景行天皇
たよりとしていた宗教的救済からも、こうも峻烈な「拒絶」を突きつけられた。
聖武帝の精神は、挫折した。
高天原はおのれを容れぬ。
(あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!)
五月巳未(二日)まだ余震も激しい中、仮設の大極殿が倒壊しそうな揺れの渦中で、聖武帝は、太政官の官人らに問うた。
「いずれを都とすべきか」
答えは、全員一致だった。
「平城京を都とすべきでございます」
神意と神異そのものの揺れの中での問いかけと答申だ。
(やはり、神々の棲まう土地を冒すべきではなかったのだ)
そんな激しい悔やみが、官人たちを支配していただろう。ーーこの五年の彷徨は、負担ばかりがいたずらに大きく、新都は定まらず、こうして厄災を招いた。
(奈良に戻るべきだ
(山城でも難波でもない
(ヤマトは大和にあるべきである)
それが大自然とシャーマンに畏服するような古代的気分で提出された、答申だった。
辛酉(五月四日)聖武天皇は、同じ問いを、四大寺の僧に発した。
答えは同じだった。
壬戌(五日)聖武帝は紫香楽宮を離れた。
恭仁京を経由して、戊辰(十一日)平城京の内裏に入る。官人たちももとの官舎に戻った。
彼らの背後では、依然、地震が継続している。この激烈な揺れの中、甲賀の大仏も倒壊したという説もある。
彷徨五年は終わった。
聖武天皇の紫香楽宮遷都の真意は、分かっていない。
『紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があり、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏が関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがある(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もある)』 (Wikipedia「紫香楽宮」)
良弁は、初代東大寺別当(長官)ーーーーー早良親王の師匠となる。その出生には諸説あるが、一説では、近江国の百済氏出身。
まあ、真偽はべつとして、この時代、行基もそうだが、優れた僧や技術者は、渡来人である、という固定観念が存在していたことは、透けて見える。
橋本犀之助博士の近江高天原説に照らし合わせれば、少なくとも、災異と自責に苦しむ聖武帝の心理としては、宗教聖地への遷都は至極自然な心の動きとして捉えることができる。
このほかに、近江に都を定めた人物には、十二代景行天皇がおられる。この人物に関しては、第二皇子・小碓命(おうす命)の方が有名だろう。
ヤマトタケルだ。
しかし景行天皇も抜群の豪傑で、自ら九州に打入り熊襲や土蜘蛛と呼ばれたまつろわぬ民を討っている。それでも十五年後にクマソタケルが蜂起し、仲哀天皇の時代でも熊襲が背いていることをかんがえると、詳細は不明ながら、おそらく大陸とも交易している強大な勢力だったのだろう。
クマソは、肥後国球磨郡と大隅国曽於郡(そお郡)に居住していたため、この名が付いた。ーーだが、おそらく和邇族である「熊鰐」が仲哀天皇と神功皇后に合力している。ここでも「熊」の字が用いられていることからすると、クマは国の「隅」九州であり、そこに棲まう「襲」やら「鰐」やらのものたちが、クマソ、クマワニと呼ばれていた可能性もあるのではないか。
景行天皇は熊襲親征の際、神夏磯媛(かむなつそ姫)という女酋を降服させた。彼女から情報を得て賊の首長を聞きだし、彼らに大量の贈り物をして呼び寄せ、これらをまとめて誅殺している。
豊後では速津姫という女酋を降服させ、また、同じように情報を得て、策謀と打ち込みを使い分けて、賊軍を討滅した。
