馬愛する姫
袴姿で馬にまたがり、女性が颯爽と砂浜を駆ける。
浜の高台にある尼寺からその様子を見ていた椿はその様子に感嘆の声を上げていた。
「なんとも見事な。馬も素晴らしいが、その馬術もお見事。人馬一体とはまさにこのこと」
白椿がそう言うと、この尼寺の主、千寿院がまさに、と頷いた。
「あれが、噂の姫君、松姫でございます。馬術にことのほか長け、領主様も舌を巻くほどとか。……いつもああやってあちこちを駆け回っておるので、城の者もほとほと困っておるとの事」
「それはまた筋金入りじゃな」
「はい、なんでも今乗っておる馬がたいそうお気に入りで、自分は輿入れなどせぬ、と言って居るとか」
「まぁ、それは領主様もお気の毒に」
そう言うと、二人の尼は顔を見合わせて笑った。
そうこうしているうちに、松姫は高台を駆け上がり尼寺の門前までやってきた。
彼女は、ようやく追いついてきた近習の者たちを尻目に、舞うような美しさで下馬する。
出迎えた白椿達は、若武者と見間違うようなその姿に、改めて感嘆のため息を漏らした。
「千寿院様、またお邪魔いたします。何しろ尼寺に参ると言わぬと。なかなか遠乗りもできぬものでございますから」
松姫はそう言うと、門前で一礼する。
健康的な少女の気品に満ちた振る舞いは、実に気持ちの良いものである。
千寿院はそれに合掌して礼を返すと、松姫を寺に迎え入れた。
なるほど、寺へのお参りと言えばだれも行くなとは言えぬ。
しかもここは尼寺、松姫にとっては、良い気晴らしの場所という事だろう。
そして、息も絶え絶えの下女たちを従えて、寺の中に入った松姫は、ふと白椿の前で足を止める。
それに千寿院は、慌てて白椿を紹介した。
「ああ、こちら京から来られた尼で白椿尼と申します。顔立ちは若いですが、知識もあり、顔も広いお方で……」
そう、千寿院が紹介する言葉も松姫には届いていないようだった。
彼女は、白椿の顔をしげしげと眺め、必死に何か追い出そうとしているようであった。
「……失礼ですが、以前どこかでお会いしたことがございましたでしょうか?」
その声に顔を上げ、白椿は姫君と目を合わせた。
それは確かに、見覚えのある顔。
しかし、白椿は一瞬戸惑った後、思わず出そうになった言葉を飲みこんだ。
そして、改めて頭を垂れると。
「さて?私は、この地は先月来たばかり、何かのお間違いでは?」
と、素知らぬ顔で返した。
「……そうか、確かに私はこの領内から出たことはない。気のせいであろうか?」
松姫は、そう言って首を傾げる。
白椿はそれに
「前世でなにか因縁でもあったのでしょう」
と、返した。
そう、松姫は、あの梅によく似ている。
だがそれは、もう百年以上も前の話だった。
あの時、白椿がいた村は、重税と不作による飢饉が始まりつつあった。
貴重な米は地頭に取り上げられ、村人は雑穀や山でとれた食糧で飢えをしのぐ有様。
それは村人が何とか生きて行ける程度のものでしかなく、当然それは病弱な者、年老いた者の体力を奪っていた。
そんな村に居たのが、長年胸の病を患っていた梅だ。
彼女は夫の竹蔵と、つつましやかに暮らす夫婦だったが。
食べるものもない中で病をこじらせ、病を恐れた村人からも避けられ、白椿が気づいて様子を見に行った時はすでに体力は尽き果て、幾ばくも無い状況だった。
白椿も、ある程度薬の知識には自信があった。
不老不死の身、病気など恐れることはない。
だが、肝心の梅自身の体力だけはどうにもならなかった。
もはや、打つ手はない。
衰える梅を診て、そう判断した白椿は、仕方なく彼女の聞こえない所で夫の竹蔵にその旨を告げた。
彼はそれに憤懣やるかたない様子であった。
「なぜじゃ?なぜ梅がこんな目に合わねばならんのじゃ!ただ二人、静かに暮らしていただけなのに。病に侵され!村人には避けられ!惨めに死んでいくのか!」
白椿はそれに答える言葉を持たなかった。
ただ天を仰ぎため息を漏らす。
「さて、前世の因縁か、御仏の試練か……」
「そんなものは知らぬ!」
竹蔵は、その言葉に大きく首を振った。
「前世で何をしたかなど知らねば、悔いる事すらできぬ。試練など、死んでしまえば何にもならぬ!ワシはただ、村人から避けられ、食いたいものも食えず、惨めに死んでいく妻が哀れでならぬのだ!罪なら儂が請け負う!ただこの現世で、儂らは二人でつつましやかに生きていきたいだけなのだ!」
白椿はやはりかける言葉が見当たらなかった。
