高天原の防衛構想
さて、以上の検証で、これまで、理由もよく分からず近江に遷都した帝王たちが、当時の情勢と照らし合わせると、高天原の宗教権威を後ろ盾にしたい状況だった、近江が高天原だったとすれば十分説明付けられる遷都であることが確認できたとおもう。
しかし、帝王たちの行動が、近江高天原説を前提とすれば不自然ではないのと、近江が高天原だった実証はまたべつである。
「大和民族発祥の地としての近江を論ず」に戻る。
『前述のごとく天照大神が伊吹山下に宮居し給ふたとすれば、かつてはこの世の生活をなし給ふた神々のこととて、山を後にし、冬季西風北風の心配のない、日光のよくあたる南面した高地で、飲料水に便利ないわゆる生活条件のととのった土地を選ばなければならないはずである』
つまり、高天原文明圏が栄えるには、相応の生活しやすい立地条件が必要であろう、ということだ。
その上で、橋本犀之助博士は、高天原の所在地を、克明に指摘されている。
『ところが今日伊吹山麓の南面した高地に、山下の盆地を見下ろして位置を占めている小さい村に高天原そのものを意味している弥高という村がある。これが高天原の遺跡ではなかろうか』
弥高、弥生が「いや生い」であり、いや増す同様、植物の繁茂がますます盛んになる「生」の強調型である。
これと同じで、弥高も「いや高い」であり、高所の強調型
まさしく、高天原という意味の村名だ。
現在の所在地は、滋賀県米原市弥高。
このあたりに遺跡はあるのだが(上表寺城遺跡、京極氏城館跡)京極氏関連のものだ。
この地域の神聖さを、京極氏も分かっていたのではないか?
そも、京極氏は幕府の四職に列し、二代義詮の腹心であったこともあり、格別の高配を賜っている。
近江守護は佐々木源氏の正統・六角氏で動かせないとしても、分けても特別な湖北のエリアは、京極氏のものとしようーーーそういう配慮があって、室町幕府は北近江二十万石近くを京極氏に割いたのではないだろうか。
なお、補足すると、地図上で弥高を検索すると、長浜市の弥高町もヒットする。これは、伊吹山南麓の弥高からずっと西に向かった琵琶湖近くの平野部で
弥高という名の高天原文明が、平野部までずっと広がっていた、という傍証になろう。
弥高は、山中にも平野部にもある。
その上で、橋本犀之助博士はこうもおっしゃられている。『以上の結論を有力に裏書きするものは、我が国古代交通史上忘れることの出来ない所謂三関である。三関という言葉は大宝命に始めて見えていて、義解に註して伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛発をもって三関となし、……』
三関が設置されたのは天武天皇元年かその翌年とされている。壬申の乱に際して、大海人皇子は始めにまだ関所が置かれていない不破道を抑えることで優位に立った。その経験が活かされているのだろう。八世紀初頭大宝令(大宝命とも)によって警察と軍事の機能を備えることが法的に規定された。
・不破関(岐阜県不破郡関ケ原町)
・鈴鹿関(三重県亀山市か)
・愛発関(あらち関、福井県敦賀市内か)
である。
『他に先んじて畿内の国境を守備するために要所要所に関所をもうけたということは、畢竟するに関所が帝都守護の大役目を演じていたことを物語っているに他ならないのである。かくして以上の三関もまた大喪のある場合に必ずこれを固めたという以上、帝都守護のために設けられたものと思わなければならない』
『以上述べ来たったところによって明らかであるように、いわゆる三関のもうけられたのはいずれも上古時代で、いずれも近江国を取り巻いてその国境外にもうけられていたのであった。
さて三関の使命につき従来説明せられているところを見るに、近江国は古来交通上からも軍事上からも、まさにまた政治上からも重要な国で、畿内から東海、東山、北陸の三道におもむく要衝の地である。したがって大和に帝都のあった時も、山城が帝都の地であった時代にも、帝都とは常に唇歯輔車(シンシホシャ、唇と歯のように補い合う)の関係にあった土地であるから、帝都守護のために近江の国境外に三関をもうけたのであるといわれている。
なるほど右の説明によれば三関は東海、東山、北陸の三道に対し帝都守護の役目を十分に果たしている。しかしながら上古時代の帝都したがって政治文化の中心地が現在の大和方面にあったとしたならば、西海、南海、山陰方面に対しても帝都を守護すべきいわゆる三関に匹敵する関所がなければならないはずである。
しかるにこの方面に対する帝都守護の関所なるものさらになく、帝都があったといわれている大和地方の南にも西にも帝都守護のための関所があって、はじめて大和国の東北部に対する固めをなしているといわれているいわゆる三関もその威儀をなすのであるが、大和地方の周囲にさらに関所らしいものがなかったとしてみれば、三関の使命に対して下されている従来の説明に対してわれわれは疑いを抱かざるを得ないのである。
大和にあった帝都を守護する三関であるならば、大和国を取り巻いていなければならないはずである。
いわゆる三関が近江を取り巻いていたということは、近江が上古時代における政治文化の中心地であったなによりの証拠でなければならない』
補足するのなら、三関が近江国を取り巻いているのだとすれば、それでも、愛発関で北方に、不破関で東方に、鈴鹿関で東南方向ににらみを利かせることができるにせよ、西や南の防備には、やはり、大和同様不安が残る。
三関が守護していたのは、近江国というよりも、さらに狭小なエリア。
それこそ弥高「高天原」に該当する地域のみだとかんがえるべきだろう。伊吹山の南麓から始まって、西の琵琶湖に接する地域まで、高天原の集落が広がっていたであろうエリアこそが、政情不安につけ込んで占められれば、ヤマト王権が鼎の軽重を問われてしまう心臓部だったのだ。
不破関があるのは、伊吹山を下りていった、その美濃側だ。
弥高地域のみを防衛するとかんがえれば、三関の配置に加え、西方は琵琶湖という巨大な堀を構えることが出来る。大津方面からこれを越えようとするのなら、それこそ、大和から進軍してここを抑えてしまえばいい。水と山に囲まれた金城湯池になる。
三関は、警察や軍事の基地となるだけではなく、天皇が崩御されたときには「固関」といって使者が遣わされ、関所を固めていた。次期政権が不安定な期間に弥高に侵攻されるのを防ぎたかったのだろう。




