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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
序章

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4/10

オブスキュリテ



「ならば、壊しませんか?」


 背後から、声がした。私は足を止めた。


 夜の街は、ひどく静かだった。

 さっきまで耳の奥にこびりついていた罵声も、家の前に集まるカメラのシャッター音も、インターホンの音も、今は聞こえない。


 遠くで車が走る音がする。

 どこかのビルの大型モニターが、音のない広告を流している。画面の中では、魔法少女が笑っていた。


 きらきらした衣装。明るい笑顔。子どもたちへ手を振る姿。

 その隣には、こう書かれている。


 ――魔法少女は、あなたのそばに。


 胃の奥が冷たくなった。


 嘘だ。


 魔法少女は誰かのそばにいる。誰かを守る。誰かに希望を届ける。

 でも、魔法少女が壊れた時、そのそばにいてくれる人は誰もいない。


 私はゆっくりと振り向いた。

 街灯の下に、男が立っていた。


 黒いスーツ。皺一つない襟元。手袋をはめた指。顔には、文様の入った布が貼りついている。

 肌も、目も、口元も見えない。

 そこに人間の顔があるはずなのに、まるで最初から表情というものを捨てているみたいだった。


 けれど、私はそいつを知っていた。

 ニュース映像で何度か見たことがある。魔法少女局の資料でも見た。

 異形を操り、街を襲う侵略組織。その幹部格の一人。名前までは、すぐには出てこなかった。

 でも、何者なのかは分かった。


 殺すべき敵。魔法少女なら、迷わずそう判断するべき相手。その判断が頭をよぎった瞬間、私の体は勝手に動いていた。


 光が弾ける。魔法少女の衣装が展開される。

 薄汚れた夜の空気の中で、白と赤の魔力光が広がる。胸元のリボンが形を成し、手首に術式の輪が走った。


 指先に魔力が集まる。赤い火花が、夜気を焦がした。

 いつもなら、その火花を見るたびに少し緊張した。

 私の魔法は扱いづらい。味方を巻き込むかもしれない。誰かの魔力を乱すかもしれない。だから慎重に使わなければならない。

 けれど、この時だけは違った。


 一瞬だけ、胸の奥が軽くなった。

 よかった。

 壊していいものが、目の前にいる。


 こいつなら傷つけてもいい。こいつなら殺してもいい。誰も私を責めない。

 それどころか、きっと褒めるだろう。


 よくやった。やっぱり君は魔法少女だ。

 信じていたよ。君は本当は正義の子だったんだ。

 私を叩いていた連中も、きっと都合よく手のひらを返す。


 先輩を死なせたと罵った口で、私を称える。

 人殺しと書いた手で、拍手する。

 カメラを向けて笑っていた人間たちが、今度は感動した顔で私を映す。


 魔法少女、赤羽 祈。

 失意からの復活。敵幹部を撃退。やはり彼女は希望だった。

 そんな見出しが頭に浮かんだ瞬間、吐き気がした。


 気持ち悪い。


 心の底から、そう思った。

 私が誰かを守った時だけ許すのか。

 私が役に立った時だけ、魔法少女だと呼ぶのか。

 私が傷ついても、壊れても、家族がめちゃくちゃになっても、何もしてくれなかったくせに。

 敵を倒せば、また笑って手を伸ばしてくるのか。


 私は、変身を解いた。赤い火花が消える。

 魔法衣装がほどけ、ただの服に戻る。

 夜風が、急に冷たく肌を撫でた。


「おや?」


 男が、わずかに首を傾げた。その仕草には驚きがあった。

 けれど、恐怖はなかった。まるで予定外の反応を見て、面白がっているだけのようだった。


「話す前に襲われるものと思っていましたが」


「あんたを殺したところで」


 自分でも驚くほど、声は冷えていた。

 怒鳴る気力もない。泣く気力もない。そこにあるのは、底の抜けたような疲労と、濁った嫌悪だけだった。