煩悩や執着を捨てるだとか、そういう言葉は、ただ愛する妻を哀れに思うこの男には何ら届きそうにはなかった。
そして、白椿にはこの男の気持ちが痛いほどよくわかる。
愛する者が去り行く悲しみ、周囲の理不尽、そして自然すら自分たちに牙を向く。
これが御仏の思し召しというならこんなに残酷な事はない。
自分がこの不老不死の身の上を受け入れられるまで、百年以上かかった。
今でも、目の前で死にゆくものを見れば心穏やかにはいられない。それが自分の伴侶であればなおさらのことだろう。
だが、白椿はそれを表情には出さなかった。
今竹蔵と共に取り乱しても、何にもならぬ。
白椿は、竹蔵に静かに言葉を掛けた。
「お主が取り乱しては、梅も心中穏やかには逝けぬ。今は心静かにそばにいて、最後まで励ましてやれ」
それは、白椿ができる最後の助言だった。
だが、竹蔵はそれすら受け入れられぬようであった。
「断る!梅は助ける!腹が減っているならたらふく食わせてやればよいのだ。食うものがないなら、どんな手を使ってでも持って来てやる!」
「やめぬか!もうどうにもならぬのだ。この上お主が罪を重ねてしまえば……」
「たとえ畜生道に落ちようとも、ワシは梅を死なせたくはない!こんな惨めな想いをせねばならぬ宿命などワシは認めん!」
そして竹蔵は、いずこかへ走り去っていった。
半ば気持ちのわかる分、白椿は止める事などできなかった。
仕方なく竹蔵の家に戻ると、梅は一人、床で咳込んでいた。
もはや起き上がる体力もない、梅に白椿は優しく声をかける。
「……すまぬな。竹蔵はお主に精をつけさせるんじゃと、飛び出していきおった。本当にお主の事が心配なのじゃな」
梅はそれに返事をしようとしたが、言葉にならないのか苦しそうにこちらを向いてほほ笑むのが精いっぱいだった。
「……申し訳ございませぬ、私の病のために……」
「なに、尼というのはこういう仕事じゃ、気に病むことはない……竹蔵もしばらくしたら戻ろう。気にせず休め」
力いっぱい声を出す梅の声はそれこそかすれて消えそうなほど弱々しかった。
もはや、なにか食べる力すら残ってはいない。
これが、白椿がこの女に先が無いと判断したきっかけでもあった。
「……比丘尼様、私は死ぬのでしょうか」
苦しい息の中の梅の言葉に、白椿はぎょっとなった。
そしてそれを悟られまいと、努めて穏やかに、白椿は返事を返す。
「……弱気になってはいかん。今、竹蔵がお主の為に駆け回っておるのだ」
その言葉に、梅は弱々しく首を振った。
「……比丘尼様、どうぞ気を使わないでくださいませ。死は私にとって救いでございます」
「……救い?」
「はい、私の体が弱いために、夫にはずいぶん無理をさせてしまいました。村の者からも関りを絶たれ、苦労しております。私が死ねば、それも終わり。私もこの苦しみからやっと解き放たれるのでございます」
それは、確かに、彼女にとっての最後の救いであった。
すべての苦しみから解き放たれる最も簡単な方法。
彼女は今それにすがろうとしている。
白椿はそれを、とても否定することはできなかった。
「……そうじゃな。そうかもしれぬ。じゃが、極楽に行くためには、もそっと耐えねばな。今生は修行の場じゃ。終わりが近いからとて、途中で投げ出してはいかん」
白椿は彼女の手を取り、子供に語り掛けるように言った。
今生は修行の場。
それは永遠の命を持つ白椿にとって身に沁みている事だった。
終わることを許されず、永久に今生に留まる自分と。
絶望と苦しみを味わいながら、死という終焉に向かう梅。
果たして彼女と自分、どちらが幸せなのであろうか。
白椿は幾たび自分に問いかけた問いを思い出していた。
そして梅は、熱にうなされながら、「極楽」という言葉に反応していた
「……極楽。ああ、もう極楽が近いののですね?……私は極楽へ行けるのでしょうか?」
「最後まで、諦めねば、極楽への道が開ける。人は極楽へ行き、そしていずれ生まれ変わる。すべての苦しみから解き放たれ、新たな生がまた始まるのだ」
それは、白椿も聞いたことしかない話だった。
だが、彼女にはそれが唯一の救い。
白椿はそれを静かに肯定する事しかできなかった。
「……私、生まれ変わったら、だれにも迷惑をかけない、元気な体で生まれとうございます。お姫様にでもなって、おなか一杯食べて……元気に野山を駆け回るのでございます」
「……そうなると良いな」
