(6)
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ユナは、湿った土の匂いを間近で感じて目を覚ました。
うっすらと開いた瞳にとびこんできたのは、金色の草。ハッと思わず身を起こし、改めて辺りを見渡す。ユナが横たわっていたのは、以前に一度だけ夢の中で見た金色に光る世界。晴れた日の春を思い出させる場所で、風もないのにふわふわと金色の粒子が一帯に漂っていた。まるで隣の家が菓子を焼いているかのような甘い香りが辺りに満ちている。地面に生える雑草も、見知らぬ金色の花も、やはり見覚えはないというのになぜか懐かしい、とユナはぼんやり思った。
夏の日の畑と似た温かさをもつ地面に手をつけて、ユナはしっかりと立ち上がった。手についた土を払い落とし、空を仰ぐと甘い香りがいっそう強くなる。もしかしたら、匂いを放つものは、木の上のほうにあるのかもしれない、とそんなことを考えながら、ユナはゆっくりと歩き始めた。
金色の森は、とにかく暖かい。
それほど歩いていないはずなのに、外套の下が汗で濡れ始めているのがわかった。両腕をまくり、無造作に並ぶ木の幹につかまり辺りを確認しながら、ゆっくり慎重に進む。足の裏に触れる地面が柔らかく、少し油断してしまえば、足を取られてしまいそうだった。
(ここは、どこなんだろう……)
どれだけ歩いても、いっこうに景色が変わらないことに不安を覚えるなか、それでも恐怖はこれっぽっちもなかった。自分が住んでいる場所とはかけ離れていて、しかも突然こんな場所に放り出されて。戸惑いはあるが恐ろしくはない。自分でも驚くほど落ち着いていた。
もしかしたら、今こうしている瞬間も、夢の一部なのだろうか。
しかし、ジェスやルーンが出てくる夢を見ているときとは全く違う。場所はどことなく彼らがいた世界に似ているが、ユナ自身の意識があるときは、たとえ夢(、)だとしてもジェスたちは出てこない。ジェスやルーンのことなどまるで知らない頃にたった一度だけ夢にルーンを見ただけだ。あれっきり、ユナの世界にジェスはもちろん、ルーンが入ってくることは一度もなかった。もしユナの意識があるまま見えるとしたら、今は一切見なくなった、あの獣だけだ。
そう、あの獣。
最近では夢に見ることもなくなり、記憶から遠ざかってしまっていたが、思い出してみればあの獣も金色だった。自分を見つめる獣の双眸が怖く、何度目を瞑ってしまいたいと願っただろう。何度夢から目覚めたいと願っただろうか。けれど、そんな思いをよそにユナはひたすら暗闇にぽつりと在り続けた。
音もにおいもなく、もちろん風なんてものが感じ取れたことは一度だってない。しかし、獣の体毛はいつも気持ち良さそうに揺れていたのを思い出す。まるで、自分の周りだけが時に閉じ込められていているみたいだった。今思えば、不思議で片づけられる程度ではない。自分の意識があることも、同じ夢を見ることも。だが、わかったところで、どうにかできるものでもなかったのだ。
「――やっと、見つけた」
突然声をかけられ、人がいるとは思ってもいなかったユナは、心臓が飛び出るほど驚いた。
動悸が治まらぬ胸に手を置き、一歩下がる。無意識のうちに随分と遠くまで歩いたらしく、少し前まで気配すらなかった大樹、万年樹がユナの目の前にあった。人間の胴回りほどある太い枝が、空へ向かったり地面へ向かったりと、あちらこちらの方向に伸びている。たくさんの葉が重なり合い、濃い影を辺り一面に落としているというのに、飛散する粒子や、それぞれの輝かんばかりの金色が、暗さを全く感じさせなかった。それどころか、影を濃く落とす万年樹の近くは、他のどこよりも明るいように思えた。あと数歩で鼻の頭がぶつかる、というところで声に止められた。ちょうどユナの目線と同じ高さの幹から、女性の――ルーンの体があらわになっていた。
「ルーンさま……?」
