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聖武天皇

 以降は穿鑿しすぎなので話半分に聞いてもらいたいが、天武天皇の和風諡号は

 天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなかはらおきのまひと天皇)

 真人が八色の姓の最高位なのはすでに述べた。渟中原(ぬなかはら)は沼地、湿地帯のことだ。

 古事記に大国主が求愛する女神・沼河姫(ぬなかわ姫)が登場する。万葉集の歌では

 「渟名河(ぬなかわ)」の字を当てられている。

〽渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  

  求めて 得まし玉かも  

  拾ひて 得まし玉かも 

  惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも

渟名河の底で求め、手に入れた玉よ。その玉のように愛おしい君が老いていくのはなんとも惜しいことだ。

 渟名河とは新潟の奴奈川(ぬなかわ)のことで、ここでは、姫川や糸魚川といったヒスイの産地がある。姫川とは沼河姫が由来であり、彼女は、この地域のヒスイの守護神だった。

『ーー作者の独自見解ばかりだと言われそうだが、もともと陰謀論客なのでご勘弁願いたい。新潟県の糸魚川は、アジアレベルで見ても有数のヒスイの産出地だ。作者は、古代から、この糸魚川のヒスイを、海北道中を通って朝鮮や支那にまで交易する

 日本海ヒスイ交易圏

 とも称すべきものがあったのではないかとかんがえている。ーー実際、朝鮮では、四世紀頃からヒスイ文化が栄えるのだが、そこで出土するヒスイは、糸魚川産のものなのだ!!

 この越後のヒスイを、大陸にまで商う日本海ヒスイ交易圏によって繁栄した和爾氏が、大和にまで進出した。』

 沼河姫は、和爾氏─宗像氏にとって、縁の浅からぬ存在だ。それどころか、作者は、じつは、ムナカタという氏族名は、ヌナカワから出ているとかんがえている。

 そして「瀛(おき)」という字だが、これは道教の三神山、神仙が住まうとされている島(蓬莱島、方丈島、瀛洲島)の一つだ。

 辺津宮(本土)中津宮(筑前大島)沖津宮(沖ノ島)

 その沖ノ島に比定するのは、無茶が過ぎるか?

 この和風諡号をかんがえても、天武天皇と宗像氏のつながりを補強しているようにしか思えないのである。


さて、他に、唐突に近江に遷都した天皇には、四十五代聖武天皇がいる。大仏を建造した天皇だが、彼の治世は疫病と大地震、そして兵乱に荒れた。疫病というのは天然痘で、天平五年(七三五)から始まった大流行では、政府高官のあらかたが罹患し、その多くが病没した。この流行は九州から起こったというから、天平十二年(七四〇)の太宰府の反乱とつながりがあるかもしれない。総人口の三五%が病死するという異常事態に陥り、藤原四家の祖、四兄弟もことごとく病死した。

 当時の政治学では、この手の天変地異は王者の不徳が招いたものとされた。支那の皇帝たちも、災異によって天から責められている罪悪感に苦しんだ。

 聖武天皇は、もともと心の弱いところがあったような節がある。この災害にも、それを招いたおのれの不徳にも、大いに煩悶しただろう。

 天平十二年、藤原式家広嗣が太宰府で反乱を起こす。原因は、藤原四兄弟に代わって政務を執った橘諸兄(もろえ)が、社会を疫病による疲弊から回復させるために軍縮路線をとり、対新羅強硬派だった広嗣を太宰府へ赴任させた。つまり、左遷である。

 さらに、聖武天皇が遷都を計画し、広嗣はこれに反対。遷都を進言した吉備真備や玄昉(ゲンボウ、法相宗僧正)を憎み排斥をもくろむようになる。

 広嗣は両名の更迭を求めて蜂起、一万もの兵を動員した。これに対し、奈良は陸奥鎮守府将軍で、蝦夷征伐にも参加している大野東人(あずまびと)を大将軍にして派遣、一万七千の官兵で、賊軍を威圧した。

 広嗣はおのれの望みは吉備真備と玄昉の罷免のみだと主張するが、ならばなぜこれほどの賊軍を蜂起させた、お前こそが世を乱す原因ではないかと問われて答えられず、軍を退く。その後、福岡県板櫃川で会戦するも敗れて新羅へ逃れようとする。だが風がよくなく、長崎県宇久島に潜伏していたところ捕らえられた。

 広嗣はじめ十六名が死罪、広嗣の弟たちも連座し流罪に処された。

 ここに、さらに大地震が追い打ちをかけている。天平十七年(七四五)四月二十七日、美濃国を中心に大規模な地震が発生。

 「是日通夜地震、三日三夜、美濃国櫓館正倉、仏寺堂塔、百姓廬舍、触処崩壊。」

 続日本紀巻十六。「通夜」「三日三夜」とあるから、余震がずっと継続していたのだろう。仏寺も本堂、宝塔、百姓の家、ことごとくが被害を受け、倒壊するものも多く出た。「触れる処崩壊」ぺしゃんこ同然に潰れてしまう建物が多く出たのだろう。

 (朕の悪業、ここまで窮まれるか)

 愕然とされたことだろう。余震は二十昼夜に渡ってつづき、地割れが起こり、水が噴き出した。この間、大安寺、興福寺、薬師寺、元興寺で、奈良でも、般若経始め各種経典を読ませつづけていた。

 世界が傾き、潰れる・・末法のごとき思いだっただろう。

 (これが、朕の業か)

 

 これらの災厄兵事に追われる繊細な神経の天皇が、いかにも、その負担を表明するかのような年月を持った。

 「彷徨五年」

 この期間に、聖武天皇は、四回遷都した。



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