狙撃手
エリスは自分の背中から血が流れ出るのを感じた。それは痛みより熱さと表現した方が相応しいものだった。
かなり深傷を負ったらしい。背中からドクドクと鼓動にあわせて血が流れる。
「くっ…」
唇から呻き声が洩れる。
何とか上半身を起こすと、目の前には顔面を先ほどより更に蒼白にして両眼から涙を流しているアイナがいた。アイナのやや後ろには教王が見える。教王もまだ何が起こったのか詳しくは分からないだろう。
エリスの背中を傷つけた男の姿は見えなかった。教王の暗殺が失敗した時点でこの場から逃げたのだろう。
教王の声を聞きつけて、警備兵が来る足音が聞こえた。
(このままじゃあ、やばい)
屋敷に閉じこもっている筈のシトワ伯爵の令嬢が、恋敵のいる聖霊堂にいることが知られたら後々大変面倒臭いことになるだろう。
ただでさえ偽名を使って入って来ているというのに
エリスは渾身の力を振り絞って立ち上がった。立ち上がった瞬間、出血による眩暈がした。
立ち上がったエリスをアイナは慌てて支えた。
「大丈夫ですが! 無理なさらないで」
「アイナ、猊下の椅子脇にある幕まで私を連れて行って。猊下、詳細は後ほどお伝えします」
エリスは幕の影に隠れた。出血のため指先が少し冷えてきた。それを誤魔化すため、無意識に両手の指をこすりあわせる。摩擦熱で暖まろとしていた。
その様子を見ていたアイナが慌ててエリスを強く抱きしめてきた。
「アイナ…?」
始めはアイナが何をしようとしているのか判らなかった。
だが徐々に心地良い温かさがエリスの全身を包む。
(これは…)
まるで春の日に当たるような、適温の湯の中に入ったかのような心地である。
背中から血が流れ出る感覚は消え、痛みも殆ど無くなった。
(これが『一角獣の乙女』の奇跡か)
エリスは感動した。
(これならリングトムが惚れるのも分かる)
そんな妙な感心をした。
アイナによって背中の傷は治癒したが、出血した血液まではすぐに元通りになるわけではないらしい。
まだ多少の眩暈と冷えがあった。
だが命の別条に関わる程ではない。
アイナはまだエリスを抱きしめている。首と肩に頭を置いてある状態である。エリスの首には温かくそれでいてすぐに冷たくなる液体の感触があった。どうやらアイナの涙らしい。
エリスは小声で囁くように「ごめん」と謝った。そして自らの両腕でアイナの背中を抱きしめ返した。
アイナの治癒力のおかげで五感の機能も通常運転に戻ってきた。
幕の外で教王と駆けつけてきた警備兵らの会話が聞こえる。
「容疑者と思われる男の身柄を確保しました」
「あと一人の警備兵が瀕死の状態で庭隅の物置から発見されました」
「そうか…」
エリスは耳をすます。緊張の為かアイナを抱き締める腕にも力が入った。
会話は更に続き、男はまだ公安局や聖士隊には引き渡しておらず―それどころか連絡もしていない。警備兵や聖霊堂の幹部らで事情聴取を行っていることが判明した。
(まあ、当然か)
教王の立場などを考慮すると暗殺未遂事件など表沙汰にはなってほしくないだろう。
今度は警備兵の一人が教王に質問した。
「ところで切りつけられた少女は?」
エリスはこの一言で肝を冷やした。
「ああ、『一角獣の乙女』が治療にあたっている」
教王がそう言ったきり、警備兵もそれ以上は突っこまず、他の話題に移した。
エリスは安堵のため、大きな溜め息を吐いた。
今後の奉司会の儀式についてどうするか話し合っていたとき、再び室外からこちらへ近付いてくる足音が聞こえた。
「猊下」
姿は見えなくとも大層緊張しており尚且つ緊迫しているのがその声から分かった。
部屋に入って来た警備兵は語った。
「只今、猊下を襲おうとした男の口から新たな情報が出てまいりました」
「今夜、火薬を積んだ馬車数台を大通りを走らせ、聖霊堂へと向かうという計画が分かりました」
新たな情報に警備兵らは色めき立った。
「何だって!」
「それはいつぐらいに行われるのか」
口々に質問やら怒号やらが飛ぶ。
情報をもたらした警備兵は答える。
「馬車は既にこちらに向かっているとのこと。計画予定時刻は夜三つ(約午後十時)」
皆の視線が柱時計に集中する。教王専用の控え室に置かれた真鍮と金、宝石で施された柱時計の針は夜三つまで僅かな隙間しか無かった。
「夜三つまであと¼間(約十五分)もないぞ!」
「これでは聖士隊や公安局に応援を頼んでいる時間もない」
教王が両手を上げ、静粛にするように合図する。そして威厳に満ちた声で言ったもの
「とにかく聖霊堂に向かっている人々や夏至祭の参加者を避難させるように」
「猊下は?」
「私は事が一通り終わるまで聖霊堂にいる」
「しかし…」
エリスはここまで聞いた。強くアイナを抱き締めていた腕を緩める。
次に自分が何をすべきか、それはもう分かっていた。
アイナは自身を力強く押さえていた腕が緩んだことに驚いた。まだ涙は流れたままである。
「エリス様?」
顔を上げ、エリスの顔を見た。
無表情でいて、真摯なエリスの顔がアイナを見つめている。
アイナは思わず言葉をなくし、エリスの瞳を見つめ返した。
エリスはそんなアイナの様子を見て(もう落ち着いている、大丈夫)と判断した。アイナの左耳に口を近付け、囁く。
「聖霊堂から大通りを見渡せる高い場所を教えて」
普段だったら分からないこと、働いていない第六感というものが今はフル稼働していた。
血が流れ、身体は中々思ったように動かない。四肢の末端はまだまだ冷たい。
だがその一方で頭の中はこれまでの人生の中で一番冴えていた。いや前世を含めて一番冴えているのかもしれない。理性と野生の勘という相反するものがバランス良く混ざり合う。そして心臓の鼓動もリズムミカルに打っている。
エリスは聖霊堂の屋根の上にいた。
アイナに頼み込み、教王を守った村娘が具合悪くなったので、ということで控え室から退室し、聖霊堂の大鐘の室まで連れてきてもらった。
大鐘の室は聖霊堂の最上階にあるが、残念ながら大通りを見渡す位置ではなく、エリスは腹這いになりながら、大通りを見渡せる場所まで来た。
アイナは大鐘の室に待機させている。
冷たく強い風が吹いていた。
エリスの黒髪がバタバタと何か鳥の翼のように動く。
眼下には一本の大通り。
人々が粒のように見える。その大量の粒の向こうから、四角いものが物凄い勢いで近寄ってくるのが見える。
エリスのいる場所からはそれは丸わかりであるが、地上にいる人々はまだ気付いていない。
(きっと今頃、聖霊堂の警備兵らが参拝客らを避難させようと躍起になっていることだろう)
エリスは何かに導かれるように左手の小指の指輪にキスした。
その瞬間、エリスの目の前に音も無く一挺の狙撃銃が現れた。
エリスは狙撃銃が現れたことに特に驚きもせず、自然にその銃を手にした。
夜間スコープ付きの長距離射程が可能な狙撃銃などドロテア王国はおろか世界の何処にも存在しない。
これは日本で、カンバヤシが使用していた。
エリスは掌に馴染みのあるそれを掴み、スコープで此方に向かって来る馬車を見つめた。
馬車は四台。
四台とも辺りに人がいない所を走っているときを確認し、エリスは引き金を引いた。




