オブスキュリテ
「ならば、壊しませんか?」
背後から、声がした。私は足を止めた。
夜の街は、ひどく静かだった。
さっきまで耳の奥にこびりついていた罵声も、家の前に集まるカメラのシャッター音も、インターホンの音も、今は聞こえない。
遠くで車が走る音がする。
どこかのビルの大型モニターが、音のない広告を流している。画面の中では、魔法少女が笑っていた。
きらきらした衣装。明るい笑顔。子どもたちへ手を振る姿。
その隣には、こう書かれている。
――魔法少女は、あなたのそばに。
胃の奥が冷たくなった。
嘘だ。
魔法少女は誰かのそばにいる。誰かを守る。誰かに希望を届ける。
でも、魔法少女が壊れた時、そのそばにいてくれる人は誰もいない。
私はゆっくりと振り向いた。
街灯の下に、男が立っていた。
黒いスーツ。皺一つない襟元。手袋をはめた指。顔には、文様の入った布が貼りついている。
肌も、目も、口元も見えない。
そこに人間の顔があるはずなのに、まるで最初から表情というものを捨てているみたいだった。
けれど、私はそいつを知っていた。
ニュース映像で何度か見たことがある。魔法少女局の資料でも見た。
異形を操り、街を襲う侵略組織。その幹部格の一人。名前までは、すぐには出てこなかった。
でも、何者なのかは分かった。
殺すべき敵。魔法少女なら、迷わずそう判断するべき相手。その判断が頭をよぎった瞬間、私の体は勝手に動いていた。
光が弾ける。魔法少女の衣装が展開される。
薄汚れた夜の空気の中で、白と赤の魔力光が広がる。胸元のリボンが形を成し、手首に術式の輪が走った。
指先に魔力が集まる。赤い火花が、夜気を焦がした。
いつもなら、その火花を見るたびに少し緊張した。
私の魔法は扱いづらい。味方を巻き込むかもしれない。誰かの魔力を乱すかもしれない。だから慎重に使わなければならない。
けれど、この時だけは違った。
一瞬だけ、胸の奥が軽くなった。
よかった。
壊していいものが、目の前にいる。
こいつなら傷つけてもいい。こいつなら殺してもいい。誰も私を責めない。
それどころか、きっと褒めるだろう。
よくやった。やっぱり君は魔法少女だ。
信じていたよ。君は本当は正義の子だったんだ。
私を叩いていた連中も、きっと都合よく手のひらを返す。
先輩を死なせたと罵った口で、私を称える。
人殺しと書いた手で、拍手する。
カメラを向けて笑っていた人間たちが、今度は感動した顔で私を映す。
魔法少女、赤羽 祈。
失意からの復活。敵幹部を撃退。やはり彼女は希望だった。
そんな見出しが頭に浮かんだ瞬間、吐き気がした。
気持ち悪い。
心の底から、そう思った。
私が誰かを守った時だけ許すのか。
私が役に立った時だけ、魔法少女だと呼ぶのか。
私が傷ついても、壊れても、家族がめちゃくちゃになっても、何もしてくれなかったくせに。
敵を倒せば、また笑って手を伸ばしてくるのか。
私は、変身を解いた。赤い火花が消える。
魔法衣装がほどけ、ただの服に戻る。
夜風が、急に冷たく肌を撫でた。
「おや?」
男が、わずかに首を傾げた。その仕草には驚きがあった。
けれど、恐怖はなかった。まるで予定外の反応を見て、面白がっているだけのようだった。
「話す前に襲われるものと思っていましたが」
「あんたを殺したところで」
自分でも驚くほど、声は冷えていた。
怒鳴る気力もない。泣く気力もない。そこにあるのは、底の抜けたような疲労と、濁った嫌悪だけだった。
「喜ぶのは、この街の人たちでしょ」
男は黙っていた。顔は見えない。だから、どんな表情をしているのかは分からない。
でも、視線だけは感じた。
私を観察している。壊れたものの形を確かめるように。どこを押せばもっと深く沈むのか、見極めるように。
「そんなこと、したくない」
言ってから、自分の中で何かが決定的に変わったのを感じた。
敵を殺したくないわけじゃない。
命が尊いから、なんて綺麗な理由でもない。
正義を守りたいわけでもない。
魔法少女としての誇りが残っているわけでもない。
ただ、この街の連中が喜ぶことだけは、もうしたくなかった。
私が敵を倒して、誰かが安心する。私が傷ついて、誰かが拍手する。私が命を削って、誰かが希望だと笑う。
そんなもののために、もう一歩だって動きたくなかった。
街灯の光が、男の顔に貼りついた布の文様を照らす。
黒いスーツの侵略者は、しばらく私を見ていた。やがて、喉の奥で小さく笑った。
「なるほど」
その声は、ひどく満足そうだった。
「あなたはもう、魔法少女ではいられないのですね」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。でも私は、否定しなかった。
「ふふ」
布の奥から、男が笑った。低く、静かな笑いだった。馬鹿にしているようにも聞こえた。愉快そうにも聞こえた。
けれど、不思議と不快ではなかった。
