舞踊曲
廊下には足下が転ばぬよう、人とぶつからぬよう程度の申し分ほどの灯りがぽつぽつとついている。
内装、外壁は勿論のこと、土台や骨組みもしっかりとしたホテルではあるが、微かに外の嵐の音が聞こえる。
エリスはその嵐の音を耳にし、思わず肩掛けをしっかりと巻き直す。
宿泊室のある棟はその嵐の音、そして時折扉から人の声や物音がするくらいで、概ね静かであった。
エリスはエレベーターに乗る。
エレベーターは手動式で係の者がいた。実直そうな年嵩の男性である。
エリスが目的の階を言うと、エレベーター係は「畏まりました」とエレベーターを動かす。チーンと高い金属音を鳴らしてエレベーターが動き出す。目的の階に到着したときも同様の音が鳴った。
エレベーターから一歩踏み出すと、既にここまでにホールの賑わいが伝わってきた。
楽団が奏でる舞踊曲に惹かれるようにして、エリスは音のする方へと進んだ。
ホールの出入り口まで来た。
だがそこで足が止まる。
エリスは元々ホールの中まで入る気はなかった。
どのような様子かを見るだけである。
しかしいくら見事な赤毛の鬘で変装しているとは言え、ホールの中にはアイナにリングトム、更にデックスまでいる。もしかしたら見つかって、エリスの正体が多くの人々の前でバラされる危険性があるのだ。
エリスはホール出入り口の死角で深呼吸をした。
顔を俯きがちにし、気配を消す。
(多分、出入り口付近にはホテルの使用人がいるだろう 少し中の様子を覗いて、使用人に注意されたら『場所を間違えました、すみません』と言って去ろう)
心の中でそうシミュレーションをたてる。
最後にもう一つ深呼吸をし、エリスはホール出入り口に近付いた。
ホールの中は華やかであった。聖士団関係者と思しき若者たちが幾人もおり、連れの婦人たちは夜会に相応しい装いをしている。
高い天井には見事なクリスタルガラス製のシャンデリアが飾られていた。
テーブルの上には様々な料理、酒瓶、珍しい南国の果物が見える。
揃いの白い制服を着た楽団員らがそれぞれの楽器で、流行りの舞踊曲を演奏している。
殆どが二十歳前後の若者の集まりのため、どこか軽薄じみた印象を受ける。
出入り口に一番近いテーブルで給仕をしている使用人が、覗いているエリスの存在に気付いた。彼が此方へと向かってくる。
エリスは先程考えたシミュレーションを決行しようとした。
「やあ、これは」
エリスは思わず大きく震えた。これは驚きのあまりの震えである。
目の前に、いつの間にかデックスが立っていた。
(気配なんて全然感じなかった)
声を掛けられても、エリスはしばらくの間返事ができなかった。
デックスの顔を凝視する。
デックスは人好きする笑みを浮かべていた。
先程までエリスへと向かっていた使用人が二人の様子を見て、遠ざかっていくのが見える。デックスが親しげにしているので、エリスを招待客だと判断したのだろう。
エリスは慌てて顔を下向きにした。
「どちら様で? 人違いでは?」
我ながら白々しいと、エリスは思った。
鬘と肩掛けの贈り主の本人である。エリスと気が付かない訳がない。
エリスは内心、激しい自己嫌悪に陥っていた。自分の実力を過信し、デックスに見つかる前にこの場から去ることが出来ると思っていた。
ーデックスがエリスを中に引っ張り込み、皆の前で正体をばらしたら
(もしかしたら、この鬘と肩掛けを贈ったのも、このような事態を想定して…)
隙を見て、一刻も早くこの場から立ち去らなければならない。
エリスはほんの一瞬だけ、上目遣いでデックスを見た。逃げる隙を探るために。ドレスのスカートの中で右足をそっと一歩後ろに引く。
だが、デックスの動作の方が早かった。
突然、肩を抱かれた。
エリスの顔がデックスの胸に微かに当たる。頬、鼻の頭、そして額には上質な絹の生地の感触。微かに男者のオーデコロンの香りがする。
デックスはエリスの耳元で囁く。