恐る恐る尋ねると、ルーンが微笑んだ。けれど、ユナはどこか違和感を覚えた。ルーンは――夢の中でユナが見てきたルーンは、もっと顔全体を崩して笑う女性だった。口元を隠して笑いなさいって口うるさく言われるの、と夢の中でジェスに愚痴っていたのを覚えている。けれど、今目の前にいるルーンは、朝になれば枯れてしまう花のような微笑だった。笑顔がすうっと消えてしまったルーンの表情は、とても冷たく思えた。
「ずっとずっと探してた。あなたとこうして会うことだけを願って――たくさんの罪を犯してしまった」
「罪?」
ユナが首をかしげるような仕草をし、ルーンに訊く。するとルーンは綺麗な眉をさっと歪めた。ユナを見つめながらも、遠くを見ているような目には、暗い色が浮かんでいた。
「――ジェスは、殺されてしまったから知らないのね、わたしは――」
「ルーンさま」
何か言いかけたルーンを制し、ユナは強い口調でルーンを呼んだ。
落ちかけていたルーンの視線が上がり、ユナを見つめると、無言で「何かしら」と尋ねるように、ユナの言葉を待った。その表情には、まるで感情が見えない。万年樹の枝や葉によって動かされている、操り人形のように見えた。
「僕は、ジェスじゃありません。ユナ、です」
何を言っているのかわからない。黙ってしまったルーンの瞳がそう告げていた。しばらくの間を置いたあと、ルーンは首を横に振った。
「……あなたは間違いなくジェスよ。わたしが長い時間をかけて見つけた、ジェスの魂を持って生まれた人間なの。わたしが間違えるはずないもの。それに、アズの魂に狙われていたのがその証拠」
今度はユナが呆けた。ぽかん、と小さな口を開けたままルーンを見つめる。
(アズに狙われてた……? 僕が? いつ?)
ルーンは本当に自分と誰かを間違えているのではないだろうか。自分がジェスの夢を見ているのをどこかで知って、ただ単に勘違いしているだけではないのかという思いが、ユナの意識を占めていた。
だが、次の瞬間、脳天に一本の光がさしこんできた。ひとつの可能性を突然に見出し、鼓動がせわしなく動く。胸が破裂しそうなほど緊張した。
(もしかして……)
金色の双眸が、今も鋭い視線でユナを監視しているように思えた。冷たい汗が背中を滑り落ちるのを感じながら、視線だけで辺りを一瞥する。もし今も自分の姿を遠くから見つめていて、ただ息を潜めて機を窺っているだけだったら。あの生臭い息を、途端に思い出して顔が青ざめる。そう考えたら肺がきりきりと軋んだ。けれど獣の姿は見当たらない。呼吸を落ち着かせるために息を吐く。姿がないことに安堵しつつも、ユナの慎重な性格のせいか、完全に安心できないでいた。
そんなユナの様子を見て、見透かしたようにルーンが言った。
「大丈夫。ここはわたしの能力のほうが強いの。だからアズが襲ってくることはないわ」
笑顔で囁いたルーンを見て、ようやく呼吸が落ち着いていくのがわかった。手足を縛っていた縄を解いたように、すっと心が楽になっていく。
普段のユナならば、きっと言われてすぐに納得することはなかっただろう。だが、ユナはルーンという女性をよく知っていた。慌て者で、何かにつけて先走るふうにも感じたが、しかし愚かではない。嘘をついてまで、人を安心させようと、そういった気の使いかたをする女性ではなかったように思う。だからこその信頼だった。他人からすれば、たかが夢の中の住人だろう。しかし、ユナの中ではしっかりと生きている。こうして目の前にして、話をしていることは、ユナにとっても信じられないことだが、それ以上に自分の感覚が本物だったという嬉しさを隠せずにいた。夢が続けば、それはもうユナにとって現実なのだ。
「あの獣は、アズ、さまなのでしょうか?」
ようやく落ち着きを取り戻したユナが尋ねると、ルーンは頷いた。
「そう。アズの魂が具現化したもの。魂を取り戻したジェスからまた魂を刈り取ろうとしていたのだと思うわ」
ルーンの話を聞いて、ユナは身を震わせた。
以前に、聞いたことがある。夢の中での死は、現実の死にも繋がると。たとえ夢だろうと、本人が「死」と認識してしまえば、現実での自分も死を受け入れて目を覚まさないのだとか。夢にとり憑かれた小さな子供が、そのまま目を覚まさないで一生を終えた、という話もラムザ爺さんから聞かされたことがある。だからこそ、ユナは怖かったのだ。もしかしたら、自分もいつかあの獣の爪に喉を突かれて死んでしまうのではないか、と。