「喜ぶのは、この街の人たちでしょ」


 男は黙っていた。顔は見えない。だから、どんな表情をしているのかは分からない。

 でも、視線だけは感じた。


 私を観察している。壊れたものの形を確かめるように。どこを押せばもっと深く沈むのか、見極めるように。


「そんなこと、したくない」


 言ってから、自分の中で何かが決定的に変わったのを感じた。

 敵を殺したくないわけじゃない。


 命が尊いから、なんて綺麗な理由でもない。

 正義を守りたいわけでもない。

 魔法少女としての誇りが残っているわけでもない。

 ただ、この街の連中が喜ぶことだけは、もうしたくなかった。


 私が敵を倒して、誰かが安心する。私が傷ついて、誰かが拍手する。私が命を削って、誰かが希望だと笑う。

 そんなもののために、もう一歩だって動きたくなかった。


 街灯の光が、男の顔に貼りついた布の文様を照らす。

 黒いスーツの侵略者は、しばらく私を見ていた。やがて、喉の奥で小さく笑った。


「なるほど」


 その声は、ひどく満足そうだった。


「あなたはもう、魔法少女ではいられないのですね」


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。でも私は、否定しなかった。


「ふふ」


 布の奥から、男が笑った。低く、静かな笑いだった。馬鹿にしているようにも聞こえた。愉快そうにも聞こえた。

 けれど、不思議と不快ではなかった。

 今の私には、同情よりも、心配よりも、そういう笑いの方がまだましに思えた。


「いいですねぇ。思っていたより、ずっと話ができそうだ」


「話?」


 私は男を睨んだ。

 街灯の光が、男の顔に貼りついた布の文様を白く浮かび上がらせている。

 目も、口も、表情も見えない。

 だからこそ、声だけがやけにはっきりと耳に残った。


「私を殺しに来たんじゃないの?」


「そう焦らないでください」


 男は肩をすくめるように言った。


「魔法少女として活動していないあなたを殺したところで、私には何の得もありません」


「じゃあ、何」


 私の声は掠れていた。


 敵と会話している。それがどれだけ異常なことなのか、頭では分かっていた。

 魔法少女なら、この場で戦うべきだ。通報するべきだ。少なくとも、距離を取るべきだ。

 でも、足は動かなかった。


 男は一歩、近づいた。私は逃げなかった。逃げる場所なんて、どこにもないと思った。


「赤羽 祈さん」


 男は、私の名前を呼んだ。その響きに、胸の奥が嫌なふうに軋む。


 少し前まで好きだった名前。誰かに呼ばれるたび、あたたかくなれた名前。

 今ではニュースの見出しと罵声の中でしか聞こえない名前。


「我々の組織に来ませんか?」


 その言葉は、ひどく場違いに聞こえた。

 敵が、私を勧誘している。魔法少女だった私を。

 先輩を死なせたと責められ、魔法少女局にも守られず、家族すら壊した私を。街からも、学校からも、家からも、親友からも、居場所を失った私を。


 来ないか、と。まるで、そこに居場所があるみたいに。


「……馬鹿にしてるの?」


 喉の奥から、低い声が出た。


「いいえ」


 男は即座に否定した。


「むしろ、評価しています」


「何を」


「あなたの怒りを」


 穏やかな声だった。優しげにすら聞こえた。けれど、そこには人を癒やす温度はなかった。

 冷たい刃物を、丁寧に布で包んで差し出すような声だった。


「大衆とは愚かなものです」


 男はゆっくりと言った。


「都合のいい時は英雄と呼び、笑顔を求め、救いを願う。あなたたちに歌えと命じ、踊れと望み、守れと祈る」


 風が吹いた。

 大型モニターの中で、魔法少女の広告が切り替わる。笑顔の少女たちが、こちらを見て手を振っていた。


「けれど、一度つまずけば、それを罪として裁く。失敗を許さない。恐怖も、疲労も、未熟さも、すべて悪意に変換する。自分たちが何を守られていたかなど、すぐに忘れる」


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。