「安心しなさい。貴女のことなぞ誰にもバラしませんよ」
この男は何を言っているのだ、エリスは訳が分からず混乱した。
顔を上げて相手の様子を見ようにも、距離が大変近いため難しい。下手したらエリスの唇がデックスの顎にくっついてしまう。
デックスは構わずエリスを腕に抱いたまま、ホールの中へと引きずり込んだ。
幸いなことに、その体勢のためエリスの顔はデックスの広い胸と腕に隠されている。周囲にはエリスの後頭部、即ち赤毛しか見えていない。
デックスがまた囁く。
「気配を消すのはお得意でしょう。私も消すので、そのまま踊りませんか?」
そしてデックスの身体が少し離れた。腕がエリスの肩と腰を抱く。
仕方なくエリスもそれに倣う。
明るくテンポの早い舞踊曲ではあるが、二人は軽やかに舞った。当初は渋々だったエリスだが、ダンスは好きで得意であったし、またデックスのリードは見事で文句のつけようがなかった。
本来ならば注目をあびてもよい出来であったが、隅の方で、二人がまるで空気のようにして存在を消していた。
リングトムがアイナと踊っているのが見える。アイナは薄紫の夜会服に淡いピンクの髪飾りをしている。
エリスが尋ねる。
「お連れの方はいいのですか?」
確かこの夜会はデックスの聖士団退団を祝したものの筈である。
「それが振られましたもので」
デックスの話によると、とある婦人とホテルで待ち合わせの約束をしていたが、先に到着していた婦人は既に他の宿泊客と仲良くなっていたという。
「まあ相手は侯爵ですからね、心変わりするのは致し方ないこと」
デックスは特に表情を変えず語る。
「私自身も後腐れない相手として選んだですから」
まだうら若き乙女であるエリスは内心うんざりとした気分になった。
デックスは更に続ける。
「それに相手があのザフル侯爵ではね」
「ザフル侯爵ですって?」
エリスは思わず好奇心で顔を上げた。
ベルオテロ・ザフル侯爵
国内はおろか周辺諸国の社交界でも名の知れたプレイボーイである。
新聞の社交欄で週に一回は必ず彼の名前が上がる。
浮世を流した相手は女優に歌手、人妻に、果ては他国の王族の未亡人まで。
本人の顔を直に見たことはないが、新聞の肖像画では長く伸ばした銀髪に緑柱色の瞳、柔和な印象を与える目元に対して、鋭い線の鼻と顎。
「夜会前にお会いしまして、今夜は遊戯室でカードをするそうですよ」
やれやれといった風情でデックスが言う。
遊戯室という言葉にエリスは反応した。
エリスたちも夕食の後は遊戯室でカードをするつもりであった。だが遊戯室からは女の嬌声が聞こえ、何やらいかがわしい空気が漂っていた。遊戯室のマネージャーもエリスらを中に入れることを拒んでいた。
(あそこにはザフル侯爵がいたのか)
エリスはそのことをデックスに話す。
デックスは言葉通り連れの婦人には既に興味が無いようで「それは災難で」とエリスたちに同情した。
二曲続けて踊る。二曲目の演奏が終わると、デックスが尋ねる。
「喉が渇いたでしょう 何か飲み物でも頂きますが?」
確かにその通りである。だがエリスは断った。長時間居すぎた。宿泊室ではカーラが気を揉んでいるに違いない。
エリスは礼を言い、ホールから退散した。
相変わらず気配を消していたつもりであったが、ホールから出るとき、視線を感じた。
視線の主を確認すると、アイナがこちらを見ていた。
エリスが宿泊室に戻ったとき、やはりカーラは予想より時間が長引いていたことで心配していた。
エリスはカーラに詫び、そしてお茶を所望した。
カーラは備え付けの茶器でお茶を用意する。
ホールで踊っていたときは気が付かなかったが、嵐は一段と強さを増していた。
カーラが気味悪げに言う。
「本当に嫌ですわね 何か女の悲鳴まで聞こえてくるようで」
翌朝、嵐は収まっていた。
そしてホテルからやや離れた場所では若い女性の全裸死体が見つかった。




