傷跡
魔法少女と魔法少女局には、激しい批判が集まった。
『侵略者に見逃された魔法少女たち』
『もし敵がその気なら全滅していた』
『防御機構はまた作動せず』
『白瀬 結衣、エースの資格はあるのか』
『二年前の悲劇から何も学んでいない』
ニュース番組も、ネットも、動画配信者も、評論家も、好き勝手に言葉を並べた。
映像は、すぐに拡散された。
オブスキュリテが現れた瞬間。
魔法少女たちの変身が赤い雷で解除された瞬間。
後輩たちが怯えて身を寄せ合う瞬間。
そして、白瀬結衣が床に倒れたまま動けなかった瞬間。
そのすべてが切り抜かれた。
短い動画になった。スロー再生された。赤い丸で囲われた。
何度も一時停止され、何度も戻され、何度も解説された。
『ここで白瀬 結衣が動けていれば』
『なぜエースが戦闘を放棄したのか』
『敵幹部と会話していたように見えるが?』
『精神的な問題なら、センターに立たせるべきではなかったのでは』
言葉は次々と増えていった。
あの日、赤羽 祈が叩かれた時と同じように。
ただし今回は、責められているのは結衣だった。
現役魔法少女のエース。ステージのセンター。後輩たちを導く立場。人々を守る希望の象徴。
その結衣が、敵幹部を前にして動けなくなった。
中継に映っていた。倒れた魔法少女たち。変身を解除され、怯える後輩たち。
床に倒れたまま、動けなかった結衣。
その映像は、何度も何度も流された。
街頭ビジョンでも。ニュース番組でも。配信サイトでも。誰かのスマホの画面でも。
結衣の敗北は、世界中に晒された。
魔法少女局は会見を開いた。
『現在、詳細を調査中です』
『防御機構の不作動については原因究明を進めています』
『現場の魔法少女たちは、極めて困難な状況の中で最善を尽くしました』
『白瀬 結衣へのケアも、適切に行っております』
適切。その言葉を聞いた時、結衣は一瞬だけ息を止めた。
二年前にも、似たような言葉を聞いた気がした。祈が追い詰められていた時。
魔法少女局は、同じように言っていた。適切に対応している、と。その結果、祈はいなくなった。
今度は、自分に向けて同じ言葉が使われている。皮肉だと思った。
けれど、結衣の心は、世間の批判には向かなかった。
批判されるのは構わなかった。罵られるのも、責められるのも、仕方がないと思えた。
だって、実際に自分は動けなかった。
後輩たちが倒れていくのを見た。観客が怯えるのを見た。魔法少女たちの変身が剥がされるのを見た。
それなのに、立ち上がれなかった。
エースの資格がないと言われても、否定できなかった。
無様だと言われても、その通りだと思った。
でも、そんなことよりも。
祈が。
親友が。
敵になっていた。
その事実だけが、結衣の胸を潰していた。
仮面が砕けた瞬間に見えた顔。赤い雷をまとっていた姿。久しぶりね、と笑った声。その名前で呼ばないで、と拒絶した瞳。
何度思い返しても、現実だとは思えなかった。
けれど、現実だった。
赤羽 祈は生きていた。そして、オブスキュリテになっていた。
世界を壊すもの、と名乗っていた。
どうすればいい?
どうすれば許してもらえる?
どうすれば、あの子を連れ戻せる?
結衣は何度も考えた。
謝ればいいのか。
あの時、返事をしなくてごめん。
会いに行けなくてごめん。
手を伸ばせなくてごめん。
あなたを一人にしてごめん。
そう言えば、祈は帰ってきてくれるのか。
そんなはずがない。
謝罪で戻れるなら、祈はオブスキュリテになんてなっていない。
では、戦えばいいのか。敵として倒せばいいのか。魔法少女として、世界を守るために。
でも。
祈と戦うのか。
あの赤い雷を、止めるために。
あの子の拳を避け、あの子の体に自分の拳を叩き込むのか。
想像しただけで、指先が冷たくなった。
なら、連れ戻すのか。帰ろう、と言うのか。
どこに。
祈の家は壊れた。
学校に居場所はなかった。
魔法少女局は守らなかった。
世間は石を投げた。
結衣は返事をしなかった。
祈が帰る場所を奪った側にいる自分が、どの口で帰ろうと言えるのか。
そもそも、連れ戻す資格なんて自分にあるのか。
結衣は答えを出せなかった。
ただ、胸の奥で同じ言葉だけが繰り返される。
私が、手を取らなかったから。私が、見捨てたから。
祈は、オブスキュリテになった。
その考えが、結衣の心をゆっくりと押し潰していった。
「どうした、結衣?」
声をかけられて、結衣は顔を上げた。
いつの間にか、廊下の真ん中で立ち止まっていたらしい。
魔法少女局の廊下は、白く、明るく、清潔だった。
壁には過去の魔法少女たちの写真が並んでいる。ステージで笑う姿。異形から子どもを守る姿。表彰式で花束を受け取る姿。
その中には、四条 瑠香の写真もあった。
そして、今の白瀬 結衣の写真も。