「あなたは、身に染みているでしょう?」


「……黙って」


 かすれた声で言った。

 それ以上聞きたくなかった。聞きたくないのに、耳を塞げなかった。


「黙れませんね」


 男は楽しげだった。


「あなたはまだ、自分の怒りに名前をつけられていない。だから私が代わりに言いましょう」


 その声は、甘かった。優しいのではない。こちらの傷口の形を、正確になぞるような声だった。

 私が見ないようにしていた場所へ、そっと指を差し入れるような声だった。


「あなたは裏切られたのです」


 息が詰まった。


「守ったはずの人々に。尽くしたはずの社会に。所属していた組織に。信じていた友人に」


 結衣の顔が浮かんだ。

 画面に並んだ、送信済みのメッセージ。


 助けて。

 会いたい。

 お願い、返事して。


 既読すらつかなかった文字列。


「そして」


 男はわずかに声を低くした。


「あなたの名前に込められた祈りにすら」


「……やめて」


 声が震えた。怒りだったのか、痛みだったのか、もう分からなかった。


「祈れば真心は通じる。誰かと心を通わせられる。ずいぶん綺麗な願いです」


「やめてって言ってるでしょ」


「ですが、届かなかった」


 男は止まらなかった。


「どれだけ苦しんでも、誰も聞かなかった。どれだけ助けを求めても、誰も手を伸ばさなかった。あなたが祈ったものは、何一つ返ってこなかった」


 胸が苦しくなる。


 けれど、その苦しさの奥に、別の感情があった。

 そうだ。そうなのだ。私は裏切られた。ずっとそう思っていた。


 でも、そんなことを思ってはいけない気がしていた。

 だって私は魔法少女だったから。人々を守る側だったから。

 助けてもらえなかったからといって、恨んではいけない気がしていた。


 けれど、この男は言った。裏切られたのだと。


「あなたは間違っていない」


 その一言に、私は顔を上げた。

 男は、布で顔を隠したまま、真っ直ぐこちらを見ていた。


「間違っているのは、あなたを踏みつけた世界の方です」


 膝が震えた。

 そんな言葉を、私はずっと待っていたのかもしれない。誰かに言ってほしかった。


 私だけが悪いわけじゃないと。私だけが罰を受けるのはおかしいと。私だって、傷ついていいのだと。


 あの場で倒れた私も怖かったのだと。先輩を失った私だって悲しかったのだと。守られるべきだったのは観客だけじゃなく、私も同じだったのだと。

 誰かに、そう言ってほしかった。


 でも、言ってくれたのは敵だった。

 魔法少女局でもない。

 世間でもない。

 学校でもない。

 親友でもない。

 異形を操る侵略組織の幹部だった。


 笑えてくる。笑えなかった。


「私は、もう誰も頼らない」


 かろうじて、それだけを吐き出した。それは拒絶の言葉だった。

 少なくとも、そう言ったつもりだった。


 もう誰も信じない。もう誰にも縋らない。誰かに助けてもらおうなんて思わない。


「私一人でも、このシティを壊す」


 男は、間を置かずに言った。


「無理でしょう」


 即答だった。腹が立つほど冷静で、腹が立つほど正しい声だった。


「我々は組織として動いてなお、苦労しているのです。あなた一人で壊せるほど、このシティも、魔法少女局も、甘くはありません」


「だったら何」


 睨みつける。


「私にまた誰かを頼れって言うの?」


「いいえ」


 男は首を横に振った。


「頼らなくて結構。信じなくても結構。仲間になれとも言いません」


 男は手を差し出した。黒い手袋に包まれた手。

 街灯の下で、その手だけがやけにはっきりと見えた。


「相互利用です」


「相互、利用」


 言葉を繰り返す。冷たい言葉だった。

 助け合いでもない。友情でもない。救済でもない。ただの、利用。


「ええ」


 男は穏やかに頷いた。


「私もあなたを利用する。あなたも我々を利用する。目的のために、互いの力を使う。それだけの関係です」


