僕と君
「……ごめん。また、湊にぶつけちゃった」
どれくらい時間が経ったのだろう。
紬は湊の背中を軽く数回叩いた。
-もう目を開けてもいい、という合図だった。
湊はゆっくりと瞼を開く。
「次はちゃんと言えよ。本当に、いつか壊れるんじゃないかって怖い」
「……善処します」
紬は視線を逸らしながら、小さく答える。
どこか後ろめたそうな声だった。
「ただ……」
「なんだよ。守る気ないのか?」
すると紬は少しだけ頬を赤くし、声をさらに小さくした。
「その……湊って、なんでそんなに強いのかなって」
「なのに、人にはすごく優しいし……」
その問いに対して、湊の中に答えは一つしかなかった。
「……追いつきたいんだ」
「え?」
「“あの人”に。……いや、“あの二人”に」
腕の中の紬を見下ろしながら、湊は静かに言葉を続ける。
「彼の小説ってさ。読んでると苦しくなるんだよ」
「胸が締め付けられて、息が詰まりそうになるくらい」
「でも――」
湊は、夕暮れの教室で感じた感覚を思い出す。
「真っ暗な場所に、ほんの少しだけ光が差し込むみたいな感じがするんだ」
救いなんて簡単には与えてくれない。
なのに、最後には確かに“前を向きたい”と思わせてくれる。
あの感覚に、湊は何度も救われてきた。
自分たちより、たった数歳年上。
それなのに、あれほど人の心を揺さぶる作品を書ける。
本当に、何者なんだろうと思う。
十三歳でデビューした彼らは、一気に注目を集めた。
五年でシリーズ累計五百万部。
湊は当然、初版まで揃えている。
「だって湊、あの小説家の大ファンだもんね」
紬がくすっと笑う。
「まあ、私はイラストレーターの方に憧れてるけど」
彼女は湊を背もたれ代わりにしながら、ゆっくりと顔を上げた。
「瑕さんの絵って、不思議なんだよね……」
「暗い色ばっかりなのに、絶望だけじゃ終わらないっていうか……」
「絶望の中にある救い、だろ?」
湊が先に答える。
紬は少し目を丸くしたあと、小さく笑った。
「うん、それ」
瑕のイラストは、黒や深紅を多く使う。
線も荒く、どこか不安定だ。
普通なら重苦しく見えるはずなのに、不思議と崩れない。
むしろ、その暗闇の中に差す微かな光が、強く心に残る。
眩しいわけじゃない。
だけど確かに、“こっちへ進め”と導いてくれるような光だった。
「初めて見た時に思ったんだ」
「……ああ、これが私の描きたかったものなんだって」
「瑕さんみたいな絵を描きたいって、本気で思った」
そう言ったあと、紬は少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、現実は全然うまくいかないね……」
眉が弱々しく下がる。
泣いたせいで赤くなった目が、まっすぐ湊を見つめていた。
「……でも」
紬はゆっくり口を開く。
「私は、きっと辿り着けると思う」
「今は上手くいかなくても」
「私たちも、いつか絶対――」
「“あの二人”みたいなコンビになれる」
「だって、私たちが出会った理由も……あの作品だったから」
そこで、紬の声が急に途切れ途切れになった。
いつもの勢いがない。
湊はすぐに理由を察する。
連日の徹夜。
描き続けた集中力。
そして、さっきまで泣き続けていた疲労。
もう体力も精神力も限界なのだろう。
紬の瞼がゆっくり下がっていく。
何かを呟いているが、ほとんど聞き取れない。
そのまま彼女は再び湊へ倒れ込んできた。
背中へ回された手は驚くほど細く、少し冷えていた。
ふわりと甘い香りが鼻先を掠める。
柔らかな感触が密着して、湊の鼓動が一気に速くなる。
(いや、落ち着け俺……)
たとえ義理でも、年頃の男子高校生だ。
こんな状況で平静でいられるほど、達観してはいない。
誤魔化すように、湊は机の上の時計へ目を向けた。
時刻は九時半前。
普通の高校生なら、まだ夜の始まりくらいの時間だろう。
(……そろそろ帰るか)
今日は結局、作業はほとんど進まなかった。
このまま居続ければ、きっと“あの人”にまた怒られる。
そう思い、湊が身体を起こしかけた瞬間。
くい、と袖を引かれた。
「……行か、ないで……」
紬が、ぼんやりした意識のまま服を掴んでいる。
「だ、ダメだって。もう遅いし……」
羞恥を押し殺しながら説得しようとする。
だが紬は離さない。
それどころか、今度は湊の背中へ腕を回した。
「お、お願い……ちょっとだけ……」
「そばに……いて……」
そう呟いて、彼女はこてんと頭を湊の肩へ預ける。
完全に無防備だった。
そんな顔をされてしまえば。
(……断れるわけ、ないだろ)
湊は観念したように息を吐く。
そして片手で紬の背中を支え、もう片方の手で優しく頭を撫でた。
「おやすみ、紬」
「……おやすみ……」
返事は途中から寝息に変わっていた。
呼吸はゆっくりと規則正しくなり、小さな身体が静かに上下する。
明日の朝になったら。
きっと顔を真っ赤にして、思いきり殴られるんだろう。
そう思うと、少しだけ笑えた。
湊も静かに目を閉じる。
カチ、カチ、と秒針が時を刻む。
その音に混ざるように、紬の穏やかな寝息が響いていた。
意識が、ゆっくり沈んでいく。
夢を見た。
二十代くらいの男がいた。
長めの黒髪。
どこか、自分に似ている。
男は机に向かい、大量の原稿用紙に囲まれていた。
その隣には、青紫色の髪をした女性がいた。
年齢も同じくらいだろうか。
二人は何かを話しながら、穏やかに笑っている。
ふと、女性が笑いながら髪を耳にかけた。
その仕草が、紬とそっくりだった。
(……ああ)
もしかしたら。
あれは未来の自分たちなのかもしれない。
憧れた背中へ辿り着いて。
自分たちの作品を、誰かに届けられるようになって。
互いを支えながら、隣に立っている未来。
今はまだ、遠い。
上手くいかないことの方が多い。
苦しくて、折れそうになる夜だってある。
それでも。
一人じゃないのなら。
隣で同じ光を追う誰かがいるのなら。
きっと、歩き続けていける。
夢の景色が、少しずつ白く滲んでいく。
その最後に。
誰かの声が、優しく響いた気がした。
「……明日も、頑張ろう」




