来襲
左手の小指に指輪が収まってから、エリスは人前に出るときは黒い絹の手袋をするようになった。指輪をしていることを隠すためである。
これは母の提案であった。父もエリス自身もすぐに賛成した。
指輪が抜けなくなったことを知っているのは、シトワ伯爵夫妻にエリス、それに家令とメイド長、カーラだけである。
訪問客や出入りする商人、エリスの元に来る家庭教師のうち、数人は手袋について尋ねてきた。
母もエリスもしれっと「お茶を零して、火傷の痕が残ったので」と答える。
尋ねた者たちは一様に気まずい表情を作り、「御大事に」「早く治るよう祈ってます」と答える。
カーラたち以外の屋敷の使用人も火傷の痕が原因だと思っている。
指輪は何をしても抜けなかった。
父と家令が二人がかりで力ずくで抜こうとしたり、石鹸水を使ってみたりとしたが駄目だった。
装飾品店では抜けない指輪のために、専用の鋏があるということを母が聞きつけ「その専門の鋏を借りてはどうか」と提案した。だが手袋と違い、この案は却下された。
婚約破棄するときにナーター家に返さなければならない指輪である。
母は忌々しげに指輪を睨みつける。
「由緒ありとは云われたけれど、こんなみっともない指輪如きで。下町の寄席の女芸人だってもう少し見栄えのする指輪をしますよ。」
確かにそう言われても仕方ない代物ではある。
メイド長が母を宥め、ふと思い出したように言った。
「云われを聞く限り、何か昔の名残の魔法がかかっているのかもしれません。私の故郷でも魔法のかかった首飾りの伝説なんてものがありました。霊力のある僧侶にでも見て貰ってはどうでしょう」
婚約時にいたナーター家の老婦人の呟きもあり、もうそれしか方法はないように思われた。
奇妙なことというのは立て続けに起こるもので、シトワ家に一通の手紙がエリス宛に来た。
手紙の差出人はリングトム。手紙を受け取ったメイドは大急ぎでエリスに渡した。
自分の学習室にいたエリスは手紙を見るなり、眉をひそめた。手紙を持って来たメイドを下がらせる。
まずは手紙の封を開けず、じっと手紙の差出人を見つめる。
明らかにリングトムの字ではない。彼ならば流麗な筆記体で署名するだろう。幾度も、それこそ舐めるように見た字である。間違いない。
今、手に持っている手紙の署名は筆記体ではあるが、はっきりとぎこちなさが見てとれる。筆記体を書き慣れていない者が見様見真似で書いたものだろう。
それにまだ一応は婚約している仲である。本物のリングトムからの手紙ならば、郵便配達人を使わず、使者を出す筈である。
エリスはひとつ大きな溜息を吐く。
(ナーター家、シトワ家のことは勿論、貴族社会の内情についてもあまり詳しくない人物らしい)
エリスは机の上にハンカチを広げた。机の引き出しからペーパーナイフを取り出し、ハンカチの上で手紙の封を慎重に切る。
手紙の封を完全に切ったのち、封筒を振る。ハンカチの上に落ちたのは便箋のみで、他は何も無かった。
エリスは指先で摘まむようにして便箋を広げた。
「会って話がしたい。貴女ひとりで来られたし。6月25日宵五つ(約午後八時)時にバンカメ橋で待つ」
バンカメ橋は郊外にある橋である。農村から都市部へ作物を輸送する馬車が通るため作られた橋で、人気は全く無い。そんなところに宵五つに来いとはあきれるしかない。
(それでも、少し前の自分なら浮かれて行ったのかもしれない)
エリスは椅子から立ち上がり、学習室の扉を開きカーラを呼んだ。
「カーラ、お茶が飲みたいんだけど」
さほど待たずカーラは熱いお茶に焼き菓子を運んできてくれた。
エリスはお茶を飲みながら、手紙をカーラに見せた。
カーラは渋い顔を作り、エリスに尋ねる。
「アイナ様を呼び出した者でしょうか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれないし」
だが、同じ人物と考えた方が妥当であろう、とエリスは付け加える。
カーラに頼み、念の為ナーター家に使者を出す。リングトムが手紙を送ったか確認するためである。
帰ってきた使者からはリングトムは二日前から聖士隊の任務でバロワから離れているということが伝えられた。任務から戻る日は来月の頭になるという。
本日は6月23日。手紙は偽物であるということが証明された。
保安局(この世界に於ける警察機関)に連絡とも考えたが、エリス自身は何も被害を受けていない。この手紙だけでアイナが受けた事件まで繋げるのはいささか無理があるだろう。
