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名前を忘れるな――四階のない寮の夜  作者: 空の異変


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終話 もう一人の視点

僕の身体は、ここにない。


現実のほうの身体は、交差点の横断歩道で、右折してきた車に運ばれた。骨がどうなったかは聞いていない。


聞ける状態ではなかった。


医師が家族に説明した言葉のうち、僕に届いたのは一つだけだ。


植物状態。


意識はある。あると言っても、伝える手段がない。


まぶたも、指も、喉も、僕の命令を受け取らない。看護師が僕の髪をとかす感触は、きちんと届く。


届くのに、ありがとうと言えない。


そういう時間が、どれくらい続いたのかはわからない。


ある日、頭の中に電子音が鳴った。


多方世界の任務へ移行してください、と。任務の完了をもって、あなたの身体を返還します、と。


僕は返事の方法を持っていなかった。それでも、次に目を開けたときには、知らない街の、知らない部屋にいた。


手が動いた。喉も動いた。


それ以来、僕は任務を過ぎている。


何度目かは数えていない。数えると、残りを数えたくなる。


    *


澄杜学園は、僕にとって4つ目か5つ目の世界だった。


入った世界のことを、僕は基本的に信用しない。


住人は筋書きの一部で、彼らの困りごとは僕の任務の条件で、そこに情はいらない。そう決めて動くほうが、生きて出られる確率が高い。


榊直人は、その決めかたに合わなかった。


彼は最初、ただの同室者だった。名前を言うのに3秒かかる男で、危ないほうに足が向く男で、僕が止めなければ4階に入っていたかもしれない男だ。


僕が学園長室で名簿を見つけたとき、あの部屋には彼の記録があった。99。この学園で最も高い数字だった。


数字を見て、僕は彼を危険側に分類した。そこまでは、いつもの手続きだ。


手続きが崩れたのは、彼がその数字を自分で読み上げて、雨宮に一歩下がれと言ったときだ。


危険な側にいる者は、普通、自分が危険だと他人に教えない。


そのあとのことは、僕が見たままを書く。


彼は職務の書類を出して、自分に羽を渡す権限があることを示した。渡す前に、これは汚染度を消すのかと僕が訊いたら、消さない、と言った。


4階の掛け金は外れるのか、と訊いたら、外れない、と言った。


できないことを、できないと言ってから、できることだけをやった。


僕は羽を受け取って、門を出た。雨宮も出た。


彼は出なかった。


出なかった理由のうち、彼が口に出したのは二つだ。


学生がまだ4階にいること。99を外へ持っていきたくないこと。


そのあとの学園長室で何があったかを、僕は知らない。彼が一人でいた時間は、彼のものだ。


    *


次の世界は、海沿いの町だった。


錆びた手すりと、塩を吹いたガードレールと、坂の多い道。任務の内容は、まだ渡されていない。


坂の途中の自動販売機の前に、その男は立っていた。


背格好が同じだ、と思った。それから、缶を取り出すときの、腰をかがめずに膝だけ折る立ちかたを見た。


僕は名前を呼ばなかった。


名前を呼んで振り返るかどうかは、あの学園で何の証明にもならないと学んだ。声も、姓名も、模倣できる。


代わりに、僕は近づいて、彼の斜め後ろに立った。


彼は缶を持ったまま、こちらを見た。


見て、目を細めた。誰だったかを思い出す顔ではなく、思い出したものが本当にそこにいるかを確かめる顔だった。


僕の上着の袖口に、小さな毛玉がついている。歩きながらそれを指で転がして、落とした。


「榊」


彼は答えなかった。答える前に、缶を左手に持ち替えた。


右手を空けるためだ。


僕は一歩前に出て、その右手のほうへ、自分の手を差し出した。

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