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バプテスマ

 天平十二年(七四〇)に始まった彷徨五年は

 平城京─恭仁京(くに京)─紫香楽宮(しがらき宮)─難波宮─平城京

 という順番に巡幸し、このうち、難波宮はもともと副都として造営していたものだが、それ以外は、遷都が決まってから急遽造営した。これら拠点を転々として、奈良の都に帰ってこなかった。

 もしかすると、これは、聖武天皇の神経では、大規模な「方違え」のようなものだったのかもしれない。いや、それよりは、ひな祭りか。ひな人形というものは、元来、子供の身に降りかかるはずだった災難を引き受けてくれる「形代(かたしろ)」なのだという。だから、本来は、子供一人につき、ひな人形一つ用意し、厄を引き受けてもらうべきだという。こうして、災厄を背負ったひなを川に流すのが「流し雛」だ。

 豪毅なものである。お内裏様とお雛様どころか、京城そのものを聖武時代の厄災を引き受けた「形代」「ひな人形」として、放棄していく。

 彷徨五年は天平十二年(七四〇)から始まるが、それ以前から、災難つづきだった。本当に、弱り目に祟り目の天皇である。

 天平四年(七三二)には干ばつ

 天平五年には大規模な飢饉が起こった。

 (これは・・朕が責められておるのか?)

 天平六年(七三四)四月七日には、畿内七道地震という、天平十七年の天平地震とはまた別の震災が起こっている。

 

 続日本紀巻十一  天平六年夏四月

 戊戌(7日)、地大震、壊天下百姓廬舍。圧死者多。山崩川擁、地往々折裂、不可勝数。

 (大地震、天下百姓の家々が壊れる、圧死者多数、山崩れ川はふさがる、大地は往々にして裂け、まさにその数をかぞえることあたわず)

 戊申(17日)、詔曰、今月七日、地震殊常。恐動山陵。宜遣諸王・真人、副土師宿禰一人、検看諱所八処及有功王之墓(地震によって墳墓が損なわれているのではないか、よろしくもろもろの王と真人を使わし、副使として墳墓造営を司る土師宿禰のものを一人付ける、天皇の墳墓を八ヶ所、功のあった王の墓を点検する)

 又詔曰、地震之災、恐由政事有關。凡厥庶寮勉理職理事。自今以後、若不改励、随其状迹、必将貶黜焉。(地震により政治に失態が出ている、官庁の仕事に間違いがないようにせよ、今後、改めて励むことがなく、今の状態のままにするのなら、必ず黜(しりぞ)ける、官位を落とす)

 

二十一日には「思、朕撫育之化、於汝百姓有所闕失歟。」朕の王化が及ばず、汝ら百姓への失政があったのだろう、というおのれの不徳を省みる詔を出している。

 ひどく落胆されていただろう。

 そして翌天平七年(七三五)からは、九州からの天然痘の大流行である。

 (こうまで、朕を責められるのか)

 国民の三割が病死し、平城京でも、朝廷でも病没者が相次ぐ中、聖武帝は、遷都の意志を固められていく。

 最初の平城京から山城国相楽郡・恭仁京への遷都は、天平十二年(七四〇)十二月に勅が出た。恭仁京が選ばれたのは、当時政務に当たっていた橘諸兄の本拠地だったからだ。同年九月から藤原広嗣の乱が勃発していたが、それを押して、東国への御幸に出発する。

 『この報告を受けた聖武は東国行幸の手配を開始し、10月19日に行幸先の天皇の宿舎を整備する造伊勢国行宮司を任命、10月23日に行列に随行する官人が指名され騎兵400騎が招集された。10月25日には征西大将軍大野東人に対し、「まだその時ではないが、思うことがあって出立する」という勅が下された。平城京の留守官には知太政官事鈴鹿王と兵部卿藤原豊成が任命され、10月29日に平城京を出発した。

 この行幸には当時の政権の主班であった橘諸兄をはじめとして多数の上級官吏・皇族が付き従った。一行は大和を出て11月1日に伊賀、翌2日には伊勢に入り伊勢神宮に勅使を派遣したが、この地で「10月23日に広嗣がとらえられた」という報告を受け広嗣を処断すべしとの指示を出す。

 11月21日伊勢国の赤坂において陪従する文武百官に対し大々的な叙位を行った。12月1日に美濃の不破に到着、ここで随伴してきた騎兵部隊を解散させ平城京に帰らせた。ここまでのルートは壬申の乱で大海人皇子がたどった道を追体験したという説が有力である。12月5日に不破を発し近江に入った聖武は6日に新都の準備のため橘諸兄を山城の相楽郡恭仁郷へ先発させた。12月15日聖武は恭仁の地に至り、元正太上天皇も当日恭仁の地に入り、続日本紀に「初めて京都を作る」と記録される。』

 Wikipedia「彷徨五年」の項目の記述である。反乱鎮圧と平行して行幸・遷都に踏み切るスピード感が出ている。

 厄災の都を出て、新たな王道楽土へ。ーーそれが贖罪であり、民を安寧に導く方途だと信じての行幸だった。

 この頃の貴族や官人は、まだまだ豪族時代の威風を残し、馬に乗った騎士の軍団のように聖武帝の輿に従っただろう。

 『年末に恭仁宮に入った聖武はこの地に留まって越年し、造営工事は急ピッチで進められた。翌天平13年の元日の朝賀の儀は恭仁宮で行われた。

 既に天皇の住まいである内裏の一部は出来上がっており、当日内裏で宴が行われた記録がある。しかし宮城を囲む大垣はなく帳をめぐらせただけの状態であった。正月11日には聖武は伊勢神宮や七道の諸社に使者を派遣し新京への遷都を報告させた』

