刃に宿る信念
「……そのままでいてほしい、とは仰られましたが」
火の粉が一つ、空にのぼって消える。
返事はない。彼女は知っている。答える者など、ここにはいない。
それでも口に出したのは。言葉にしなければ、心の奥へ落ちていかない気がしたからだ。
木々に囲まれた、誰もいない野営地。
風は外套と鎧の隙間をすり抜け、焚き火は彼女の問いを薪にしているようだった。
「私はただ、そうあるべきだと……旦那様から教わってきました」
――お前が"敬いたい"と思ったものに、どうか背を向けるな。
主の言葉は、ミルティシアの生き方を強く肯定している。
欲望や、邪な感情によって立てなくなったのではなく。誠意を持ち、残したまま、立てなくなってしまった時。
彼女が手を差し伸べるのは、そういう境遇にあった人たちだけだ。結果として、彼女を求める手を払い除けたことも、少なくはない。
「ですが……何故そうするべきなのか。そこまでは、教えて下さいませんでした……」
――それが竜の血より、よほど尊い。
そう言い切ってくれたのに。その真意は、掴みそこねていた。
問いだけが残され、夜は静かに更けていく。
外套と毛布に包まれたまま、静かに身を起こす。立ち上がる前に、冷えた灰をそっとならす。やがて荷物をまとめ、歩き始めた。
彼女は草原と森の境を縫うように、ひとり歩いていた。草の海と木々の影。その狭間に、ミルティシアの足音が落ちていく。
事前に調べていたが、どうやらこの先に小さな村があるという。喧騒も、注目も、言葉さえも。まだ少し、彼女には重たかった。
そうして歩き続け、太陽が真上に差し掛かってきた頃だった。家と、その集合を取り囲むような柵が見えてきた。
しかし、村の姿が近づくにあたって"異常"がはっきりと見えてくる。
「なあ。依頼文のとおりなら、俺達はミノタウロスを相手しなきゃいけないわけだろ?」
年老いた男性が、若い娘を庇うように立っていた。
その前に立ちはだかる男たちの声は、わずかに笑っていた。だが、その笑みはどう見ても、剣より冷たかった。
「ミノタウロスとやり合う報酬が、たかだか小麦と銅貨の束かよ」
「ほか要相談、って書いてあったよなあ。だったらさぁ……せめて飯の支度と、寝床の世話くらいしてもらえないとな」
「とはいえ一人じゃキツいだろ? 交代でやるとか……な?」
言葉の内容を理解した瞬間。彼女は、何も言わなかった。だが、その歩みが音を立てたとき。空気が一つ、裂けた。
彼女の足が足元を抉り、尾が大きく大地を打ち鳴らす。彼女の身体は弧を描き、そして脱ぎ捨てられた外套とともに男たちの前に降ってきた。
「うおっ……なんだ、てめえ……!?」
「お節介ながら、聞き捨てならない交渉内容が聞こえましたので」
ミルティシアの顔は、背後の年老いた男と、村娘に向けられていた。
「てめえ……冒険者じゃねえな?」
「登録票があるんなら出せよ。ないなら、俺達の依頼交渉に口を出すんじゃねえ」
「こっちはギルドから正式に依頼を受けてんだ。メイドなら黙ってスカートの裾でも押さえてろよ」
明らかに見下した態度とその言葉に、村娘は青ざめた。だが、ミルティシアは男たちに顔を向ける。
「貴方様方の"交渉"は、いささか誠実さに欠けているように伺えます。依頼と、それにまつわる交渉はもっと誠実であるべきです」
「誠実さがねえのは向こうのほうだろうがよ!」
「見合った報酬を出すのが誠実ってモンだろ!」
「言葉の意味を履き違えてんじゃねえぞ!」
男たちが口々に反論する。ミルティシアは背後の二人に手で合図を出し、逃がした。
「誠実さとは、"対価を求める態度"のことではなく、"互いが傷つかない交渉"を積み重ねる姿勢のことではないでしょうか」
一人が真っ先に動いた。剣を抜き、首を狙う横薙ぎ。染みついた手癖による一閃。
"交渉"における態度についても、納得がいく技量だった。
だが、ミルティシアには届かなかった。
「な……」
金属音がした。鉄同士を強く打ち付けるような、ガキン、と。その音は間違いなく響いた。
だが、男の手には音がしたはずの鉄がなかった。
「刃を抜くということの意味。もちろん、理解なさっていますよね」
「クソッ!」
「やるぞ!」
残りの二人が得物を手に、ミルティシアへ向かってくる。一人は右回り、もう一人は左回りで分かれた。
挟撃の構えが見えた瞬間。二人の立ち位置が定まる前に右回りの、槍使いの男の懐へ潜り込む。
当然その穂先はミルティシアに向けられ、何度も突き、薙ぎ払う動きを繰り返す。
そのたびに彼女は身体を捻り、わずかに屈み、槍の穂先を身体の外へ導く。そして足が地を捕らえるたび、土が宙を舞う。
「……距離が、足りっ、ないッ!?」
槍使いは思わず声を上げた。一瞬にして詰め寄られ、得意とする距離ではなくなってしまっていた。
槍の男の異変に気づき、もう一人が咄嗟にミルティシアを引き剥がしに動く。
手先を覆う程度の大きさの小盾と、肘の長さ程度の短剣を持ってミルティシアの背後を狙う。
ミルティシアの角に、槍使いでも自身のものでもない異音が届く。刹那、彼女は屈みながら身体を反転させ、その刃で短剣の刺突を右へといなす。
同時に詰め寄られ、足元がおぼつかなかった槍使いの足元へ尾を差し込んだ。一瞬にしてバランスを失い、背を土に落とした。
全体重をかけて放った短剣の刺突は、その威力の行き場を失う。こちらもまた、正面から土まみれになった。
そして即座に男が持っていた槍の柄へ脚を滑り込ませ、蹴り上げた。地に落ちた音はしなかった。
「うおおおッッ!!!」
雄叫びと同時に、頭上に剣を掲げながら走り込んでくる。最初の一人目だった。
だが、先程の二人と比べれば圧倒的に御しやすかった。
脳天を割る勢いで垂直に振り下ろされる。その剣を一対の刃で捕らえ、勢いを殺す。
そして左方向へ腕を払い、喉元へ左の刃を立て――その両足も払った。
「ぐ、おッ……」
男の身体はかろうじて浮いていた。ミルティシアの尾が、その腹を支えていた。
「私の刃は、守るに足る"何か"のために、誇りを持って振るうものです。貴方様方の刃には、誇りが見受けられませんでした」
立てた刃には、一滴の血もついていなかった。
お読みいただきありがとうございます。
彼女の歩みは止まりません。胸に秘めた言葉の意味を、その答えを見つけるまで。
もし、言葉にできない余韻や、静かな怒り、あるいは誇りのような何かが残ったとしたら――
どうか、それを胸の中で、そっと振るい上げていただければ幸いです。