しかし。
「魂が具現化?」
「実体のない存在よ。焚き火をしたあとの、細い煙のようなものよ。彼は万年樹に支えられているわたしとは違って、いつか本当に消えてしまうから、ジェスが怖がることは何もないわ」
消える、と聞いて安堵している自分に嫌悪感を抱いた。
今はあんな獣の姿をしているが、人間の姿のときのアズをユナは知っている。目にはいつも冷たい光が浮かんでいた。叩頭する人間に、「楽にして構わない」と口にしながら、宙を鞭打つような鋭い光はいつだって彼の瞳に宿っていた。けれど、ルーンを見つめるときだけは違った。それをユナはよく知っている。――いや、見ていた。ジェスの目と心を通して、アズが唯一ぶ厚い鎧を脱ぎ捨てる瞬間を。まるで生まれたての赤子を見つめているような、とても柔らかい視線だった。大切なのだとわかった。
それなのに。
彼だとわかった今でも、彼が消えるとわかって嬉しいと思ってしまう心に、ユナは眉を顰めた。
「ジェス」
ユナは、目に苦笑を浮かべてルーンを見た。
変わらずユナをジェスだと言い切るルーンの表情は、いつになく真面目だった。
「わたしは、あなたとここでずっと一緒に過ごしたい」
ユナは目を丸くした。
「ここ、で……」
細い声で呟くユナに、ルーンは頷いてみせた。
「ここなら、わたしが望む限りずっと生きていられる。苦しいこともなにも考えなくていいわ。お腹も減らないし、眠りたいときに眠って起きて、お話だってたくさんできる」
ユナは軽い眩暈を覚えた。
何も考えなくていい――そう聞いたとき、学舎での生活がぱっと脳裏に浮かんだ。こそこそと陰でユナを見て笑う生徒たち。自分らの着ている服と違うと笑い、動物の臭いがすると言ってあからさまに顔をしかめる。表立っていじめられたことはないが、いつもあの重苦しい空気の中にユナはぽつんと沈んでいた。
それらから開放されたら、どれだけ嬉しいか。
ユナがいなくなれば、ラムザ爺さんだって貧しい思いをしなくてもすむ。育ち盛りの子供に、あれこれと頭を悩ませることも、きっとなくなるだろう。
けれど、もう会えなくなる。
ラムザ爺さんも、自分の絵を楽しみだと言ってくれた教師にも。ニコルにだって、まだちゃんと謝っていない。まだたくさん、やりたいことはある。家の畑のお世話も、家畜の面倒を見るのも、ラムザ爺さんひとりではきっと大変に違いない。
ここはとても温かくて、いい匂いがする。空腹がなければ、夜お腹が減って、胃が縮むような痛みを我慢しなくてもいい。でも、羊に顔をうずめたときの幸福感はない。自分の手から餌を食べてくれたときの喜びも、畑に蒔いた種が芽が出たときの、たとえようもないほどの感動もここにいては生まれない。果実園で林檎を世話する隣のおばちゃんから、「ラムザさんに見つからないうちに食べてしまいな」と言われ、なんてことはない話を交わすことすらできなくなるのだ。
それに、ラムザ爺さんの歌がもう聴けなくなってしまう。
「僕は、帰りたい……」
ユナは俯き呟いた。
その瞬間、空気が鉛のように重くなった。
どちらも一言も話さず、ユナは自分の足元で揺れるひょろ長い草を眺めていた。やがて、居た堪れなくなったユナが顔を上げると、ルーンがじっとユナを見据えていた。瞳には、暗い絶望の色が濃く滲んでいる。
今にも泣きそうな表情を見て、ユナの胸がちくりと痛んだ。
「……わたしと一緒はいや?」
「違うよ!」
ユナは首を大きく横に振った。
「ルーンさま、違うよ。ルーンさまと一緒にいるのが嫌なんじゃなくて、僕はただ今の生活が好きなだけだよ。ラムザ爺さんの歌を聴いたり、一緒にご飯を食べたりしたいだけ。ここにいたら、苦しいことがなくなるって言いましたよね? でもそれって、楽しくない」
一瞬の迷いを見せたあと、ユナは再び続けた。
「辛いことがあるから、ラムザ爺さんの歌も一緒に食べるご飯も美味しいって思えるんだよ。ルーンさまは、昔そうじゃなかった? 嫌なこと、なんにもなかった? 僕、夢でルーンさまが笑ってるとこ何度も見たけど――今は全然楽しそうに見えない」
