第3話 帳簿が語る一年
コツン、コツン。
静まり返った広間に、重々しい杖の音が響き渡りました。
人々がハッと息を呑み、一斉に道を開けます。
現れたのは、病床にあるはずの国王陛下でした。
二階のバルコニーから事態を見守っておられた陛下は、侍従に支えられながらゆっくりと階段を下りてこられたのです。
「父上……!?」
フィリップ殿下が、すがりつくような声を上げました。
しかし、陛下の威厳に満ちた厳しい眼差しは、実の息子ではなく、ただ静かに佇む私へと向けられています。
「続けよ、ヴァルトハイム嬢」
低く、しかし逆らうことのできない王命。
その瞬間、大理石の柱の影に立つあの方が、わずかに頷くのが見えました。
私は深く一礼し、静かに懐へと手を入れます。
取り出したのは、王宮会計監査局の局員にのみ携帯が許される、黒檀で作られた小型の算盤でした。
純白の手袋に包まれた指先で、それを胸の高さに構えます。
「失礼いたします。記憶のみで申し上げますと、聞き手の処理が追いつかないかもしれませんので」
カタカタ、と。
乾いた木と玉がぶつかる音が、冷え切った会場に響き渡りました。
「昨年八月。公務交際費三百二十ゴルドのうち、実際の交際費は四十二ゴルド。差額二百七十八ゴルドの行先——王都第五区フラム通り、宝飾店ロイドナー、ネックレス一点。すなわち、ただ今リリベル様の首元にございます贋作の、本物にあたる品です」
カタ、と算盤の珠が一つ、正確に移動しました。
会場のどこかで、貴族の一人が小さく息を飲む音がします。
「九月。地方視察費千二百ゴルド。ただし殿下、九月の視察記録は王宮文書庫に存在いたしません。千二百ゴルドの行先——ファルケンハイト男爵領、麦畑買戻し資金として送金」
「……麦畑?」
誰かが呆れたように呟きました。
リリベル様の生家である男爵領の名に、貴族たちがひそひそと顔を見合わせます。
国王陛下の眉が、わずかに、しかしはっきりと寄りました。
「十月。軍装備修繕費八百ゴルド。実際に行われたのは、近衛兵の馬蹄修繕費十二ゴルドのみ。差額七百八十八ゴルドの行先——第二区の高級仕立屋にて、リリベル様用のシルクドレス五着と冬用外套の代金」
カタ、と。
無慈悲な音が、再び刻まれます。
軍務に関わるアスカルト侯爵家の皆様の顔に、明確な怒りの色が浮かび上がりました。
国の防衛費を削ってまで着飾る少女を、誰が好意的に見るでしょうか。
「十一月。東部水害復興支援金、四百五十ゴルド。行先——王立劇場の三日間貸切費用、および招待客への贈答品代」
「十二月。近衛騎士団の冬季特別手当、二千百ゴルド。行先——南方産の純白の馬と、内装に白貂の毛皮を敷き詰めた特注の馬車一台」
「今年一月。王立図書館の稀覯本修繕費、六百ゴルド。行先——著名な宮廷画家に依頼した、リリベル様の等身大肖像画の制作費」
広間の空気は、もはや同情や驚きを通り越し、絶対的な零度へと達していました。
母が心血を注いで守ってきた図書館の予算まで食いつぶした事実に、私の奥歯が微かに鳴ります。
しかし、表情は決して崩しません。
「端数まで合わせてこそ会計です」
私は静かに、しかし広間の隅々にまで届く声で言い放ちました。
「二月。王都孤児院への慰問寄付金、百五十ゴルド。行先——」
「待ってくれ……!」
ついに耐えきれなくなったのか、フィリップ殿下が床に膝をつきました。
両手で顔を覆い、ガタガタと震えておいでです。
傍らに立つリリベル様も、血の気を失った顔で後ずさりを始めていました。
私は、算盤を弾く指をぴたりと止めました。
「殿下。お疲れでしたら、残り三ヶ月分は書面でお目にかけます」
「……グレアムが、グレアムが全部……」
うわ言のように、殿下は侍従長の名を口にしました。
全ての罪を、長年仕えてきた者に押し付けようというのでしょう。
私は銀縁眼鏡の奥で、冷ややかに目を細めました。
「ええ、侍従長様のご署名で処理されておりますね。ただし殿下、最終承認印は殿下の印章でございます」
「違う、私はただ、印を渡されて……」
「殿下は中身を確認なさらずに印を押し続けた。これは横領の幇助ではなく、横領そのものでございます」
言い逃れなど、決して許しません。
私は白手袋の指を揃え、法という名の刃を振り下ろしました。
「ヴァルトリヒ王国刑法第四十七条、王族による国庫流用は爵位剥奪および無期幽閉」
宣告の言葉が落ちた瞬間、フィリップ殿下は完全に崩れ落ちました。
リリベル様は声にならない悲鳴を上げ、侍従長グレアムは逃げ出そうと扉へ目を泳がせています。
そして。
完璧に整えられた破滅の舞台を見届けるように。
柱の影から、長身の男性が、ついに静かに一歩を進み出ました。