結衣は、そのどちらからも目を逸らした。
廊下の先に、一人の女性が立っていた。
森山 奈央。
かつて魔法少女として活動していた女性で、結衣にとっては先輩にあたる人だった。
柔らかく整った顔立ち。肩のあたりで切り揃えられた髪。穏やかな声。ぱっと見ただけなら、現場から退いた優しい職員に見える。
けれど、目元には現場を知る者の鋭さがあった。異形の動きを見てきた目。崩れる戦線を知っている目。守れなかったものを覚えている目。
今は第一線を退き、魔法少女局で後進の指導や支援に回っている。
候補生時代の結衣も、何度も奈央に助けられた。
魔力の少ない結衣に、効率的な身体強化の基礎を教えてくれたのも奈央だった。
全身を強化しようとするな。必要な瞬間に、必要な場所だけでいい。
おまえの魔力は少ない。でも少ないなら少ないなりの戦い方がある。
その言葉がなければ、結衣は正式な魔法少女にはなれていなかったかもしれない。
「何か悩んでいるようだけど」
「奈央さん」
結衣は反射的に笑顔を作った。いつもの癖だった。
後輩の前でも。ファンの前でも。局の職員の前でも。心配されそうになると、先に笑う。大丈夫だと見せる。崩れていないと見せる。
「ううん。ちょっと、負けちゃったのが堪えてるだけ」
自分でも、下手な嘘だと思った。
声が少し乾いていた。目元に力が入りすぎていた。手は、無意識に制服の裾を握っていた。
負けたことが苦しくないわけではない。
後輩たちの前で倒れた。観客の前で動けなかった。敵に見逃された。
中継で、そのすべてを晒された。
魔法少女のエースとして、これ以上ないほど無様だった。
でも、それだけならまだ耐えられた。
悔しい。
情けない。
次は勝つ。
そう言い聞かせて、また修練に逃げ込めばよかった。
問題は、相手が祈だったことだ。
仮面の下にいた顔。赤い雷。その名前で呼ばないで、と言った声。あれが頭から離れない。
奈央は、結衣をじっと見た。
作った笑顔も。乾いた声も。震えた指先も。
きっと、全部見抜かれている。奈央はそういう人だった。
候補生時代、結衣が「まだやれます」と笑った時も、限界だと見抜いて休ませた。
泣きそうなのに笑っている時も、何も言わずに隣に座ってくれた。
弱さを暴くのではなく、弱さを置ける場所を作ってくれる人だった。
だから、今もきっと分かっている。結衣がただ負けて落ち込んでいるわけではないことを。
それでも奈央は、追及しなかった。
「そうか」
短く言って、隣に立つ。
白い廊下に、二人分の影が落ちる。
「悔しいよね」
「……うん」
「怖かった?」
結衣は一瞬、答えに詰まった。
怖かった。
オブスキュリテが怖かったのではない。
祈の顔で、祈ではない目をしていたことが怖かった。
自分が祈を止められなかったことが怖かった。
次に会った時、また動けないかもしれない自分が怖かった。
けれど、それを言うことはできなかった。
「少しだけ」
結衣は誤魔化した。
奈央はそれ以上聞かなかった。
「何かあったら、いつでも相談してくれていいんだよ」
その声は、優しかった。無理に踏み込まない優しさだった。
けれど同時に、逃げ道を塞がない優しさでもあった。
「うん。ありがとう、奈央さん」
結衣はまた笑った。奈央も小さく笑い返した。
ほんの少しだけ、昔に戻った気がした。
候補生だった結衣が、訓練場で倒れて、奈央に水を渡された時のように。
どうしようもなく弱かった自分を、否定せず見てくれた人がそこにいる。
だからこそ、言えなかった。
祈が敵だったなんて。
自分がその祈を前にして、何もできなかったなんて。
「じゃあ、私、後輩の様子見てきます」
「うん。無理しすぎないように」
「はい」
結衣は軽く頭を下げて、廊下を歩き出した。
背筋を伸ばす。いつものように。白瀬 結衣として。現役エースとして。
奈央は、その背中を見送った。結衣が廊下の角を曲がって見えなくなる。
その瞬間、奈央の笑みは静かに消えた。
「……はぁ」
誰もいない廊下で、小さく息を吐く。
天井の蛍光灯が、白く無機質に光っている。
壁に飾られた昔の写真の中で、若い頃の奈央が笑っていた。
変身衣装をまとい、仲間たちと肩を並べ、まだ何でもできると信じていた頃の顔。
奈央は、その写真を見上げる。
「力を失うってのは、こんなにも歯がゆいものなのか」
魔法少女は、永遠に魔法少女ではいられない。力のピークは、十代半ばから後半。
魔力は、若い頃に最も強く燃える。感情と肉体と魔法が噛み合う、ごく短い時期。
その輝きの中で、少女たちはステージに立ち、戦場に立つ。
けれど、そこから少しずつ魔力の出力は落ちていく。
最初は、ほんのわずかな違和感だった。
変身に一拍遅れる。武器の維持が少し重くなる。長時間戦った後の回復が遅くなる。かつてなら届いた距離に、あと半歩届かなくなる。
