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近江考・高天原考

 『浸々として神秘をたたえ、黙々として千古の謎を秘めている大きな琵琶湖が丁度我が国の中央近江国に横たわり、周囲には相当高い山々が連なり、外敵に対しては絶好の守護を成している。しかも湖畔には相当の広さを持った沃野が展開していて、かなりな河川が幾筋もそこを流れ湖水に注ぎ込んでいるのである。』

 まことに申し訳ないことながら、昭和九年発刊の稿では長い引用が負担になってしまう。現代的に手直しさせていただいている。旧字や漢字を開く程度の変更である。

 『河川の流域呼称のほとりにまず文化の華が咲いたことは、交通史上、文化史上動かすことのできない一大原則で、かくして近江国は文化発祥地としての要素を多分に持っているのである。

 『ことに近江国と地理的に見てもっとも近い関係にある敦賀湾が古代中古における支那、朝鮮などの対大陸交通の要路にあたっていたことを合わせ考える時、古代近江の華やかさは略想像するに難くはない。』  (「大和民族文化発祥地としての近江を論ず」橋本犀之助)


高天原は、天孫が降臨する以前に神話世界を支配した王国であり、記紀を史実にもとづく物語としてかんがえると、ヤマト王権に先んずる、神武天皇以前の先日本文明のありかが見えてくる。

 少なくとも、記紀を編纂する段階で、ヤマト朝廷に先行する文明圏の記憶があり、これが「高天原」という天上世界のモチーフになったのではないだろうか。

 その高天原文明から大和盆地に移行した王権がヤマト朝廷であり、すなわち、ヤマトや天皇家に先んずる、ヤマトや天皇家の祖先にあたる勢力が、近江に置かれていたのではないだろうか。[ここにもちろん、高天原所在地論争の数だけ説が存在する。阿蘇説、高千穂説、常陸国多賀郡説、葛城・金剛山説、壱岐説、長野県南佐久郡説・・]

 そうかんがえると、歴代天皇の中で、理由もよく分からぬまま、突然近江に遷都する方が現れるのも、なっとくできるのだ。三十八代天智天皇は、天智六年(六六七)三月、近江大津宮に遷都した。この遷都の理由は不明。白村江の戦い(六六三)に敗れた後であり、唐の侵略が懸念されていた時期である。綱紀を引き締め、士気を奮わせるために、祖廟の地を都に選んだのではないだろうか。

 この大津宮で、日本最初の律令法典である「近江令」が編まれたという。天智天皇は、日本を律令国家として生まれ変わらせる基盤を整備したお方だが、この抵抗も紛糾もおおそうな事業を執るにあたって、ヤマトの故郷「高天原」にほど近い近江を本拠地とするのは、政略として意味を持ちそうである。

 天智天皇の第一皇子・大友皇子(三十九代弘文天皇)は、近江の有力渡来人・大友氏に養育された。原日本「高天原」文明にも、それなりに渡来人の影響は及んでいたのだろう。スサノヲを始め、神話の神々にも、明らかに渡来人の性格を帯びているものたちがいる。

 大友皇子は、もちろん、壬申の乱で大海人皇子(天智天皇の弟、天武天皇)によって討たれる。大津宮の遷都には不満が多かったのか、日本書紀にも怪火として相次ぐ放火が記録されている。

 高天原で、敗戦後の新国家体制、律令国家を立ち上げようとしていた天智天皇と在地の渡来人勢力。

 それに対抗すべく大海人皇子と都を飛鳥にもどした、高天原ではなくヤマトに依拠した在来勢力。

 両者の争いが、壬申の乱の真実ではないだろうか。

 天武天皇の后には、宗像徳善女、尼子娘(あまこのいらつめ)がいる。二人の間に高市皇子が生まれ、ここから、長屋王や高階真人・高階朝臣といった宮中の宗像勢力が発祥する。

 天武天皇の後援者は、海の国、和爾氏から発した宗像氏だったのではないか?

 大海人皇子は、幼少時、海人部(あま部)に養育された。海人部というのも、海部、そのまとめ役が凡海部(おおしあま部)と錯綜し、職掌も海産物を上納し、航海技術で仕えた、と、あいまいである。ランドパワーが把握しずらい不可視の海の国だ。

 だが、この職掌とあいまいさ、つまり、固有名詞というより一般名詞的な性格からすると、固有名詞の和爾氏や宗像氏も、たくさん参加していたのではないか。[そもそも十六世紀でさえ、海の国は、どこからが松浦党か、摂津渡辺党か、淡路衆か、伊予水軍か、熊野水軍か、倭寇か、日本人か、福建人か、というあやふやなところがある。屋号という枠にいろいろな業者が入り組んでいたのだろう]

 海の国が天武天皇の後援であり、彼を起点として、高階氏を宮中へ送り込んだのでは?[大内氏そっくりだ]

 そもそも、白村江の戦いだ。これは新羅が唐を頼んで百済討伐の軍を起こし、唐が六六〇年に百済を滅ぼす。その後、百済の再興運動がおこり、これに味方する形で、六六三年に日本が船団を派遣。

 白村江にて、日本・百済水軍が唐の水軍に大敗を喫した。

 つまり、百済への友誼からスタートしている。これを推進していたのは、貿易業者である九州の豪族たちであり、海の国であり、もっと言えば、和爾氏や宗像氏といった面々ではなかったのか?

 海北道中を大動脈としていた彼らは、朝鮮貿易のお得意様である百済を失いたくなかった。

 だから、百済の再興運動をサポートし、倭国から百済に出兵するようヤマト朝廷に働きかけていたのではないだろうか。

 結果、敗退。

 (これ以上、海の国の都合に付き合わされてはたまらん)

 天智天皇は飛鳥を捨て、海の国の勢力が浸透する前の原日本「高天原」近江へ遷都。現地の渡来人である大友氏(漢氏系)とよしみを通じ、敗戦後の日本を立て直すべく執務する。

 しかし大津宮に遷都してから五年足らずで天智天皇は崩御、近江朝廷を継ぐべく期待された弘文天皇(大友皇子)も大海人皇子に攻め滅ぼされ、自害する。

 (ヤマトは海の国とは不即不離

 (山幸彦と海幸彦

 (山幸彦に輿入れした豊玉姫〈正体は龍宮の和邇〉のように、のう)

 そうほくそ笑み、宗像氏は尼子娘を、天武天皇に献上したのかもしれない。

 山幸彦と豊玉姫の間に生まれたのが、神武天皇の父親である。

 海の国は、分かちがたく、ヤマトに、朝廷に食い入っていた。

 もはや高天原への分離を許さぬほどに。





 [天智天皇と天武天皇の父親、三十四代舒明天皇の和風諡号が息長足日広額天皇(おきながたらしひのひろぬか天皇)なのは注目に値する。明らかに息長帯姫(気長足姫とも書く)を参考にしている。彼は舒明天皇十一年(六三九)に田中宮から奈良県桜井市あたりに「百済宮」を建て遷都、そこで二年後に没した。白村江の戦いの二十年以上前だが、彼が、宗像氏らとともに、大まかな出兵の道筋を付け、その業績から神功皇后に似た諡号を与えられたのだろう。彼自身、父方の祖母が息長真人(真人、まひとは八色の姓の最高位)出身であり、和爾─宗像とのつながりが濃かったのだろう]



 


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