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『泣かないんですか?』婚約破棄された会計監査見習いの私は、王子の脱税額をそろばんで弾きます  作者: 他力本願寺


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第2話 最初の数字

「端数まで合わせてこそ会計です」


私の静かな、しかし確かな宣言が、大理石の広間に吸い込まれていきました。


豪奢な卒業舞踏会の会場は、水を打ったような静寂に包まれています。

先ほどまでさざ波のように広がっていた貴族たちのざわめきすら、今は完全に鳴りを潜めていました。

誰もが息を詰め、中央に立つ私と、フィリップ殿下たちの動向を見守っているのです。


私は純白の手袋に包まれた両手を、体の前で静かに重ね合わせました。

そして、殿下の腕の中にすっぽりと収まっている可憐な少女へと、視線を移します。


「リリベル様、そのネックレス、お似合いですね」


一切の感情を交えない、平坦な声。

突然矛先を向けられたリリベル様は、一瞬だけビクッと肩を震わせました。

しかし、すぐに気を取り直したように、ふわりと愛らしい微笑みを浮かべます。


「ありがとうございます、エルナ様。これは、殿下からの……」


「品番、LK-三千三百八十二」


彼女の甘ったるい言葉を遮るように、私は口を開きました。


「22金台座」


「あしらわれたダイヤモンドは、0.8カラット」


「本来の保管場所は、王家宝物庫の第三区画」


「最後に確認された時刻は、22日前の、午後3時17分」


一つ、また一つ。

私はまるで、幼い頃に母から教わった子守唄でも歌うかのように、滑らかなリズムで数字と事実を紡ぎ出しました。

それは、王宮会計監査局で日夜繰り返される、冷徹なる事実の羅列です。


言葉を重ねるごとに、リリベル様の顔からスゥッと血ののぼせが引いていくのが分かりました。

彼女の美しい瞳が、信じられないものを見るように見開かれます。


同時に、殿下の背後から微かな衣擦れの音が響きました。

フィリップ殿下に長年仕えてきた侍従長、グレアムです。


52歳になる彼の額には、べっとりと冷汗が張り付いていました。

血の気を失った唇が、微かに震えているのを私は見逃しません。


「……な、何を馬鹿なことを!」


沈黙を破ったのは、フィリップ殿下の怒声でした。

彼は庇うようにリリベル様を背後に隠し、私を鋭く睨みつけます。


「そのネックレスは、私が父上から正式に下賜されたものだ! 監査局の見習い風情が、適当な数字を並べ立てて我が婚約者を愚弄するか!」


「下賜目録は空欄でございます」


激昂する殿下に対し、私はまばたき一つせずに即答しました。


「今年に入ってから、宝物庫の第三区画から殿下への下賜品が持ち出された記録は、一件も存在いたしません」


「なっ……」


「監査局の記録は絶対です。紙の記録がなくとも、この王宮で動くすべての財は、私たち局員の頭脳に刻まれております」


殿下の顔が、怒りの朱色から、戸惑いの蒼白へと染まっていきます。

算術の家庭教師を三度も逃亡させた彼には、私が提示した数字の正確さが理解できないのでしょう。

ただ、自分が追い詰められつつあるという本能的な恐怖だけが、その瞳に浮かんでいました。


不安に駆られたのか、リリベル様がそっと、自身の胸元で輝くネックレスに手を触れました。


「それに、リリベル様」


私は一歩だけ、彼女に近づきます。

カツン、と硬いヒールの音が、静まり返った広間に響きました。


「そのネックレス、本物ではございません」


「……え?」


リリベル様の口から、間の抜けた声が漏れました。

彼女の指先が、ダイヤモンドの冷たい感触を確かめるように震えます。


「宝物庫に保管されていたLK-三千三百八十二は、二百年前にドワーフの細工師が手がけた国宝級の品。ですが、貴女の胸元にあるそれは、王都の職人が最近になって模造したものです」


「嘘よ……だって、こんなに輝いて……」


「台座の鏨痕たがねこんが一致いたしません」


私は淡々と事実だけを突きつけます。


「ドワーフ特有の八角形の鏨痕ではなく、ありふれた六角形の鏨痕。王宮会計監査局の目は、数字だけでなく、宝飾品の細かな細工一つ見逃しはいたしません」


本物を質に流し、精巧な贋作を作らせて身につける。

没落寸前の男爵家を救うためとはいえ、何と浅はかな計算でしょうか。


その時でした。


「……相変わらず、見事だな」


背後——広間の端にある、太い大理石の柱の影から。

周囲の貴族たちには決して聞こえないほどの低い声が、私の耳にだけ届きました。


私は一瞬だけ、白手袋の指先を動かすのを止めました。


(あの方が、見ておられる)


三年間、私の直属の上司として、最も厳しく、最も正しく私を導いてくださった方。

その気配を感じただけで、冷え切っていた私の胸の奥に、ほんのりと温かい火が灯るのを感じます。


私はゆっくりと息を吐き、再び完璧な監査官の顔へと戻りました。

銀縁眼鏡の奥で、冷たい光が閃きます。


「殿下」


私は、呆然と立ち尽くすフィリップ殿下を真っ直ぐに見据えました。


「これは、ほんの始まりにございます」

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