身元判明
エリスの不安は杞憂であった。
上級公安局員に手紙を出した五日後、何と殺された誘拐犯の身元が判明したのだ。
上級公安局員は前回と同じくらいの時刻にシトワ家の屋敷へと訪問した。
ただ前回とは違い、上級公安局員と会ったのはシトワ伯爵とエリスの二人だけで、伯爵夫人とカーラは席を外した。伯爵夫人はあれ以来、すっかり寝込むようになってしまい、またカーラも内心は怯えきっているからである。
応接室で家令がお茶を出す。
上級公安局員はお茶に手をつける前に、先ずはエリスを誉めた。
「いやあ、貴女の手紙のお陰で思いがけないところへたどり着けましたよ」
そして手紙に書いてあった『箱庭からの逃亡者たち』から手がかりを探そうとしニハラ文学院に足を運んだところ、公安局員が持参した人相書きで誘拐犯の男がそこに在籍していた学生であることが分かったという。
誘拐犯の男の名前はトフヤン・ワマデ。二十二歳。
トフヤンがどのような人物であったかというと、
「甘やかされたドラ息子」
両親を相次いで亡くしているが、その後父方の祖母に引き取られる。元々ワマデ家は地方の小さな証券会社をしていたこともあり裕福な家庭で、何不自由のない生活を送れたという。
祖母も十八歳のときに亡くすが、かなりの資産を彼宛に残している。
その後は親戚が彼の面倒を見ようとしたが、トフヤンのあまりに幼稚で身勝手さに手を焼き、多額の寄付金付きでニハラ文学院に進ませた。
最初は学生寮に入っていたが、規則のある(多いではない)生活に辟易し、老婆がしている下宿屋へとさっさと移った。
学内でも下宿屋でも彼の評判は芳しいものではなかった。
講義にはあまり出ず、真面目で気弱そうな苦学生に自分の分の課題をやらせていたり、若い講師の講義などは取り巻きたちとわざと茶化しにいったという。
常時ふくらんでいる財布を持って朝方まで飲み、また商売女を下宿屋に連れ込みドンチャン騒ぎをすることも日常茶飯事であった。
故に彼がここ半年ばかり姿を見せずとも、誰も気にかけなかった。
「一応身元引受人だった親戚は彼が起こした事件を聞いて、死体の引き取りをその場で拒否しましたよ」
上級公安局員はそこまで話し終えると、やっとお茶の入ったカップを手に取り、お茶を飲んだ。
エリスは上級公安局員がカップをテーブルに置くのを待ち、質問をした。
「トフヤンは『箱庭からの逃亡者たち』の作った詩を口ずさんだでいましたが、トフヤン自身は何か『箱庭からの逃亡者たち』の活動に興味があったとか?」
エリスのこの問いに上級公安局員は首を横に振った。
「いいえ。トフヤン自身は今お話ししたとおり、学問には全く興味がない男でした。学内の講師や学生に聞いても皆、彼が読書をした姿など見たことがないとまで言ってましたよ」
「トフヤンを育てた祖母や亡き両親が『箱庭からの逃亡者たち』の元一員だったり、愛読者であった可能性は?」
この質問に対しても上級公安局員は首を横に振った。
トフヤンが育った家は今も残されており、ほぼ手つかずの状態で親戚が管理している。その家を調べたがトフヤンの祖母や両親が残した本や日記から『箱庭からの逃亡者たち』についてのものは全く見つからなかった。
「ただトフヤン自身人の嫌がることは平気でやるような男だったらしいですから、馬車を盗んだり、銃の入手は彼がした可能性が高いでしょう」
そこからもうひとりの女について探してみるという。
上級公安局員が帰った後、エリスと父は寝床についたままの母に誘拐犯の男の身元学校分かったことを伝えた。母は手を合わせ、
「早く事件が終わりますように」
と口にした。
エリスは母のことを父とメイド長に任せて、母の寝室を出た。
(早く事件が終わりますように、か)
確かに事件の解明は全く進んでいない。むしろ謎が多くなるばかりである。
エリスの頭に誘拐犯の女の姿が浮かぶ。
翌日、トフヤンの親戚が弁護士と連れ立ってに来た。
エリスの誘拐について謝罪に来たのだ。
シトワ伯爵としては事件そのものを隠しておきたい考えなので、トフヤンの親戚と弁護士には他言しないことをを約束させ、謝罪の詳細については後日シトワ家の顧問弁護士をそちらに行かせることを伝えて終わった。
更にその翌日、思いもしない人物が来た。
エリスがカーラと共に居間でくつろいでいたときである。
屋敷の門の外から何やら騒がしい音がする。大きな男の声がして、エリスは思わず椅子から立ち上がった。カーラも恐ろしさで身体をビクッと震わせる。
普段からは考えられない早さで家令がやって来てエリスに、「私が見て参りますので、何が起きてもここから出ないで下さい」
と言い、カーラには、
「お嬢様の傍を離れないように」
と言った。
家令は同じく何事かと来たシトワ伯爵にもエリスと同じ内容の事を言い、玄関へと歩いていった。
家令のあとを男性使用人たちがついてくる。
家令が玄関の扉を開けて、門の外、騒動が起きているところへ向かった。男性使用人らが直ぐにでも加勢に出られるよう、扉から身を乗り出しているので、耳を澄ますと、騒動について聞こえてきた。
「お願いします、伯爵様に会わせて下さい」
若いとは言い難い男が半分泣きの入った情けない声を上げている。シトワ家の警備にあたっている公安局員が穏便に去らせようとしているらしいが、効かないらしい。
「私はジャスマです。誘拐事件について私が全く関係ないことを証明しに来ました」




