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紬の涙

 学校近くのコンビニで買い物を済ませたあと、湊は今日の待ち合わせ場所へ向かった。

 -紬の暮らすワンルームマンションへ。


 軽い電子音と共に、エレベーターの扉がゆっくりと開く。

 学校からここまでは徒歩十五分ほど。

 一人暮らしの学生にとっては、立地だけ見れば悪くない場所だった。


 ただ、建物自体はかなり古い。

 壁には薄く剥がれた跡が残り、鉄製の窓枠には赤茶けた錆が浮いている。


(……本当に、こんな場所で大丈夫なのか)


 家賃を抑えるためなのは分かっている。

 それでも、女子高生が一人で暮らすには少し不安になる建物だった。

 そんな取り留めのないことを考えながら、湊は薄暗い廊下を進んでいく。

 右手側に並ぶ部屋番号を確認しながら歩き、

 『707』のプレートが掛かった扉の前で足を止めた。


 湊は鞄を開き、中を探る。

 取り出したのは、紬から預かっている合鍵だった。


 キーホルダーには、有名アニメの白髪の少女キャラクターがぶら下がっている。


 毎回扉を開けに行くのが面倒だから――という理由で、紬は合鍵を湊に渡した。


 それはつまり、彼女なりの特別扱いなのだろう。

(……いや、まさか)

 一瞬だけ浮かんだ考えに、湊の頬がほんのり熱を持つ。

(ないない。絶対ない)


 自分が紬にとって特別な存在なのは分かっている。

 だが、それと恋愛感情は別の話だ。

 あくまで自分たちは、趣味を通じて繋がった義理の兄妹。


 ただ、少しだけ距離が近い -そのはずだった。


 余計な思考を振り払うように、湊は鍵を差し込む。


 慣れたはずの動作なのに、今日は何度も鍵先がずれた。

 数回やり直した末、ようやく鍵が噛み合う。

 カチャリ、と重い音。

 少し錆びついた鉄扉を押し開けると、湊は小さく呟いた。


「お邪魔します」


 室内はかなり狭い。

 相場より安い家賃なだけあって、玄関も人一人が通れる程度しかなかった。


 下駄箱には、数足のローファーが綺麗に並んでいる。

 汚れひとつない靴先が、扉の隙間から差し込む光を淡く反射していた。


 几帳面な性格が、そのまま表れているようだった。


 湊は革靴を脱ぎ、邪魔にならないよう一番下へ揃えて置く。

 廊下は短い。

 突き当たりには小さなキッチンスペースがあり、以前ここで一緒にうどんを作ったこともあった。


 右側には、最低限の広さしかない浴室兼トイレ。

 だが、湊の目的地はそこではない。

 床板が小さく軋む音を立てる。


 紬の邪魔をしないよう、湊は意識して足音を殺した。

 廊下の途中、右手側の扉の前で立ち止まる。

 ドアノブはひんやりと冷たかった。


「紬。入るぞ」


「……ん……」

 扉越しに、小さな返事が返ってくる。

 湊はゆっくりとドアを開けた。


 室内は白を基調とした空間だった。

 古びた玄関とは違い、ここだけは妙に明るい。

 広さは一、二畳ほどしかない。

 ベッドは置かれておらず、その代わりに、紫陽花柄の薄紫色のマットが床に敷かれていた。


 部屋の隅には木製ラック。

 そこへ画材や参考書が隙間なく詰め込まれている。

 量は多いのに、不思議と散らかった印象はなかった。

 紬は壁にもたれ、足を崩したままタブレットへ向かっていた。


 ペンを持つ手だけが、絶え間なく動いている。

 視線は画面に釘付けで、湊が入ってきたことにも気づいていない。

 湊はコンビニ袋をマットの上へ置く。

 わざと軽く揺らして音を立てた。


 だが。

 紬は顔すら上げない。

(……また入り込んでるのか)


 ここまで来ると、もう周囲の音は届いていない。

 湊は小さく息を吐いた。


 本当はやりたくない。

 けれど、これ以上放置もできなかった。

「紬」


「……」

 返事はない。


 ペン先だけが動き続ける。


「おやつ買ってきたけど、どこ置けばいい?」

「……適当でいい。床でもどこでも」

「先に食べないか? 少し休んだ方が――」

「このラフ終わるまで無理。まだ時間かかるから、先食べてて」

「でも、生チョコシフォンだぞ?」

「集中したいの。今は話しかけないで」


 声には、明らかな苛立ちが混じっていた。

 紬が一番好きな甘い物ですら、気を引けない。

 そこまで執着する理由が、今の絵にはあるのだろう。

 普段の紬は、どちらかといえば気まぐれだ。

 だが、一度描き始めると違う。

 食事も時間も忘れ、ただ完成だけを追い続ける。

 それは昔から変わらない。


 ただ -最近は、少し異常だった。

 授業中に舟を漕ぐことが増えた。

 会話の途中でぼうっとすることもある。

 目の下には隈が浮かび、顔色も悪い。

 小柄な身体が、以前よりずっと頼りなく見えた。

(何があったら、ここまで自分を追い込めるんだ……)