ユナが言い終わらぬうちに、ルーンは両手で顔を覆い、声を上げて子供のように泣いた。覆う両手に涙が伝う。細かく震える肩に、金色の細い枝や葉が慰めるように触れた。
その途端、空気がざわめき始めた。
波のさざめきにも似た葉擦れがさぁっとおこり、辺りが騒がしく動き出した。白んだ光の中を泳ぐ粒子もせわしなく動き回り、光の尾を引いている。金色の森に、流れ星のような光が溢れた。彼らはまるで生きているようだった。「大丈夫?」とルーンに問いかけているみたいだ。
ルーンの泣き声を聞きながら、ユナはぼんやりそんなことを考えた。
そして、夢の中のルーンと今目の前にいるルーンとがようやく重なったように思う。
(僕を探してって、どれくらい探してくれていたのかな)
不意にそんな思いが胸に落ちた。
ここは暖かくて何不自由ない世界。けれど、人間味のない薄い世界にも感じる。周りに人がいなければ、動物も鳥もいない。何を楽しみに生きていたのだろう、と考えてユナの心に侘しさが広がった。たとえ学舎が苦しいものだとしても、自分の周りにはたくさんの人たちがいる。動物だって、植物だって、みんな毎日違う顔を見せてくれた。それがある自分のほうが、きっとずっと幸せだった。
たった一人だけで、ずっと自分の魂を探すだけのために生きていたのなら、とても寂しい。
「ルーンさま」
ユナの声に、ルーンは嗚咽を洩らしながら両手で涙を拭い、真正面にいるユナと視線を合わせた。
「ここは、どこですか?」
一瞬にして、ルーンの泣き声がやんだ。間の抜けた表情で、ユナを見つめる瞳は赤く腫れあがっている。
「ラナトゥーンよ……。わたしが全部壊してしまったから、今は万年樹しかないけど……。どうして?」
「ルーンさまはずっとここにいたいの?」
わずかな間を置いたあと、ルーンが首を横に振った。
赤くなった目に、再び涙が滲んだ。
「だって、ジェスはもういないもの! やっと見つけたあなたはこんなにも違う……会いたいのよ、ジェスに会いたいの!」
「じゃあ、もうここにいる必要ないんですよね? だったらもう僕と一緒に帰りませんか?」
「え……」
「そうしたら、今度は僕がルーンさまを見つけてみせる。ルーンさまが僕を見つけてくれたように。そうしたら、そのときは一緒にお話してくれますか?」
照れくさそうに笑いながら言ったユナを見て、ルーンは再び声を上げて泣いた。
時おり声を詰まらせながら必死に頷いた。
大粒の涙が陽光に反射し、珠のような輝きにユナは目を細めた。
「ユナ、ひとつ訊いていいかしら……」
初めて自分の名前を呼ばれ、心の中に暖かい光がともった。笑顔で大きく頷くと、ルーンは嗚咽まじりの声で言った。
「ジェスは――わたしのこと、どう思っていたのかしら……」
声が次第に消えるように小さくなったのを見て、ユナを目を見ひらいた。
(あんなにわかりやすかったのに。……自覚がなかったのかな)
まだ初恋も経験していないユナでさえ、ジェスの気持ちは痛いくらいわかった。視線はいつだってルーンを追っていた。アズがルーンを大切にしているのを知ったとき、心臓をわしづかみされたような痛みだって、ユナは自分のことのように感じていた。
だが、ジェスの心に、いつも矛盾があったのも確か。
知られてはいけない、想ってはいけない、と。
「僕はジェスじゃないから、はっきりとはわからないけど、でも、ジェスはいつもルーンさまを見てました。夢の中で、僕はルーンさまに恋をしていました。……夢から覚めて、現実に戻っても、ルーンさまに似た女性を見ると、どきっとしたくらいです」
照れて微笑む少年の瞳を見て、ルーンは言いかけた言葉を飲み込み微笑んだ。そして俯き「ありがとう」と呟きを落としたあと、深呼吸をすると、歌を口ずさみ始めた。
散々に泣いて、掠れてしまった声で聴こえる歌声は決して綺麗とはいえないけれど、ユナはとても落ち着いた。
(ああ、そうなんだ)
ラムザ爺さんが歌ってくれると決まって懐かしい気持ちになるのは、以前ジェスがルーンから歌を聴いていたのかもしれない。だから初めて聴いたような気がしなかったのだ、とユナはこのとき初めて納得した。
