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湊の悔しい

 少年は、誰もいない教室で一人、机に向かっていた。


「うーん……どう書けばいいんだろ」


 湊は鉛筆の後ろ側で、軽く自分の頭を叩く。

 こうでもすれば、少しくらいはアイデアが浮かぶ気がした。


 先月、ようやく完成させた小説を出版社へ投稿した。

 けれど、未だに連絡はない。


 半年近くを費やし、全力を注ぎ込んだ作品だった。


 今ごろはきっと、編集部の机の上。

 積み上がった原稿の山に埋もれたままなのだろう。


(……俺なりに、全部出し切ったはずなんだけどな)

 考えるほど、胸の奥が重くなる。


 湊は少しだけ強めに鉛筆を額へ当てた。

 鈍い痛みが、じわりと伝わってくる。


 しかも悪いことに、前作へ全部を注ぎ込んでしまったせいで、今は新しい発想がまるで浮かばない。



 たとえば今書いている作品だ。


 設定以前に――そもそも、どうやって異世界へ転生させるのかすら決まっていない。

 寝て起きたら異世界でした、なんて。


 さすがにそれでは味気なさすぎる。


 だからといって、面白い案が出てくるわけでもなかった。


 連日の徹夜のせいで、瞼は重い。

 思考も、眠気に引きずられるように鈍くなっていく。

 上下の睫毛が触れ合いそうになったところで、額を叩いていた鉛筆が止まった。


(……だめだ)

 このまま考えていても、答えなんて出そうにない。


 少しくらい休んだ方が、案外いいアイデアが浮かぶかもしれない。

 湊は鉛筆を置き、両腕を頭上へ伸ばした。


「あー……っ」


 固まった身体が軋む。


 軽い痛みすら、どこか心地よかった。


 そのまま窓の外へ視線を向ける。


 夕焼けが空を赤く染めていた。



 暖かい色なのに、どこか寂しい。

 誰もいないグラウンドでは、風に揺れる桜の木だけが静かに音を立てている。


 枝葉が擦れ合う音。

 舞い落ちる淡い桜色。

 無数の花びらが夕暮れの空を漂い、まるで桜吹雪のようだった。

(……綺麗だな)


 その景色を眺めていると、少しだけ胸の重さが和らぐ。

 不思議だった。

 落ち込んだ時も、苦しい時も。

 桜が散る景色を見ていると、痛みが少しだけ遠くなる。


 ただ花を見ているだけなのに。

 まるで誰かが隣で慰めてくれているみたいだった。

「……不思議だよな」



 ぽつり、と独り言が零れる。

 その時だった。

 背後の木製引き戸が、ぎぃっと音を立てる。


「やっぱりここにいたんだ、お兄ちゃん」


「結構探したんだからね?」


 振り向くと、そこにはセーラー服姿の少女が立っていた。


 青みがかった紫色の長い髪は、今日は二つ結びにされている。

 前髪は目元ぎりぎりまで伸び、両脇の髪は胸元まで垂れていた。

 そして、悪戯っぽく細められた藍色の瞳。


「紬……音無さん。学校ではそう呼ぶなって言っただろ」

 そう。


 俺と音無紬は、今では兄妹ということになっている。


 もっとも、本当の兄妹ではない。


 ある事情から、俺たちは義理の兄妹になった。


 周囲から見れば、仲のいい男女の友人。


 けれど、この妙な関係は、もう一年以上続いている。

「いいじゃん。どうせ今、誰もいないし」

「学校にいる間はダメ」

「ちょっとくらい融通利かせてよー」

「絶対調子に乗るだろ」

「湊のケチ。ずるいケチ」

 紬はわざとらしく頬を膨らませた。


「ケチはともかく、ずるいってなんだよ……」

「だって、そう呼ばれると嬉しそうにするじゃん」

「してない」


 少なくとも、自覚はない。

「してるしてる。すっごく分かりやすいよ?」

「それは……」

「ほら、やっぱり」

 くすくす笑いながら、紬が覗き込んでくる。


「今日は呼びたい気分なの。ダメ?」

 わざとらしく拗ねた顔。

 ハムスターみたいに膨らんだ頬。


 そんな顔をされると、強く出られない。

 湊は小さく息を吐いて、そっと彼女の頭へ手を置いた。

 さらり、と指先を髪が滑る。


 紬の髪は細くて、驚くほど手触りが良かった。

 普段から丁寧に手入れしているのだろう。

 不機嫌そうだった表情も、少しずつ緩んでいく。

 ……その代わり。


 なぜか頬には、うっすら赤みが差していた。

「も、もういいって! いつまで撫でてるの!?」

 紬が慌てたように声を上げる。

「反省するまで」

「ずるい……」

「何のことだ?」

「ひどい」

 誤魔化すように、紬はローファーのつま先で湊の足を軽く踏んだ。


 痛くはない。

 くすぐったいだけだ。

 たぶん、形だけの反撃なのだろう。


 しばらくして、湊は頭から手を離した。

 その途端、紬はふいっと背中を向ける。

 何かを小声でぶつぶつ呟いていたが、うまく聞き取れない。


「……まだ怒ってるのか?」

「知らない」

 声は明らかに拗ねていた。

 この様子だと、しばらく振り向いてくれそうにない。


(……仕方ないか)

 湊は苦笑しながら口を開く。

「紬」

「ずるい人とは話しませーん」

「……学校でも、呼びたいなら好きに呼んでいい」

 どうせこの時間、校内にはほとんど誰も残っていない。


 それに――今は、少しくらい譲った方がいい気がした。

「ふふん。なら許してあげます、兄様?」


 途端に、紬が勢いよく振り返る。

 得意げに胸を張る姿が、妙に子供っぽかった。

「だからその呼び方やめろって……」

「いいじゃん、許可もらったし?」

「“様”はいらないだろ……!」

「でも嬉しそうだよ?」

「気のせいだ」

「はいはい」

 紬は楽しそうに笑いながら、参考書を鞄へ入れていく。


「あ、そろそろ時間だ」

「今日もあそこ?」

「うん。でも――」

「でも?」


 鞄を持った紬は、そのまま教室の後ろ扉へ向かった。

 引き戸を細く開けた隙間から、少しだけ赤くなった顔が覗く。

「今日のおやつ、奢りだからね?」

 言い切ると同時に、ガラッと勢いよく扉が閉まった。

 反論する隙すらない。



「……ずるいのは、そっちだろ」


 逃げるように去っていった少女へ、小さく呟く。

 また財布が軽くなるな -と。

 湊は重たい鞄を持ち上げ、静かにため息を吐いた。



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