白瀬 結衣
二年後。
白瀬 結衣は、魔法少女のエースになっていた。
ステージの中央に立ち、スポットライトを浴びる。
かつては遠くに見上げるだけだった場所。
二年前、四条 瑠香が当然のように立っていた場所。
そして、赤羽 祈と一緒にいつか立とうと誓った場所。
今、そこに立っているのは結衣だった。
歓声を受け、笑顔で手を振る。カメラに向かって視線を返す。
後輩たちの立ち位置を確認し、緊張している子には目で合図を送る。
白瀬 結衣。
努力で這い上がった魔法少女。
誰よりも魔力が少なく、誰よりも地味な魔法で、それでも折れずにエースまで上り詰めた少女。
そう紹介されるたび、観客は歓声を上げる。
結衣は笑う。慣れた笑顔だった。
二年前は、教わる側だった。歌も、踊りも、戦い方も、立ち位置も。
何もかも必死で、置いていかれないように歯を食いしばっていた。
少し油断すれば振り付けが遅れる。呼吸が乱れれば歌声が揺れる。
戦闘訓練では、強化魔法の出力が足りずに何度も吹き飛ばされた。
それでも、結衣は食らいついた。
できないなら、できるまでやる。足りないなら、足りるまで積む。
才能がないなら、才能がある子の何倍も倒れればいい。
そうやって、ここまで来た。
それが今では、教える側だ。
「いい? 魔法少女にとって大事なのは、強い魔法だけじゃないんだよ」
イベント会場の一角で、結衣は後輩魔法少女たちに向かって話していた。
今日はライブ本番前の公開交流イベントだった。
魔法少女たちがファンと触れ合い、後輩組の紹介を行い、簡単なトークや訓練デモを見せる。
会場には、たくさんの人が集まっていた。
親子連れ。ファン。スタッフ。警備員。
メディア関係者。魔法少女局の職員。
誰もが、今の結衣を知っている。
人々を守る魔法少女。努力でのし上がった、現役のエース。折れない心を持つ少女。
魔力に恵まれなかった候補生が、血の滲むような努力でセンターを掴んだ。
そんな物語を、世間は好んだ。
結衣が拳を握って笑えば、人々は感動する。
結衣が後輩に声をかければ、理想の先輩だと褒められる。
結衣がステージに立てば、誰かが言う。
瑠香の意思を継いだ、新しいエースだ。
その言葉を聞くたび、結衣は胸の奥が少しだけ痛む。
痛いだけで、顔には出さない。
白瀬 結衣は、折れない魔法少女だから。
「敵を倒すのはもちろん大事。でも、それだけじゃ駄目」
結衣は、後輩たちを見回した。
まだ正式デビューしたばかりの子。候補生から上がったばかりで、衣装の着こなしもぎこちない子。緊張で肩に力が入りすぎている子。
二年前の自分を見ているようだった。
「怖がっている人、不安な人、追い詰められている人に寄り添うこと。それも、魔法少女の大切な役目だから」
言い終えた瞬間、結衣は一瞬だけ息を詰めた。
追い詰められている人に、寄り添う。その言葉が、胸の内側を引っかいた。自分で言ったくせに、まるで刃物みたいだった。
追い詰められていた人を、結衣は知っている。
学校にも行けなくなって。
家の壁に人殺しと書かれて。
世間から責められて。
家族まで壊れて。
それでも、助けて、とメッセージを送ってきた少女。
赤羽 祈。
結衣は、その名前を胸の奥へ押し込んだ。
今は後輩たちの前だ。
表情を崩してはいけない。声を震わせてはいけない。
結衣は笑顔を保った。
その時だった。人混みの向こうに、見知った横顔が見えた。
黒い髪。細い肩。少し俯きがちな歩き方。
人の流れに逆らわず、けれど誰とも視線を合わせないような佇まい。
心臓が跳ねた。息が止まる。音が遠くなった。
後輩たちの声も。会場のざわめきも。ファンの歓声も。
すべてが遠くへ引いていく。
結衣の視界には、その横顔しか映っていなかった。
「……祈?」
名前が、勝手に唇からこぼれた。そんなはずはない。分かっている。
祈が、こんな場所にいるはずがない。
二年前に失踪してから、一度も姿を見せていない。
魔法少女局も、警察も、結衣自身も、ずっと探した。けれど見つからなかった。
それでも。あの肩の細さが。俯き方が。
人混みの中で少しだけ孤独に見える背中が。
祈に見えた。
考えるより先に、体が動いていた。
「ごめん、ちょっと待ってて!」
「え、先輩?」
後輩の声を背中に置き去りにして、結衣は走った。
人混みをすり抜ける。肩がぶつかる。誰かが驚いた声を上げる。
スタッフが慌てて名前を呼ぶ。ファンの子が「あれ、結衣ちゃん?」と振り返る。
それでも止まれなかった。逃したら、もう二度と見つけられない気がした。
お願い。
祈であって。祈であってほしい。
でも。
祈であってほしくない。
もし本当に祈だったら、何を言えばいいのか分からなかった。
謝ればいいのか。抱きしめればいいのか。帰ろうと言えばいいのか。
なぜ連絡をくれなかったのと聞けばいいのか。
違う。連絡を返さなかったのは自分だ。
結衣は唇を噛んだ。
「祈!」
叫んで、その肩に手をかける。
振り向いた少女は、目を丸くした。よく似ていた。黒い髪も。細い輪郭も。一瞬驚いた時の表情も。
けれど、違った。顔立ちも、瞳の色も。赤羽 祈ではなかった。
「あ……」
結衣の手から、力が抜ける。胸の奥に、一気に空洞が広がった。