ルーンは、ユナがジェスの魂を持った生まれ変わりだと言った。確かに、ユナは何度も自分がジェスとして生きていた夢の中の自分も知っている。けれど、こうしてユナとしての本体を取り戻してしまえば、彼は自分とは全く違うものだとわかる。ジェスを思って懐かしさを抱くのは、昔の自分を思い出し感じるものとは違った。歳も姿も性格も、なにもかもが違うというのに、なぜだかラムザ爺さんを思い出すのだ。
自分の父でもあり、一番の理解者でもある親友のように思えるときもある。ジェスは、ユナにとって、今は父親のような存在だった。
そうだとしたら、ルーンはお母さんかもしれない。母という存在が、どういうものなのかわからないけれど、このように温かい気持ちになれるものが母なのだとしたら、間違いなくルーンは母だ。
夢の中で、狂おしいほど彼女の心を渇仰していた。指先が触れるたび、強引に腕をひかれるたび、ジェスの欲心は深くなっていた。抑えようと思えば思うほど、想いは膨らむ。そんなジェスの気持ちを自分のことのように重ねていたけれど、今は違う。
(このこと教えたら喜ぶかな)
ユナは笑いをこらえて、胸中で首を振った。
けれど教えない。そんなことを言ってしまえば、また泣いてしまうかもしれない。歌だってやめてしまうだろう。今はこの、揺り籠に揺られているようなふわふわとした心地に身を委ねていたい。伝えるのは、また今度ルーンを探し見つけたときにしよう。そう考えたら、未来が考えていたものよりもずっと楽しいものに思えた。
ちょうどルーンの真下にあたる位置――自分の太ももほどもある根の間に腰を下ろして瞳を閉じた。あれほど強かった風も今は信じられないほど穏やかになっている。背中に感じる温かさは、万年樹が放つ温度なのか、それともルーンの体温なのかわからないが、ユナに安堵感と眠気を誘った。
しばらくして、うつらうつらと頭が下がり始めた頃に、瞼に柔らかい手が触れた。目を開けて確かめようとしたが、あまりの眠気にそのまま瞳を開けることはなかった。
ユナがとろけるような眠りに落ちていく途中、ルーンの歌声だけは、しっかりと耳に残ったまま消えることはなかった。
静かな目覚めだった。
ラムザ爺さんが夕飯によく作ってくれる、鶏と野菜を煮込んだ料理の匂いがユナの鼻の奥に飛び込んできて、肌に触れる空気は鋭い冷たさを含んでいるというのに心はとても温かかった。
よく耳を澄ませば、歌が聴こえる。
ユナはゆっくりと目を開け、視線だけで辺りを見渡した。懐かしい景色だった。もしかしたら、たった数日、いや数時間しか経っていないかもしれない我が家。天井の木はもうぼろぼろで、頻繁に掃除をしているユナの部屋ですら、かび臭さは消えない。以前は、そのことが少し気に入らなかったけれど、今はなんだかそれすらも愛おしく思えてくる。
もう日は落ち始めているらしく、狭い部屋にたったひとつだけある丸い出窓から外の景色が窺えた。うすぼんやりと空が暗み始めている。まだ遠くの山間は、明るい橙色が完全に消え切ってはおらず、その景色を見た瞬間、自分はやっと帰ってこれたのだと実感した。
ラムザ爺さんが、夕飯の準備をしながら歌っているのだろうか。目を覚ましたときからずっと聞こえる歌は、途切れることなく離れたユナの部屋にまで届いてきていた。夢の中で聴いていた、ルーンの歌ったものと同じ旋律の、懐かしい歌。やはり歌詞はわからないけれど、今まで以上にこの歌が優しく聴こえた。
薄い布団の中にじっと横たわりながら、再び瞳を閉じようとした刹那、ラムザ爺さんの歌がぷつりと途絶えた。同時に、聞きなれない声がユナの耳に聞こえてきた。
「まだ起きてこないんですか?」
「医者が言うには病気じゃあないらしいから、そのうち目を覚ますだろう」
言いながらラムザ爺さんが笑っている気配を感じた。
(この声は……)
「それよりも、悪いのう。今日は飯を食べていってくれんかの」
「いや、あいつの様子みにきただけだから……」
鋭さの中に、まだ幼さを残る声。ぴしゃりと切り捨てるような喋り方を聞き、ユナは頭の中に一人の少年の顔が浮かんだ。
(ニコル?)