日向に入ると、厚鹿文という酋長を降服させようとした。アツカヤは強力な首長で、彼と戦えば損害が大きいことは明らかだった。景行天皇は、アツカヤの娘、市乾鹿文市鹿文という姉妹に目を付け、彼女たちに贈り物をして后とした。
とりあえず女性から籠絡していく戦法らしい。[上はただの軽口ではあるが、それだけ、九州には女性の首長が多かった、女性の権力者がいた、という傍証にもなろう。邪馬台国の卑弥呼にまで敷衍できる政情が、ヤマトの男性政治家の優位を印象づける文章となって表れているのかもしれない]
姉のイチフカヤは特に寵愛され、景行天皇の策謀に組み入れられた。彼女が暗殺者になった。イチフカヤは官軍の兵を連れて、父のアツカヤを訪ねた。そこでアツカヤを酒に酔わせ、兵士に殺させた。
景行天皇は父を討ったイチフカヤが帰ってくると「不義者」と責めて、これを誅殺。妹のイチカヤも火国造(肥後や肥前の長官か)にやってしまった。ひどい男である。
熊襲を平定するとヤマトへ戻るが、その道中にも敵対するものや土蜘蛛を滅ぼしている。
ヤマトタケルの父親、景行天皇もけっこうな征服者である。
ヤマトタケルが十六歳の時、再び熊襲は強勢となり、ヤマトタケル(小碓命)の粗暴(兄である大碓命を殺害している)を嫌った景行天皇は、兵も付けず単身で熊襲を討伐するよう命じる。ここで、あの有名な、ヤマトタケルが女装して、首長であるクマソタケル兄弟の宴に潜入し、隙を見て二人を斬り殺す、という場面が発生する。兄弟の内弟タケルが死に際に小碓命の武勇を褒め、おのれの名をくれてやり、以後、彼はヤマトタケルとなった。
熊襲の酋長からもらった名前をそのまま名乗っているあたり、クマソはヤマトから見ても、剛勇の徒としてかんがえられていたのだろう。
その後、帰還したヤマトタケルに、景行天皇はすぐさま東国遠征を命じる。ヤマトタケルはおのれの扱いを嘆きながら、東征をやりきり、婚約者と逢った後、伊吹山の神を退治しに出かける。そこで、白い猪の姿を取った伊吹山の神を、神の使いであると無視して登山を始め、氷雨に打たれて体調を崩し、大和を目指して帰国しようとする途中に没した。
〽倭は
国のまほろば たたなづく 青垣
山隠れる
倭し麗し
ヤマトタケルの最後を聞き、大和から、后や御子達がやってきて、陵墓を築いた。彼らの哀しみ嘆く声の中、ヤマトタケルは「八尋白智鳥」となって飛び上がり、河内国志幾に留まった後、天へと帰った。
[ヤマトタケル伝説は、古事記と日本書紀ではずいぶん内容が違う。ここでは、古事記のものを中心にした]
ヤマトタケルの死後、景行天皇は後の十三代成務天皇を立太子し、武内宿禰を大臣に取り立てる。武内宿禰は、この頃から天皇に仕え、十六代仁徳天皇の時代まで大臣でいる。まともに年齢を数えると三百歳を超えてしまい、伝説上の人物とする以外にない。複数の人物の業績が集約され、この理想的な忠臣にシンボライズされたのだろう。
その後、ヤマトタケルの業績を慕った景行帝は、東国巡幸に出発する。これは、日本書紀の記述である。古事記では、景行帝は小碓命をきらい、日本書紀では好いている。
そして晩年、即位五十八年、突然、近江へ遷都するのだ。髙穴穂宮である。これは文献上記録されているだけで、遺跡は見つかっていない。古事記では、景行帝ではなく、後を継いだ成務帝が建てたと書かれている。
いずれにせよ、景行帝、ヤマトタケル(小碓命)いずれも征服に明け暮れた、物騒な御代だった。
天智天皇も聖武天皇も、敗戦や疫病といった国難の際に、近江遷都を決行している。
景行帝の時代も、征服と謀反の連続した時代であり、少なくとも熊襲は仲哀天皇の時代にまた背く。不安定な国難の時代に、祖廟、高天原を慕うのは、氏神信仰にとってあまりにあたりまえの行動かもしれない。
成務天皇は髙穴穂宮で過ごし、仲哀天皇も同所を起点とした。
仲哀天皇は、ヤマトタケルの御子である。
景行天皇の近江遷都は、神功皇后の時代にまで尾を引いていたのだ。




