第5話 真の権力者と、真の婚約者
「殿下のみ、まだ処分が決まっておりません」
私の平坦な宣告が広間に落ちた直後でした。
先ほどまで私が視線を向けていた大理石の柱の影から、静かに靴音が響きました。
コツ、コツ、と。
一切の迷いがない、正確で等間隔な足音。
豪奢なシャンデリアの光の中へ歩み出たその長身の姿に、広間の空気が一変しました。
誰もが息を呑み、そして一斉に深く頭を垂れます。
「第一王子殿下が、なぜここに……」
アスカルト侯爵が信じられないというように、微かな声で呟きました。
現れたのは、王位継承順位第一位、レオンハルト・ヴァルトリヒ殿下その人です。
漆黒の夜会服に身を包んだ殿下は、床にへたり込むフィリップ殿下たちには目もくれず、真っ直ぐに私のもとへ歩み寄られました。
その威風堂々たる歩みは、紛れもなく次期国王としての覇気に満ちています。
「ご苦労だった、ヴァルトハイム第三等見習官」
低く、よく通る声が静寂を震わせます。
その言葉に、周囲の貴族たちから「見習官……!?」という驚きの声が波のように広がりました。
無理もありません。
第一王子であるレオンハルト殿下は、王族として初めて王宮会計監査局に所属し、上級監査官の地位に就いておられるお方。
つまり、私の直属の上司なのです。
私は静かに一礼し、白手袋の指先をピタリと揃えて応えました。
「滞りなく、職務を遂行いたしました。誤差は一銅貨たりともございません」
レオンハルト殿下はわずかに頷くと、二階のバルコニーから事態を見下ろす国王陛下へ向かって、毅然と顔を上げられました。
「父上。今夜の一件、すべてヴァルトハイム嬢の三年に及ぶ内偵の成果でございます」
「うむ、大儀であった」
陛下の重々しい労いの言葉に、フィリップ殿下が弾かれたように顔を上げました。
「三年の、内偵……? それでは、君のその地味な装いも、私との婚約も、すべて……」
「ええ、すべては王族の不正を暴き、国庫を守るための偽装でございました」
私は銀縁眼鏡の奥から、かつての婚約者を冷ややかに見下ろしました。
「王家と監査局が仕組んだ、フィリップ殿下を監視するための盤面。ただし、これは貴方をお救いする最後の機会でもあったのです」
「私を、救う?」
「もし殿下が改心し、侍従長らの甘言を退け、公金に手をつけることなく真面目に国務へ励んでおられたなら。私はそのまま貴方の妻となり、監査局の知見をもって貴方をお支えする手はずでした。ですが、貴方はご自身の意志で、堕落を選ばれたのです」
フィリップ殿下の端正な顔が、絶望に歪んでいきます。
その瞳には、自分の愚かさにようやく気づいた後悔の色が浮かんでいました。
震える唇から、掠れた声が漏れます。
「君は……ずっと、私を……」
「殿下、私は三年間、貴方に七度警告を送りました。すべて文書で。覚えておいでですか」
私の問いに、フィリップ殿下は力なく首を横に振りました。
読んでいないのか、それとも中身の数字を理解できなかったのか。どちらにせよ、結果は同じです。
「数字に弱いことは罪ではございません。罪は、数字から目を逸らし続けたことです」
私の最終裁定が下された瞬間、近衛兵たちが動き出しました。
項垂れるフィリップ殿下、泣き崩れるリリベル様、そして無様に抗うグレアム。
三人の罪人たちが、次々と広間から連行されていきます。
やがて嵐が過ぎ去った広間には、私とレオンハルト殿下、そしてバルコニーの国王陛下の三人だけが残されました。
静寂を取り戻した会場に、陛下の温かなお声が響きます。
「ヴァルトハイム嬢、礼を言う。国庫の危機を見事に防いでくれた。望みのものを与えよう」
最高権力者からの白紙の恩賞。
しかし、私が求めるものは初めから決まっております。
深く頭を下げ、私は即答いたしました。
「では、二日間の休暇を」
「はははっ、相変わらず無欲なことだ。よかろう、ゆっくり休むがよい」
陛下が朗らかに笑われたその時。
私の隣に立つレオンハルト殿下が、スッと一歩前へ出られました。
「父上、もう一つ私から願いがございます」
「申してみよ、レオンハルト」
「彼女に求婚する許可を」
——ドクン。
私の中で、これまで決して乱れることのなかった何かが、大きく跳ねました。
完璧に制御されていたはずの思考が、一瞬だけ白く染まります。
私は信じられない思いで、隣に立つ漆黒の夜会服の殿下を見上げました。
常に冷静沈着な上司からの、あまりにも唐突で、予測不可能な言葉。
「で、殿下、それは——」
私は咄嗟に、慣れ親しんだ監査局の服務規程を頭の中で検索し、論理的な反論を試みました。
「監査局の規定により、上司と部下の私的関係は禁じられております。職務の公平性を著しく損なうため……」
「だから、君の昇進を父上に上申するところだ。もう私の部下ではなくなる」
殿下は私を見つめ返し、涼やかな顔で、しかしどこか熱を帯びた声で仰いました。
「君の功績は、第二等監査官への昇格に十分値する。階級が同じとなれば、規定には抵触しない。違うか?」
論理的で、一切の隙もない反論。
三年間、常に私の一歩先を行き、私を導いてくださった方らしい、完璧な手順です。
反論の言葉を封じられた私は、ただ瞬きを繰り返すことしかできません。
「……っ」
私は白手袋の指先で、無意識に自らの胸元をぎゅっと押さえました。
(数字は嘘をつきません。でも、心臓の鼓動は、初めて私を裏切りました)