今の私には、同情よりも、心配よりも、そういう笑いの方がまだましに思えた。
「いいですねぇ。思っていたより、ずっと話ができそうだ」
「話?」
私は男を睨んだ。
街灯の光が、男の顔に貼りついた布の文様を白く浮かび上がらせている。
目も、口も、表情も見えない。
だからこそ、声だけがやけにはっきりと耳に残った。
「私を殺しに来たんじゃないの?」
「そう焦らないでください」
男は肩をすくめるように言った。
「魔法少女として活動していないあなたを殺したところで、私には何の得もありません」
「じゃあ、何」
私の声は掠れていた。
敵と会話している。それがどれだけ異常なことなのか、頭では分かっていた。
魔法少女なら、この場で戦うべきだ。通報するべきだ。少なくとも、距離を取るべきだ。
でも、足は動かなかった。
男は一歩、近づいた。私は逃げなかった。逃げる場所なんて、どこにもないと思った。
「赤羽 祈さん」
男は、私の名前を呼んだ。その響きに、胸の奥が嫌なふうに軋む。
少し前まで好きだった名前。誰かに呼ばれるたび、あたたかくなれた名前。
今ではニュースの見出しと罵声の中でしか聞こえない名前。
「我々の組織に来ませんか?」
その言葉は、ひどく場違いに聞こえた。
敵が、私を勧誘している。魔法少女だった私を。
先輩を死なせたと責められ、魔法少女局にも守られず、家族すら壊した私を。街からも、学校からも、家からも、親友からも、居場所を失った私を。
来ないか、と。まるで、そこに居場所があるみたいに。
「……馬鹿にしてるの?」
喉の奥から、低い声が出た。
「いいえ」
男は即座に否定した。
「むしろ、評価しています」
「何を」
「あなたの怒りを」
穏やかな声だった。優しげにすら聞こえた。けれど、そこには人を癒やす温度はなかった。
冷たい刃物を、丁寧に布で包んで差し出すような声だった。
「大衆とは愚かなものです」
男はゆっくりと言った。
「都合のいい時は英雄と呼び、笑顔を求め、救いを願う。あなたたちに歌えと命じ、踊れと望み、守れと祈る」
風が吹いた。
大型モニターの中で、魔法少女の広告が切り替わる。笑顔の少女たちが、こちらを見て手を振っていた。
「けれど、一度つまずけば、それを罪として裁く。失敗を許さない。恐怖も、疲労も、未熟さも、すべて悪意に変換する。自分たちが何を守られていたかなど、すぐに忘れる」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「あなたは、身に染みているでしょう?」
「……黙って」
かすれた声で言った。
それ以上聞きたくなかった。聞きたくないのに、耳を塞げなかった。
「黙れませんね」
男は楽しげだった。
「あなたはまだ、自分の怒りに名前をつけられていない。だから私が代わりに言いましょう」
その声は、甘かった。優しいのではない。こちらの傷口の形を、正確になぞるような声だった。
私が見ないようにしていた場所へ、そっと指を差し入れるような声だった。
「あなたは裏切られたのです」
息が詰まった。
「守ったはずの人々に。尽くしたはずの社会に。所属していた組織に。信じていた友人に」
結衣の顔が浮かんだ。
画面に並んだ、送信済みのメッセージ。
助けて。
会いたい。
お願い、返事して。
既読すらつかなかった文字列。
「そして」
男はわずかに声を低くした。
「あなたの名前に込められた祈りにすら」
「……やめて」
声が震えた。怒りだったのか、痛みだったのか、もう分からなかった。
「祈れば真心は通じる。誰かと心を通わせられる。ずいぶん綺麗な願いです」
「やめてって言ってるでしょ」
「ですが、届かなかった」
男は止まらなかった。
「どれだけ苦しんでも、誰も聞かなかった。どれだけ助けを求めても、誰も手を伸ばさなかった。あなたが祈ったものは、何一つ返ってこなかった」
胸が苦しくなる。
けれど、その苦しさの奥に、別の感情があった。
そうだ。そうなのだ。私は裏切られた。ずっとそう思っていた。
でも、そんなことを思ってはいけない気がしていた。
だって私は魔法少女だったから。人々を守る側だったから。
助けてもらえなかったからといって、恨んではいけない気がしていた。
けれど、この男は言った。裏切られたのだと。
「あなたは間違っていない」
その一言に、私は顔を上げた。
男は、布で顔を隠したまま、真っ直ぐこちらを見ていた。
「間違っているのは、あなたを踏みつけた世界の方です」
膝が震えた。
そんな言葉を、私はずっと待っていたのかもしれない。誰かに言ってほしかった。
私だけが悪いわけじゃないと。私だけが罰を受けるのはおかしいと。私だって、傷ついていいのだと。
あの場で倒れた私も怖かったのだと。先輩を失った私だって悲しかったのだと。守られるべきだったのは観客だけじゃなく、私も同じだったのだと。
誰かに、そう言ってほしかった。
でも、言ってくれたのは敵だった。
魔法少女局でもない。
世間でもない。
