった。


雨宮が俺の袖を引いた。首を横に振っている。


朝倉は端末を3番のところで止めて、こちらに向けた。


寮監は緑のベストを着ている。


俺は指を2本立てて、自分の胸を2回叩いた。見る、と伝えたつもりだった。


朝倉の首が、横に動く。


「相馬のことを聞ける」


俺は声を落として言った。


「緑なら、本物だ。本物なら、外に一人いるって言える」


「6番」


「鎖は掛けたままだ」


「榊」


俺はもう錠に手をかけていた。


自分で決めた、と思う。今でもそう思っている。


ドアチェーンを渡したまま、扉を3センチだけ引いた。


廊下の照明は落ちていて、非常灯の緑だけが床を舐めている。隙間の向こうに、人の形があった。


俺は自分の胸元を指でつまんで、引っ張る仕草をした。ベストを見せろ、という意味だ。


相手は素直に、半歩前に出た。


赤だった。


非常灯の緑の下でもわかるくらい、はっきりした赤。前立ての金具まで見える距離に、それがあった。


「お部屋は、全員そろっていますか」


俺は答えなかった。


雨宮も、朝倉も、息の音しか出していない。


扉を閉めようとした。閉まらなかった。


隙間に、指が入っていた。


指と、腕と、肩の付け根までが、3センチのはずの幅に収まっている。骨の位置が、人のそれではない。


「お部屋は、全員そろっていますか」


同じ高さ、同じ速さで、もう一度。


朝倉が俺の背中を押した。押しながら、雨宮の腕を掴んでいる。


「開けて、横」


言われた意味が、体のほうに先に届いた。俺は鎖を外して、扉を思い切り手前に引いた。


隙間が広がった分だけ、向こうの形が前につんのめる。


その脇を、3人で抜けた。


廊下に出た。


背中で、扉が壁に当たって跳ね返る音がした。追ってくる足音は、俺たちの足音より数が多い。


    *


11階から下りるだけだ。


そう思っていた。


5、と書かれた踊り場を過ぎた。次は3のはずだった。


俺の前を雨宮が、その前を朝倉が下りていく。雨宮の呼吸が2段ごとに一回になって、そのうち一段ごとになった。


「榊、あと……どんくらい」


「もうすぐだ」


もうすぐ、が3回続いた。


踊り場の数字を見て、俺は足を止めた。


4。


白い塗料で、壁に直接書いてある。角の欠け方まで、ほかの階と同じだ。


「この寮に4階はない」


朝倉が、寮務連絡の2番を口で言った。読み上げたのではなく、覚えているほうを口に出した言い方だった。


「ないんだよ」


雨宮の声が上ずる。


「ないって書いてあるのに、あるじゃん」


4の踊り場から、廊下が伸びていた。


長い。うちの階と同じ長さの廊下が、非常灯の緑を点々と並べて、奥で暗くなっている。


俺の右足が、一段上がった。


上がった、と気づいたのは、左足も上がったあとだった。


膝から下が、俺の順番を待たずに動いている。雨宮も同じで、上半身は後ろに残したまま、つま先だけが4の側を向いていた。


朝倉が、逆を踏んだ。


4に向かう流れに対して、一段、上へ。踵から体重を落として、その勢いで俺の腕を引いた。


俺の背中が階段の手すりにぶつかって、足の裏がようやく俺のものに戻った。


「雨宮」


朝倉は俺を離さずに、もう片方の手で雨宮の襟首を掴んだ。3人分の体が、壁側に寄った。


しばらく、誰も何も言わなかった。


やがて朝倉が立ち上がって、4の側の廊下を見た。


「入り口だけ見てくる」


「は?」


俺の声のほうが先に出た。


「ないって書いてあるものが、ある。中を見れば、何を相手にしているのかわかる」


「わかってどうする」


「順番が決まる。どこから探すか」


朝倉は本気だった。


この男は、だいたいいつも本気で、そして落ち着いている。だからこそ、俺はその落ち着きに向かって怒鳴った。


「2番だ。この寮に4階はない。ないところに入ってどうすんだよ」


自分の声が、階段の上と下に二重に響いた。


雨宮が俺の肘を両手で抱えた。


「そうだよ、朝倉。朝倉がいなくなったら、俺ら、下りかたもわかんないって」


朝倉は、4の廊下のほうをもう一度見た。それから戻ってきて、俺の前に立った。


近い距離で、こう訊かれた。


「榊。名前は」


「は?」


「フルネーム」


意味がわからなかった。わからないまま、口が開いた。


「榊(さかき)」


そこで、止まった。


姓は出た。次が出てこない。


舌の位置は決まっているのに、その先の音が、手前で待っている誰かに押さえられている。


「――直人」


出た。


出るまでに、二つか三つ、呼吸が挟まった。


朝倉は頷いた。それ以上は何も言わずに、階段を下り始めた。


    *


3、と書かれた踊り場に着いたとき、俺の端末は3時28分を表示していた。


11階から3階まで、2時間以上かけて下りたことになる。


寮監室は、階段を出てすぐの右手にあった。扉は半分開いていて、中に人はいない。


ベッドが一台、机が一台、椅子が一脚。それだけの部屋だ。


雨宮が真っ先に机に寄って、引き出しに手をかけては閉めた。


「相馬、来てないのかな。来てたら、なんか置いてくよね。あいつそういうの置いてくもん」


「寮監もいない」


朝倉は机の上の紙の山を、端から一枚ずつめくり始めていた。


俺はベッドのほうへ回った。枕カバーに、洗濯ばさみの跡が二つ残っている。


掛け布団は整えてあった。誰かが今朝ここを出て、そのまま帰っていない、という形の部屋だ。


机まで戻って、俺は左の引き出しを引いた。


音もなく開いた。


中に、羽が入っていた。黒い羽が、束ねずに何本も、底に散らしてある。


長さは手のひらくらい。軸のところだけが、妙に硬い。


一本つまんで、ポケットに入れた。


入れてから、指が止まった。


右でもなく、真ん中でもなく、俺の手は左を引いた。


この部屋に入るのは今夜が初めてで、中身も今はじめて見た。手のほうにだけ、順番があった。


「なんかあった?」


雨宮が覗き込んでくる。


「羽」


「羽?」


「鳥の。使い道はわからん」


雨宮は「ふうん」と言って、それきり興味をなくした。疲れているのがわかる。膝が笑っていた。


椅子は一脚しかない。


雨宮はその背もたれに手をかけて、こちらへ押してきた。


「榊、そっち座って。俺は床でいいから」


「お前が座れよ。階段で死にかけてただろ」


「だから床でいい。座ると立てなくなるから、俺」


理屈になっていない。なっていないまま、雨宮は床に腰を下ろして、壁に背中をつけた。


朝倉はベッドの縁に浅く腰かけて、紙の束を膝に載せている。


俺は椅子を引いて、座った。

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