第一話 開けるな、開けてくれ
0時まで、あと10分。
俺は二段ベッドの下の段で、動画アプリを親指で流していた。猫が3匹、順番に箱から落ちる。
画面の上から通知が一本降りてくる。知らない番号だ。
「名前を忘れるな」
それだけ。署名も、続きもない。
指の腹ではじいて、着信拒否に放り込む。高校のころから、この手のやつは季節ごとに回ってくる。
「なんか来た?」
床に座った相馬が、室内履きの甲を裏返したまま顔を上げた。
「知らない番号。名前を忘れるな、だってさ」
「うわ、無理。俺そういうの読むと風呂入れなくなる」
そう言いながら、相馬の手は止まらない。甲の破れを黒い糸で縫い直していて、糸端が外に垂れている。
「そこ、糸が出てるぞ。貸せよ、結び直すから」
「まだ履けるって。糸、残ってたら取っといて」
机の上のマグカップは、底にココアの粉が残ったままだ。誰のだったかは、もう思い出せない。
上の段では雨宮が寝返りを打ち、向かいの下の段で朝倉が参考書を閉じた。4人部屋の夜は、だいたいこの形で終わる。
相馬が縫いかけの室内履きに足を入れて、立ち上がった。
「直人、先に寝てていいぞ。すぐ戻る」
「カード持った?」
「トイレだって。3歩だろ」
扉が閉まる。カードキーは机の上に置きっぱなしだった。
動画に戻ろうとして、アプリの一覧を出した。
一番下に、閉じ忘れたページが一枚残っている。求人サイトの保存ページだ。
学園長募集。月給80万円。社会保険完備。寮完備。新卒可。経験不問。契約解除時の違約金あり。
1年生の俺が、どうしてこんなものを保存しているのか。
思い出そうとすると、頭の中の引き出しが一段だけ、空のまま開く。閉じて、猫の動画に戻った。
*
0時を4分過ぎたところで、北寮の寮務連絡が鳴った。
運営からの一方通行の配信で、返信欄はついていない。普段は点呼の時間変更か、給湯室の清掃当番か、そのどちらかだ。
開いた画面には、番号のついた文がならんでいた。
寮生各位。以下を厳守すること。
1、0時以降、居室から出てはいけない。外にいる者は、3階の寮監室へ避難すること。
2、この寮に4階はない。
3、寮監は緑のベストを着ている。
4、赤いベストの者とは話してはいけない。
5、名前を忘れるな
6、居室の扉は、外から呼ばれても開けてはいけない。
上の段から雨宮の頭が逆さに降りてきた。
「いま鳴ったの、寮務?」
「寮務」
「なんて?」
「読め。俺が読んでも同じ文だ」
雨宮が自分の端末を覗き込んで、そのまま3秒黙った。それから梯子を4段、足の裏で探りながら下りてきた。
「5番って、なんか変じゃない。丸がついてない」
「点がな」
朝倉が机の明かりをつけた。声は、いつも通りの高さだ。
「句点が一つだけ落ちている。ほかの5つにはある」
「打ち忘れでしょ」
「かもしれない」
朝倉は端末を横に置いて、こちらを見た。
「榊。相馬は」
俺は自分の手の中を見た。相馬のカードキーが、机の木目の上で光っている。
外だ。
雨宮が、両手で自分の肘を掴んだ。
「電話、電話しよう。寮監室じゃなくて、外。うち、親とか」
「かけてみろ」
雨宮は発信して、耳に当てて、しばらくして画面をこちらに向けた。圏外の表示は出ていない。
呼び出し音も鳴らない。画面の真ん中に「発信中」とだけ出たまま、数字が増えていく。
30秒。1分。
「……なにこれ」
そのとき、扉が3つ、規則正しく鳴った。
こん。こん。こん。
「直人、開けてくれよ。カード、置いてきた」
相馬の声だった。低くて、語尾を少しだけ投げる、あの喋り方だ。
俺の手は、もう錠に伸びていた。
その手首を、朝倉が掴んだ。
指の力は強くない。ただ、離さない。
もう一方の手で、端末の画面を俺の顔の前に出す。6番のところに、爪の先が置かれていた。
「相馬だぞ」
「声はそうだ」
「開けないと、あいつ外に――」
「6番」
俺は口を閉じた。
扉の向こうで、もう一度ノックがあった。さっきと同じ間隔。さっきと同じ強さ。
「直人、開けて」
「直人、開けて」
「直人、開けて」
同じ高さで3回。3回目の語尾が、少し細くなった。
それから声は、相馬の喋り方をやめた。
甲高く、薄く、伸びる。廊下の端から端まで届くような声量で、俺の名前だけを繰り返す。
雨宮が布団を頭から被った。被った上から、両手で耳を押さえているのがわかる。
金属を爪で引っ掻く音が、扉の下から上へ、ゆっくり移動した。
10分ほど続いて、途切れた。
*
俺の手の中で、個別連絡が2件、続けて落ちてきた。
相馬からだ。
受信の順に、上から並んでいる。
午前0時23分 受信 送信 午前0時19分
「直人、開けてくれ。」
午前0時24分 受信 送信 午前0時8分
「直人、絶対に開けるな。」
指が止まった。
後に来たほうが、後の指示だ。あいつは扉の外で何かを見て、前に送った頼みを自分で取り消した。
俺はそう読んだ。
読んで、息を吐いた。開けなくてよかった、と。
「相馬から」
朝倉が顔を上げる。
「なんて」
「開けるな、って。絶対にって書いてある」
「ほかには」
「それだけだ」
俺は「どこにいる」と打って、送った。既読はつかない。もう一度「返事しろ」と打った。これもつかない。
雨宮が布団から目だけ出した。
「じゃあ、さっきのは相馬じゃなかったんだ」
「だろうな」
「相馬は?」
「わからない」
言ってから、自分の声が思ったより平らだったことに気づいた。
朝倉は画面を見せろとは言わなかった。
雨宮も言わなかった。二人が知っているのは、俺の口から出た十いくつかの音だけだ。
*
隣の部屋の扉が開いた。
金具の外れる音、蝶番の軋み、それから誰かが廊下に出る足音。壁一枚向こうで、二人分くらいの話し声が上がった。
言葉までは聞き取れない。笑っているのはわかった。夜中に扉を開けて、廊下に出て、笑っている。
俺たちは3人とも、自分の端末から目を上げて、壁を見た。
笑い声が短くなった。切れたわけではない。短くなって、低くなって、水を切るみたいに終わった。
それきり、隣からは何も聞こえない。
朝倉が寮務連絡の画面を下までスクロールして、指を止めた。配信の下に、寮生の登録人数が出ている。
「変わってない」
「なにが」
「登録。人数」
雨宮が覗き込んで、数えるのをやめた。数えなくても、昨日と同じ数字がそこにあるのがわかる。
隣の部屋からは、もう返事がない。数字のほうは、3人分と一人分を、きちんと足したままでいる。