それでも戦える。
そう思っていた。
だが二十代に入る頃には、ほとんどの者が戦闘力を失う。
変身できても短時間。
武器を出せても、かつてのようには振るえない。
魔法を撃てても、威力も精度も落ちる。
何より、戦場で後輩たちを守るには、あまりにも足りない。
奈央もまた、その一人だった。
今でも変身はできる。けれど、五分も保たない。
武器を出せても、異形の硬い外殻を断つほどの力はない。
防御魔法も、せいぜい一撃を逸らすのが精一杯。
現場に出れば、足手まといになる。その現実を、奈央はよく知っていた。
だから退いた。
後進の指導に回った。戦えないなら、戦える子たちを育てる。直接守れないなら、守る術を教える。
それが自分の役目だと納得したつもりだった。
けれど。
守りたい後輩がいる。
助けたい子がいる。
倒れているのが画面に映っていても、自分はそこへ飛び込めない。
結衣が嘘をついて笑っていても、その嘘を無理に剥がすこともできない。
踏み込みたいのに。踏み込む力がない。
それが、歯がゆかった。
奈央は壁に手をついた。
写真の中の自分は、まだ笑っている。
あの頃なら、と思ってしまう。
あの頃の力があれば。
あの頃の体なら。
あの頃の魔力なら。
結衣の隣に立てただろうか。
あの仮面の敵幹部に、手を伸ばせただろうか。
壊れかけている後輩たちを、もう少し強く抱きしめられただろうか。
答えは出ない。
奈央はもう一度、深く息を吐いた。
「……情けないな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
戦えない自分にか。相談してくれない結衣にか。
それとも、若い少女たちだけに希望と戦場を背負わせ続けるこの仕組みにか。
廊下の奥から、職員の慌ただしい声が聞こえる。
魔法少女局は、今日も動いている。
会見の準備。被害者対応。世論対策。次の襲撃への警戒。
大人たちは忙しい。
けれど、結衣の心に空いた穴には、誰もまだ触れられない。
奈央は拳を握った。力はもう、ほとんど残っていない。
それでも。せめて、見て見ぬふりだけはしない。
それだけは、もう二度としたくなかった。
その頃、結衣は一人で歩いていた。
「祈……」
名前を呼ぶだけで、胸が痛む。
どうして。
そう思って、すぐに否定する。理由なんて、分かっている。
あの日、祈が助けを求めていた時。
自分は手を差し出さなかった。
局に止められたから。対応が割れていたから。世論を刺激するかもしれなかったから。
いくらでも理由はあった。
けれど結局、自分は怖かったのだ。
炎上している祈に近づくことで、自分まで巻き込まれるのが。
ようやく手に入れた魔法少女としての居場所を失うのが。
努力して、努力して、やっと立てたステージから引きずり下ろされるのが。
だから、待った。待っている間に、祈はいなくなった。
そして二年後、祈はオブスキュリテになって戻ってきた。
あんなに明るかった祈が。誰よりも真心を信じていた祈が。
世界を壊すものだと名乗った。
自分のせいだ。
結衣は、唇を噛んだ。
これ以上、罪を重ねる前に止めなければならない。
でも。
私が?
戦うの?
祈と?
答えは出なかった。
「結衣先輩」
呼ばれて、結衣は振り向いた。
後輩魔法少女が、不安そうに立っていた。
「大丈夫ですか?」
「うん」
結衣は笑った。
「大丈夫」
自分でも、ひきつっているのが分かった。
後輩は、その笑顔を見てさらに不安そうな顔をした。
「あの敵……また出てきますよね」
あの敵。
オブスキュリテ。
祈。
結衣には、後輩が誰を指しているのかすぐに分かった。
「大丈夫、でしょうか」
後輩の声は震えていた。彼女は、言葉を求めていた。
大丈夫だよ。私たちが守るよ。次は絶対に負けないよ。
そんな、安心できる言葉を。
結衣は口を開いた。けれど、声が出なかった。
大丈夫。
そう言えなかった。
祈を前にして、自分は動けなかった。
後輩たちが倒れていくのを、ただ見ていた。
敵に見逃されたから、生き残っただけだった。
その自分が、何を根拠に大丈夫だと言えるのか。
「先輩……?」
後輩の目が揺れる。
結衣は、拳を握った。爪が掌に食い込む。
それでも、笑った。
「大丈夫だよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「私がいるから」
言った瞬間、口の中がからからに乾いた。
嘘だ。自分で分かっていた。
それでも、言わなければならなかった。
白瀬 結衣は、魔法少女のエースだから。
後輩たちに不安な顔を見せてはいけない。
倒れても、笑わなければならない。
怖くても、大丈夫だと言わなければならない。
かつて祈が、ステージの端で笑っていたように。
結衣は笑った。
笑いながら、胸の奥で泣いていた。