学校でもない。
親友でもない。
異形を操る侵略組織の幹部だった。
笑えてくる。笑えなかった。
「私は、もう誰も頼らない」
かろうじて、それだけを吐き出した。それは拒絶の言葉だった。
少なくとも、そう言ったつもりだった。
もう誰も信じない。もう誰にも縋らない。誰かに助けてもらおうなんて思わない。
「私一人でも、このシティを壊す」
男は、間を置かずに言った。
「無理でしょう」
即答だった。腹が立つほど冷静で、腹が立つほど正しい声だった。
「我々は組織として動いてなお、苦労しているのです。あなた一人で壊せるほど、このシティも、魔法少女局も、甘くはありません」
「だったら何」
睨みつける。
「私にまた誰かを頼れって言うの?」
「いいえ」
男は首を横に振った。
「頼らなくて結構。信じなくても結構。仲間になれとも言いません」
男は手を差し出した。黒い手袋に包まれた手。
街灯の下で、その手だけがやけにはっきりと見えた。
「相互利用です」
「相互、利用」
言葉を繰り返す。冷たい言葉だった。
助け合いでもない。友情でもない。救済でもない。ただの、利用。
「ええ」
男は穏やかに頷いた。
「私もあなたを利用する。あなたも我々を利用する。目的のために、互いの力を使う。それだけの関係です」
その言葉は、不思議なくらい飲み込みやすかった。
信じろと言われたら、きっと拒んでいた。私はもう、信じることに疲れていた。
救ってやると言われたら、きっと殺したくなっていた。私は、誰かの善意を受け取れる状態ではなかった。
仲間だと言われたら、笑っていた。仲間という言葉が、どれだけ脆いか知ってしまったから。
でも、利用。それなら分かる。
それなら、最初から期待しなくていい。
裏切られても、傷つかない。
相手が私を道具として見るなら、私も相手を道具として見ればいい。
そこには祈りも、真心もいらない。
「それとも」
男が、少しだけ声を低くした。
「まだ魔法少女としての矜持が、あなたの邪魔をしますか?」
かちり、と。胸の奥で、何かが切れた。その言葉だけは、許せなかった。
魔法少女。
その名前で、どれだけのものを奪われたと思っているのか。
魔法少女だから笑え。
魔法少女だから守れ。
魔法少女だから責任を取れ。
魔法少女なのに失敗した。
魔法少女のくせに生き残った。
その言葉は、もう希望ではなかった。鎖だった。
「私は」
声が震えた。
怒りで。悔しさで。それとも、まだ残っていた何かを踏みにじられた痛みで。
「私はもう、魔法少女じゃない!」
夜の空気が震えた。自分の声が、ビルの壁に反響する。
言った瞬間、胸の奥から何かが剥がれ落ちた気がした。
苦しかった。
でも、少しだけ楽だった。
男は満足そうに頷いた。
「結構」
差し出された手は、まだそこにあった。
「では、どうしますか?」
私は、その手を見た。この手を取れば、戻れない。
赤羽 祈という名前で生きていた場所には、もう帰れない。
魔法少女として歌っていたステージにも。
結衣と一緒に夢を語った訓練場にも。
家族が笑っていた食卓にも。
もう帰れない。そもそも。帰る場所なんて、もう残っていなかった。
「あんたたちと組めば」
私は言った。
「必ず、このシティを壊せるの?」
「壊せます」
男は断言した。ためらいのない声だった。
「あなたの力と、我々の力があれば。ただし、すぐにとはいきませんがね」
「それでいい」
すぐじゃなくていい。今日じゃなくていい。明日じゃなくていい。
でも、いつか必ず。
私を踏みにじったものを。
先輩の死を都合よく消費したものを。
私の家族を壊したものを。
祈っても届かなかったこの世界を。
全部、壊す。
「……分かったわ」
私は、男の手を取った。
黒い手袋越しの手は、ひどく冷たかった。人の手というより、夜そのものを握ったみたいだった。
「感謝しますよ」
男は静かに言った。
私は、その手を離さなかった。離したら、また何もない場所に戻ってしまう気がしたから。
利用でいい。敵でいい。地獄へ続く手でもいい。
それでも、その手だけが今の私に差し出された唯一のものだった。
「共に目的のために力を合わせましょう。赤羽 祈さん」
「その呼び方はやめて」
男の手を握ったまま、私は言った。
「赤羽 祈は、この瞬間に死んだの」
男は、少しだけ沈黙した。それから、楽しげに笑った。
「そうですか。では、新たな名が必要ですね」
夜風が吹いた。私の髪を揺らし、頬に残った涙の跡を冷やしていく。
もう涙は出なかった。代わりに、胸の奥で赤黒い火花が散っていた。
「歓迎しますよ」
男は恭しく、私に告げた。
「同志、オブスキュリテ」
その名を聞いた瞬間、私はようやく呼吸ができた気がした。
祈りは死んだ。真心は届かなかった。
なら、私は闇でいい。
赤羽 祈ではなく。
魔法少女でもなく。
誰かの希望でもなく。
私は、オブスキュリテ。
この街を壊すために生まれた、暗がりの名前だった。