 無理に止めたくはない。


 夢中になれるものがあること自体、湊は尊敬していた。

 けれど。

 このままでは、いつか本当に壊れてしまう。

 湊は立ち上がった。

 そのまま紬の隣へ歩み寄る。

 紬の肩が微かに揺れる。

 それでも彼女は、画面から目を離さない。

 湊はそっと手を伸ばし、ペンを持つ手首を掴んだ。

 ぴくり、と紬の身体が震える。

 次の瞬間、彼女は強引に振り払おうとした。

 だが、力では敵わない。


「そろそろ休め、紬。このままだと倒れるぞ」

「……離して」

「少しだけでも――」



「離してって言ってるでしょッ!!」

 鋭い叫び声。

 紬は勢いよく湊を突き飛ばした。

 その声には、苛立ちだけではない。

 悲鳴みたいな絶望が混じっていた。


「紬……」

「私みたいなのに……休む資格なんてない……!」


 肩を震わせながら、紬は息を荒げる。


「描かなきゃ……描き続けなきゃ……っ」


「じゃないと……っ!」

 声が途切れる。


 呼吸すら上手くできていない。


「また、落ちたのか」


 その一言で、紬の表情が歪んだ。


「……そうだよ」

 彼女は、自嘲するように笑った。

「いっぱい時間かけて……いっぱい頑張って……」


「睡眠だって削って……」

「やっと、自分で納得できる絵が描けたのに……!」

 声が掠れる。


 目尻から涙が零れ落ちた。


「なのに、またダメだった……!」


 雫がマットへ落ち、じわりと滲んでいく。


「もう何回目だと思う……?」


「才能ある人たちは、もっと先にいるのに……私は、その背中すら見えない……!」


 震える声が、部屋の空気を切り裂く。


「だから……私みたいな才能のない人間は……!」


「筆を止めちゃダメなんだよ……!」

 涙が次々と零れていく。


「少しでも止まったら……世界から置いていかれる気がするの……!」

「だから放っておいてって……そう言いたかったのに……」

 そこで紬は突然、湊の胸へ拳を叩きつけた。


「なんで気づくの……!」

「いつも通りにしてたのに……!」

「絶対バレないようにしてたのに……!」


 何度も、何度も叩く。

 痛みより先に伝わってきたのは、彼女の壊れそうな苦しさだった。

「気づいたなら……なんで放っといてくれないの……!」


 嗚咽混じりの声が漏れる。

「湊だって……苦しいはずなのに……!」

「なんで、そんな風に……優しくできるの……!」


 その瞬間。

 湊は、紬の姿に自分を重ねていた。

 書いて。

 投稿して。

 落ちて。

 また書きます。

 終わりの見えない繰り返し。


 一人になった夜、胸の奥が潰れそうになることもあった。


 泣きたくなることだって、何度もあった。

 けれど湊は、それを隠してきた。

 紬に心配をかけたくなくて。

「……苦しいよな」


 ぽつりと零した声は、紬へ向けたものだった。

 同時に、自分自身への言葉でもあった。

「一人で抱えるには、重すぎる」


 理解されない痛み。

 言葉にしても届かない苦しさ。

 ただ、自分の中だけで腐っていく感情。


 湊は静かに腕を伸ばした。

 そして、紬の身体をそっと抱き寄せる。

 壊れ物を扱うみたいに、優しく。

 紬の身体がびくりと震えた。

 だが、拒まなかった。

 むしろ、力が抜けるように湊へ体重を預けてくる。

 その小さな身体は、驚くほど軽い。

 なのに、痛いほど重かった。


「紬。俺は、お前の全部を理解できるわけじゃない」


「でも今くらいは……無理しなくていい」


「ここには、誰もいないから」

 紬は小さく息を呑んだ。


「……もし、一人になりたいなら、俺は出ていく」


「だから、好きにしていい」


 全部吐き出せばいい。

 泣いても、叫んでもいい。

 せめて今だけは、我慢しなくていいように。


「……嫌じゃ、ないの?」

 震える声。


「こんな私でも?」

「見えてないって言っただろ」

 今この瞬間だけは。


 神様ですら、目を閉じていてほしかった。

「……ねえ、兄さん」


「ん?」

「一つだけ、お願い聞いて」

「俺にできることなら」

「目、閉じて」

 湊は静かに瞼を閉じた。


 閉じた視界の奥が、少しだけ熱い。

(……今は、ダメだ)


「……ありがとう」

「ああ」


 服の裾を、きゅっと掴まれる感覚。

 そして。


 紬は額を、そっと湊の胸へ押し当てた。

 次の瞬間。

「……っ、ぁ……!」

 堪えていたものが、決壊する。


「悔しい……っ!」


「悔しいよぉぉっ……!!」


 少女の痛ましい泣き声が、狭い部屋いっぱいに響き渡った。


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