 その言葉は、不思議なくらい飲み込みやすかった。

 信じろと言われたら、きっと拒んでいた。私はもう、信じることに疲れていた。

 救ってやると言われたら、きっと殺したくなっていた。私は、誰かの善意を受け取れる状態ではなかった。


 仲間だと言われたら、笑っていた。仲間という言葉が、どれだけ脆いか知ってしまったから。


 でも、利用。それなら分かる。

 それなら、最初から期待しなくていい。

 裏切られても、傷つかない。

 相手が私を道具として見るなら、私も相手を道具として見ればいい。


 そこには祈りも、真心もいらない。


「それとも」


 男が、少しだけ声を低くした。


「まだ魔法少女としての矜持が、あなたの邪魔をしますか?」


 かちり、と。胸の奥で、何かが切れた。その言葉だけは、許せなかった。


 魔法少女。


 その名前で、どれだけのものを奪われたと思っているのか。


 魔法少女だから笑え。

 魔法少女だから守れ。

 魔法少女だから責任を取れ。

 魔法少女なのに失敗した。

 魔法少女のくせに生き残った。


 その言葉は、もう希望ではなかった。鎖だった。


「私は」


 声が震えた。


 怒りで。悔しさで。それとも、まだ残っていた何かを踏みにじられた痛みで。


「私はもう、魔法少女じゃない!」


 夜の空気が震えた。自分の声が、ビルの壁に反響する。

 言った瞬間、胸の奥から何かが剥がれ落ちた気がした。

 苦しかった。

 でも、少しだけ楽だった。


 男は満足そうに頷いた。


「結構」


 差し出された手は、まだそこにあった。


「では、どうしますか?」


 私は、その手を見た。この手を取れば、戻れない。


 赤羽 祈という名前で生きていた場所には、もう帰れない。

 魔法少女として歌っていたステージにも。

 結衣と一緒に夢を語った訓練場にも。

 家族が笑っていた食卓にも。


 もう帰れない。そもそも。帰る場所なんて、もう残っていなかった。


「あんたたちと組めば」


 私は言った。


「必ず、このシティを壊せるの?」


「壊せます」


 男は断言した。ためらいのない声だった。


「あなたの力と、我々の力があれば。ただし、すぐにとはいきませんがね」


「それでいい」


 すぐじゃなくていい。今日じゃなくていい。明日じゃなくていい。

 でも、いつか必ず。


 私を踏みにじったものを。

 先輩の死を都合よく消費したものを。

 私の家族を壊したものを。

 祈っても届かなかったこの世界を。


 全部、壊す。


「……分かったわ」


 私は、男の手を取った。

 黒い手袋越しの手は、ひどく冷たかった。人の手というより、夜そのものを握ったみたいだった。


「感謝しますよ」


 男は静かに言った。

 私は、その手を離さなかった。離したら、また何もない場所に戻ってしまう気がしたから。

 利用でいい。敵でいい。地獄へ続く手でもいい。


 それでも、その手だけが今の私に差し出された唯一のものだった。


「共に目的のために力を合わせましょう。赤羽 祈さん」


「その呼び方はやめて」


 男の手を握ったまま、私は言った。


「赤羽 祈は、この瞬間に死んだの」


 男は、少しだけ沈黙した。それから、楽しげに笑った。


「そうですか。では、新たな名が必要ですね」


 夜風が吹いた。私の髪を揺らし、頬に残った涙の跡を冷やしていく。

 もう涙は出なかった。代わりに、胸の奥で赤黒い火花が散っていた。


「歓迎しますよ」


 男は恭しく、私に告げた。


「同志、オブスキュリテ」


 その名を聞いた瞬間、私はようやく呼吸ができた気がした。


 祈りは死んだ。真心は届かなかった。

 なら、私は闇でいい。


 赤羽 祈ではなく。

 魔法少女でもなく。

 誰かの希望でもなく。


 私は、オブスキュリテ。

 この街を壊すために生まれた、暗がりの名前だった。

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