「……できましたら、夫とも、まためぐり逢いとうございます。今まで迷惑をかけた罪と、一人で置いていく罪を償いたいのでございます……」
「……お主らは本当に互いの事を想うておるのじゃな」
「……はい、幾たび生まれ変わろうとも、永久に……」
そう言って、梅は微笑んだ。
言葉はもはや、うわ言のようであり、意識があるかどうかも曖昧になっていた。
そしてそれが、梅が発した最後の言葉になった。
数刻後、梅の苦しそうな息は、静かになっていった。
握っていた手から体温が急速に奪われていくのを感じ、白椿はようやくその時が来たことを感じていた。
彼女は最後まで必死に生きた。
そして、行くべきところへ行ったのだ。
白椿は、すっかり暗くなった家の中で、静かに合掌した。
結局、竹蔵は死に目に会う事はなかった。
そしてまた数刻、戸を叩く大きな音で、白椿は竹蔵の帰宅を知った。
だが、彼は家に入っては来ない。
白椿が戸を開けると、そこには血まみれの竹蔵が戸の前に倒れ伏していた。
見れば、藁の袋を大事に抱えている。
その姿に、白椿は竹蔵が取り返しのつかないことをしたらしい事を察した。
「……おお、比丘尼殿。妻を診ていて下さったか……ありがたい……」
竹蔵は白椿の姿を認めると、再度気力を振り絞って顔を上げた。
どうやら、ひどく殴られたらしい、顔は腫れ、口からも鼻からも血を吐いた跡がある。
「村の奴らが隠していた米を。盗って来てやった。こいつを……梅に……食わせてやってくれ」
「……何という事を……」
「もうすぐ村の奴らが追ってくる。……梅には、いつか戻って来るから、安心せいと言うてやってくれ」
そういって、弱々しく笑いながら、竹蔵が袋を白椿に手渡した。
慌てたのか、途中でもみ合った際切り裂かれでもしたか、袋の中に米はほとんど残っていない。
だが、竹蔵はそれに気づいていないのか、満足げに笑い。ふらふらと立ち上がった。
「なぁ、比丘尼殿。ワシは地獄に落ちよう……だが、悔いはない。梅を腹いっぱい食べさせて、あいつだけでも極楽に行かせてやるんじゃ。……梅を、のう、梅を、頼む」
そう言うと竹蔵は薪を持ってふらふらと立ち上がり、そしてしばらく歩いたところで力尽きて倒れた。
みれば後ろ頭にはひどく殴られた跡があった。
それは、ここまでたどり着けたのが奇跡と思えるほどの深手であった。
間もなく駆け付けた村人たちによって、二人は家ごと燃やされた。
誰も弔うものが居なかったので、白椿は彼らを村人たちにだまって、懇ろに弔ったのである。
あの二人は、望み通り次の生を受けたのか。
白椿はそれだけが気がかりであったが、そればかりは御仏にすがるより他ない事であり、ただ、祈る事しかできなかった。
あれから何百年か、梅とそっくりな姫君が、元気に今を生きている。
輪廻の輪の中で六道をいかに巡ってきたかは分からぬが、彼女の想いは果たされたのだ。
事の真相は確かめようもないが、松姫と話しながら白椿はそんな思いにすがりたくなっていた。
松姫は、それほど彼女に良く似ており、そして彼女の望みどおりの生を歩んでいる。
それは、死後というものが全く見えないでいる白椿にとっては静かな救いだった。
数刻談笑したのち、松姫は城に帰ると言い出した。
白椿と千寿院は、見送るため門まで送って行く。
そして、去り際千寿院は姫君に一言、声をかけた。
「姫君も、馬ばかりかわいがり、輿入れせぬと皆を困らせませぬように。」
それに、松姫は少し照れ臭そうに笑い、そして傍らの愛馬を撫でた。
「さて、それはどうにも気が乗らぬ。私はどうにも、この竹風が愛おしくて仕方ないのじゃ。馬というのに、なんとも心惹かれてならぬ。どうしてもというなら、この馬もともにでなければ、と思うのじゃ」
そう言う姫に撫でられ、顔を摺り寄せる竹風。
そんな、姫の愛馬を、白椿ははっとなってのぞき込んだ。
「……竹風、か。」
何という偶然だろう。
白椿は、そのまなざしに不思議と、そしてはっきりとあの竹蔵を感じていた。
そして、竹風は白椿にも鼻を摺り寄せてくる。
そんな竹風を撫でながら、白椿は松姫に請う言葉を掛けた。
「それは、前世でなんぞあったのでございましょう」
互いに六道の異なる道に落ちたとて、輪廻を繰り返し二人は来世で、思いを遂げたのだ。
白椿は、そう思いたかったし。そう思うべきだと思った。
御仏の慈悲は確かにある。
数百年生きていて、初めて見ることができるものを八百比丘尼は見たのだと思った。