そっと息を潜めて、聞こえてくる会話に集中した。
「あいつが起きたらさっさと学舎に来いって言ってやりてぇんだよ。あいつ、オレと話してる途中で倒れやがった」
「そうか。おまえさんみたいな友達がいるなら、そろそろ起きてくるだろうよ」
ラムザ爺さんの控えめな笑い声が聞こえ、やがてニコルが「それじゃあ今日はもう帰る」と言って、それきり静かな時が訪れた。
窓の外から虫の鳴き声が聞こえる。
部屋の中はしん、とした静寂に包まれているというのに、ユナの心はひどく騒がしかった。胸が熱く、なぜだか涙が溢れてとまらなかった。ラムザ爺さんに悟られないように、声を殺して泣いた。
あれほど行きたくないと思っていた学舎に、今は行きたくてしょうがない。会ってニコルにお礼が言いたかった。たぶん、彼の性格からすると、素直に受け取ってはくれないかもしれないけれど。そして、たくさん彼と話したいと思った。今まで俯いてばかりで、他人を知ろうともしなかった。ニコルが優しい人間だと、知る機会を自分から遠ざけていたのだ。だが、もう知った。ならば、あとは彼を知っていくだけだ。そうして、本当に友達だと呼べる仲になれたらいいと思う。
そこで、自分がきつく右手を握っていることに気付いた。そっと開くと、たった一枚だけ、金色に光る葉がそこにあった。
万年樹の葉だ――。
呼吸が荒くなった。どくどくと、脈打つように心臓が鳴り続いている。穏やかではない心地のまま、ユナはさっと布団を跳ね除け、窓脇に屈みこんだ。そのまま一瞬思案する。けれど、万年樹の葉を見たときから考えていたことは、たったひとつだった。
出窓からぱっと葉を投げた。
風に揺られて、まるでどこに落ちようか迷っているような動きで、ひらひらと遠くへと葉は消えていった。いつか、あの葉から芽が出たりしないかな。そう思った。もしたくさんの葉っぱをつけたなら、ルーンが――ルーンの魂を持った人間が、万年樹に惹かれてやってくるかもしれない。そのとき自分は、もう大人なのだろうか。それとも、自分ではない自分になっているのだろうか。何度も転生を繰り返し、そしてやっと見つけられるのだろうか。それでもいい。けれど、絶対見つけてみせる。今までにない強い思いが胸の中に落ちた。
脳裏にふとルーンの笑顔がうつった。
最後、自分をユナ、と呼んでくれたときの笑顔だった。
ふと窓の外を見やると、後ろ姿のニコルが、隣のおばちゃんに何か話しかけられているところだった。話好きで、世話好きのおばちゃんに驚いたふうに、ニコルがたじたじとしている。上品な衣を身に着け、それでも嫌がるでもなく話し込んでしまっているニコルを見て、ユナの頬が自然と綻んだ。
やがて懐かしい歌が再び流れてきた。
目を細めて、窓の外を一瞥する。
もう空はすっかり夜の景色に変わっていた。銀砂をぶちまけたような夜空を見ながらユナは深呼吸をする。
ラムザ爺さんの声に合わせて、ユナも静かに歌い始めた。
【完】