結局、無視することにした。指定された日、エリスは用心して屋敷内に籠もったが、何も起こらなかった。
エリスは手紙を机の一番上の引き出しに保管した。
7月になり、いよいよ乾季に入った。過ごしやすい季節である。
シトワ伯爵は懇意にしている『修行者たちの家』の尼僧長に指輪のことを書いた手紙を送った。尼僧長は実際に指輪に魔法がかかっているのか確認したいので、『修行者たちの家』に来るよう返事が来た。
尼僧長の元へ行くのはエリスとカーラ。シトワ伯爵夫妻もついていきたかったが、祭事も無い時期に家族全員で行けば嫌でも目立つだろうということで二人だけで行くことにしたのである。
シトワ伯爵が懇意にしている『修行者たちの家』はかなりの規模がある。尼僧以外にも見習い学生や何らかの問題を抱え身を寄せている女性、田舎から頼る者無く出てきたばかりの者、手伝いの者がいる。シトワ伯爵以外にも他の貴族や富裕層が寄付している。それ故に規模がこうなったのだろう。
そのような大きな『修行者たちの家』の尼僧長である。多忙な身であろう。七十近いが、幼少の頃から霊力が強く、失せ物を見つけたりするなど数多くと逸話を持っている人物である。
エリスが指輪を見てもらうのも、尼僧長の霊力で何とか外してもらえないか、もしくは外す方法を教えてもらおうと思ったからである。
門の前に馬車を止める。カーラが門番にシトワ伯爵の家の者であることを告げると、門番は尼僧を呼んだ。茶色の僧衣を身につけた尼僧がエリスとカーラを待合室へと案内する。
聖霊の教えのため、待合室は質素な造りである。木製の机に椅子、そして本棚がひとつ。どれもよく手入れされており、清潔感があった。窓には手作りと思われるレースのカーテンがかけられている。そのカーテンが昼下がりの日の光を遮っている。
しばらくして待合室まで案内してくれた尼僧とは別の尼僧が二人を呼びに来た。
建物の一番奥に尼僧長の部屋があった。
尼僧が扉を叩くと、中から「どうぞ」と声がした。
尼僧長の部屋に通される。扉の正面には教卓机があり、尼僧長が座っている。
エリスとカーラは勧められ、教卓机の前に並べられた椅子に座る。尼僧長と向かい合う形になった。
案内してくれた尼僧が去ると尼僧長が早速シトワ伯爵から送られてきた手紙の内容に触れた。
「一応、ナーター伯爵家に贈られた指輪について文献がないか調べたんですか、ナーター伯爵家の歴史は当院より古いため参考になるような資料は見つかりませんでした」
「はあ…」
尼僧長は指輪を見せてくれるよう頼む。エリスは左手の手袋を外し、差し出した。尼僧長のしわの深い渇いた柔らかい手がエリスの左手を包む。
「これは…」
尼僧長はそう感嘆の呟きをした後、黙った。エリスの左手を包んでいる両手はそのままである。
エリスはつい不安な気持ちになり、聞いた。
「これは外せないのでしょうか」
尼僧長がまた呟くように言う。
「これは御加護を込めた指輪です。私ふぜいの者がどうこうできる物ではありません」
それっきりは何も言わず、尼僧長はエリスの左手を解放した。
尼僧長が案内係の尼僧を呼び、二人は尼僧長の部屋を後にした。尼僧長の気迫に押され、何も抗議できなかった。
(これはいよいよ指輪切りの鋏の出番だな)
建物から出ると、カーラが思い出したように言った。
「申し訳ありません。喜捨を渡すのを忘れてました」
そう言うとエリスに先に馬車へ戻られるよう伝え、『修行者たちの家』の建物の中へと引き返す。
エリスは言われたように馬車の中へと待った。だがカーラはなかなか戻ってこない。
馭者も「もう一間(約1時間)くらい待ってますよ」と焦れた声を上げた。エリスもおかしいと思い、カーラを探してくると、馭者に告げた。
馭者は自分が探しに行くと言ったが、今回来た『修行者たちの家』は尼僧院である。男性が来るのはあまりいい顔しないだろう。
馬車から降り、エリスが『修行者たちの家』の門の前に再び着いたとき、背後から声をかけられた。
「すみません、シトワ伯爵のエリス様ですか?」
何の気なしにエリスが「ええ」と返事を返し、振り向こうとした。
「私たちと共に来てくれませんか?」
エリスはすぐには答えられなかった。
すぐ背後には女性が立っており、背中には先が尖った物があてられている。多分刃物であろう。
女性はエリスに囁く。
「貴女の大事な小間使いを傷つけたくなかったら、従って下さい」