違った。また違った。何度目だろう。
街で、駅で、会場で、ニュース映像の片隅で。似た後ろ姿を見つけるたび、結衣は息を呑んだ。
祈かもしれないと思って、違うと分かって、そのたびに胸が冷えた。
「す、すみません」
結衣は慌てて手を離した。
「友達と、勘違いしちゃって」
少女はしばらく目をぱちぱちさせていた。
「え、いいですけど……って、白瀬結衣さん?」
その表情が、一瞬で明るくなる。
「やば。本物? 写真撮ってもらっていいですか?」
結衣は反射的に笑顔を作った。慣れた笑顔だった。
落胆していても。胸が痛くても。喉の奥が詰まっていても。白瀬 結衣として求められたなら、笑顔を返す。
「もちろん」
隣に並ぶ。ピースをする。少し顔を傾ける。スマホのカメラに向かって、白瀬 結衣として笑う。
少女は嬉しそうに画面を確認した。
「ありがとうございます! 応援してます、頑張ってください!」
「ありがとう。楽しんでいってね」
そう言う声は、驚くほど自然だった。
少女が去っていく。
その背中を見送りながら、結衣は小さく息を吐いた。肩の力が抜ける。笑顔が少しだけ崩れる。
「祈……こんな街中に、いるわけないよね」
言葉にしてから、胸が痛んだ。いるわけがない。
でも、いないと決めつけたくなかった。
どこかで生きていてほしい。
でも、無事でいるなら、どうして帰ってこないのか。
帰ってこない理由を考えると、自分の罪に行き着いてしまう。
だから結衣は、また笑顔を作った。
後輩たちのところへ戻らなければならない。
白瀬 結衣は、エースだから。
赤羽 祈。
二年前の大規模襲撃事件で、多くの犠牲を出した原因とされた魔法少女。結衣の親友だった少女。
ステージの端で、いつも少し遠慮がちに笑っていた。
自分の魔法が味方の邪魔になるかもしれないからと、いつも少しだけ距離を取って戦っていた。
それでも、誰かを守りたいと本気で言える子だった。
エースだった四条 瑠香は、祈を庇って命を落とした。その瞬間は、生中継に映っていた。
何度も切り抜かれた。何度も拡散された。何度も停止され、何度も矢印をつけられ、何度も誰かに解説された。
ここで赤羽 祈が反応できていれば。
この一瞬の隙がなければ。
瑠香が庇う必要はなかったのではないか。
世間は、分かりやすい犯人を求めた。
防御機構が作動しなかったこと。無数のゲートが同時に開いたこと。現場の指揮系統が混乱したこと。敵の襲撃があまりにも周到だったこと。そういう複雑な原因は、ほとんど見向きもされなかった。
必要だったのは、答えではない。責める相手だった。
そして、祈は選ばれた。
日に日にバッシングは増していった。学校にも、家にも、ネットにも、祈の居場所はなくなった。
ニュース番組は、祈の名前を繰り返した。
動画配信者は、彼女の自宅前でカメラを回した。
匿名の言葉は、まるで刃物みたいに祈へ向けられた。
結衣は、それを知っていた。知らなかったわけではない。
スマホを開けば、嫌でも目に入った。
魔法少女局へ行けば、職員たちが小声で話していた。
候補生たちの間でも、祈の名前は腫れ物のように扱われていた。
祈が追い詰められていくのを、結衣は見ていた。
そして、やがて赤羽 祈は失踪した。
その瞬間から、世間は手のひらを返した。
かわいそうに。
追い詰めすぎだった。
まだ子どもだったのに。
誰かが守ってあげるべきだった。
魔法少女局は何をしていたのか。
周囲の大人は止められなかったのか。
友人はいなかったのか。
そんな言葉が、あとからいくらでも湧いてきた。
祈を叩いていた口が、今度は祈を哀れんだ。
祈を追い詰めた手が、今度は誰かを責め始めた。
誰かが守るべきだった。
その言葉を聞くたび、結衣は胸の奥を刺された。その誰かの中に、自分もいたからだ。
けれど、祈が戻ってくることはなかった。
「先輩ー!」
後輩たちが駆け寄ってくる。
結衣は反射的に顔を上げた。
白瀬 結衣の顔に戻る。
後輩たちが不安にならないように。周囲のファンが心配しないように。カメラを向けられても問題がないように。
「どうしたんですか?」
「ごめん」
結衣は笑った。
「友達と勘違いしちゃった」
「友達、ですか?」
「うん」
その一文字だけで、喉が詰まりそうになった。
友達。
そう呼んでいいのだろうか。
祈は、まだ自分を友達だと思ってくれているのだろうか。
いや、きっと思っていない。
助けを求めた時、結衣は手を伸ばさなかった。返事すらしなかった。
それでも結衣は笑った。笑うしかなかった。
「それで、さっきの続きだけど」
自分の声が、いつも通りに聞こえる。柔らかくて、明るくて、後輩を安心させる声。
白瀬 結衣という魔法少女にふさわしい声。
この声の作り方を、結衣はよく知っていた。
緊張している時ほど、少しゆっくり話す。怖い時ほど、目を合わせて笑う。言葉に詰まりそうな時ほど、先に口角を上げる。
魔法少女は、不安を見せてはいけない。そう教わってきた。そうやって、ここまで来た。
「魔法少女は、敵を倒すだけじゃ駄目。弱い人や、追い詰められている人に寄り添うことも大事なんだよ」
言ってから、喉の奥で笑いそうになった。
何を言っているんだろう。
親友が追い詰められていた時、私は何をした?