 正月の寒空の下、仮設の宮廷に帳を巡らせただけで、宴会を開いていた。

 恭仁京は、その後、条坊が定められ、造営が進んだが、全体的に平城京を簡略化したものでしかなく、急ごしらえの感が否めなかった。

 (それでも、ここまでやって来た)災厄を振り切ったのではないかという期待と不安を、聖武帝は抱いておられただろう。

 恭仁京の工事には、行基菩薩が率いる優婆塞(在家)集団「知識結(ゆい)」が合力していた。行基は渡来人とも越後の人ともいう法相宗の僧で、官僧で占められている斯界にあって民間に教団「知識結」を形成して、仏法を広めるのみならず、公共工事を行って聖俗ともに民を救済しようとした。最初は彼を敵視していた官界も、やがてその声望に屈し、天平十年(七三八)に「行基大徳」の諡号を授けた。信心深い聖武天皇は、自ら行基に歩み寄り、両者は協力する関係になっていた。

 恭仁京でも行基集団は木津川の架橋工事を担当。やがて、彼らは大仏建造にも貢献するようになる。聖武天皇の御代には、八幡神も輿に乗って上京し、大仏建造に協力したという。

 ーー作者はどうも、この行基菩薩という人物が好きで、無闇と渡来人色に染めるのに抵抗があるが、八幡神の伝承と合わせてかんがえると、災異と自責で追いつめられている聖武帝に合力し、権力を向上させようとする渡来人集団の企図があったのかもしれない。天智天皇や天武天皇の時代と、そう隔たっていないのだ。

 昔からやっているのだ。ーーどうも、この延長線上に、坂東の武士団、幕府、武士階級が位置づけられるように思えて仕方ない。

 (結句、征夷大将軍が一番いいな)それが、渡来人の、秦氏の選択だったのではないだろうか。

 恭仁京を建造している最中、天平十三年(七四一)二月十四日、仏教を全国に広めるべく、国分寺と国分尼寺を建立する旨、詔が出される。

 さすが聖武天皇、爾後の仏教政策に大きく関わる政策を打ち出している。

 しかし、恭仁京に遷都して早々から、すでに近江へ向かう心が兆していたようだ。恭仁京造営から一年経過した天平十四年(七四二)二月五日に、恭仁京から

 近(・)江(・)国(・)甲(・)賀(・)郡(・)へ(・)向(・)か(・)う(・)東(・)北(・)道(・)が(・)開(・)か(・)れ(・)て(・)い(・)る(・)。

道中には険しい山道もあり、容易な工事ではなかったはずだが、どうも、恭仁京に遷都して早々に着工していたようだ。

 そもそも、恭仁京への遷都自体、一年ほど前から準備していたようだが、その動機は、時の政務担当者・橘諸兄の拠点に近い、という至極単純なものだ。

 もともと信仰心に厚く、さらに、平城京を出た後、恭仁京まで伊勢や美濃を通過「ここまでのルートは壬申の乱で大海人皇子がたどった道を追体験したという説が有力である。」その後近江に入って、山城国相楽郡・恭仁京へと至っている。

 (天命開別(ひらかすわけ)天皇〈天智天皇〉は、近江大津宮にましまされたのだ)

 そのことが、頭を過らなかったとは思えない。海の国の影響力が強い飛鳥を離れ、高天原のもとで、敗戦後の日本を立て直すべく・・~~~~~

 そうかんがえたとき、災厄に追われ、おのれの不徳を国家への惨状として投じつづけるおのれを処するため

 高天原へ向かうべきだ

 そういう発想に至ったのではないだろうか。

 全国民の三分の一が病死するパンデミックの直後である。東国御幸の道中にも、路傍に遺体や人骨が無造作に転がっていたことだろう。平城京では、死骸をかたづけるのも間に合わず、御所にまで遺体の腐臭が漂ってきていたという。

 その責を一身に負わなくてはならない聖武帝にとって、おのれは疫病神、穢れと罪科を振り撒く悪神のように思えていただろう。皇室が奉じる清浄の観念とは対極である。

 (祖廟の地へもどる

 (彼の地、高天原にてわが身の罪を問い、禊ぎの方途を探る)

 イザナギ命さえ、イザナミを尋ねて泉下へ降りた。その穢れを染みつかせたわが身を恥じて、筑紫日向橘小門阿波岐《ひむかたちばなおどあわぎ》原にて禊ぎして

 そこから、三貴神を含む神々の産霊(むすび)を成し遂げられたのだ。

 伊吹山の清浄を思い、その高峻の原に拓けているという神々の高原を慕ったのではないか。[ちなみに筑紫日向阿波と書かれているのに、手持ちの岩波文庫の古事記では所在地不明と註がある]

 天意が、天子に地上の失政の罰を与えている・・そんな大陸の思想を伝授されつつも、彼は、水蒸気説で万物万象が融通無碍、曖昧模糊に一体化している日本の住人である。

 万民が浸かる共通の「水場」を、おのれという強烈な穢れが汚してしまっている。

 その自責を味わいつづけ、贖罪と浄化の機会を探していただろう。ーーそして、この「水場」に浸かっている日本人は、ミソギという浄化の概念がある。

 (高天原に都を置けば、我が罪もあがなえるのでは?)

 これが第二の遷都の動機となって挿まれたのだろう。

 天平十四年(七四二)八月十一日。

 「朕、近江国甲賀郡紫香楽(しがらき)村に行幸せむ」と詔を出す。

 紫香楽宮造営が始まった。




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