寄り添ったか。
手を伸ばしたか。
隣に立ったか。
違う。私は待った。
魔法少女局から、今は動くなと言われた。対応が割れているから。
下手に接触すれば、祈の立場がさらに悪くなるかもしれないから。
世論を刺激するな。君まで巻き込まれる可能性がある。
彼女のためにも、今は局の判断を待て。
そう言われた。
その時の職員の声を、今でも覚えている。
落ち着いていた。正しく聞こえた。大人の判断に思えた。だから結衣は従った。
おとなしく。いい子みたいに。魔法少女局の指示を守って。
スマホには、祈からのメッセージが来ていた。
助けて。
会いたい。
私、どうしたらいいの。
お願い。返事して。
結衣は、その通知を見た。見なかったことにはできない。確かに見た。
指が震えた。返事を打とうとした。会いに行こうと思った。
けれど、そのたびに局の言葉が頭をよぎった。
今は動くな。
世論を刺激するな。
祈のためにも待て。
そして、もう一つの声もあった。自分自身の声だ。
怖い。
今、祈に近づけば、自分も叩かれるかもしれない。
ようやく候補生として認められ始めたのに。やっと魔法少女になれるかもしれないところまで来たのに。
祈を庇えば、全部失うかもしれない。
その結果が、これだ。
祈はいなくなった。
いや。局のせいにするな。結衣は、胸の奥で自分に言い聞かせる。
局が止めたから。大人がそう言ったから。祈のためだと言われたから。
そんな言い訳を、何度も自分にした。
けれど本当は、分かっている。
本当は怖かったのだ。
炎上している祈に近づけば、自分も巻き込まれる。
せっかく魔法少女になれたのに、全部失うかもしれない。
努力して、努力して、ようやく手に入れかけた居場所まで壊れるかもしれない。
自分には才能がなかった。だから、必死で努力した。
毎日、倒れるまで訓練した。手の皮が剥けても、足が震えても、血の味がしても、諦めなかった。
やっと届きそうだった。正式な魔法少女という場所に。祈と約束した場所に。
それを失うのが、怖かった。だから、動かなかった。
祈が一番苦しい時に。祈が一番助けを求めていた時に。
私は、自分を守った。白瀬 結衣は卑怯な人間だ。
そんな人間が、後輩に向かって魔法少女の心構えを説いている。
笑ってしまう。
でも、笑えなかった。
「先輩?」
後輩の一人が、不安そうに覗き込んでくる。
結衣は、いつもの笑顔を作った。
「ううん、何でもない」
何でもないわけがない。胸の奥は、今もずっと痛んでいる。二年前から、ずっとそこに穴が開いている。
どれだけ鍛えても、どれだけ認められても、どれだけ歓声を浴びても、その穴は埋まらなかった。
けれど、今の結衣は白瀬 結衣だ。
現役魔法少女のエース。
センター。
後輩たちの憧れ。
弱いところを見せてはいけない。迷っているところを見せてはいけない。
だって、後輩たちは結衣の背中を見ている。
かつて結衣が、瑠香先輩の背中を見ていたように。そして、祈がステージの端で笑っていたように。
結衣も笑わなければならない。
「続けようか」
結衣は胸の痛みを押し込めて、後輩たちに向き直った。喉が少し乾いていた。
でも、声は震えなかった。
「どんな時でも、見捨てないこと」
後輩たちが、真剣な顔で頷く。
「それが魔法少女にとって一番大切なことだから」
その言葉は、誰よりも結衣自身を傷つけた。




