後輩
オブスキュリテは歩き出した。
唐突だった。モニターに映る結衣の歌声を背に、彼女は何も言わずに踵を返す。
「どこ行くんですか」
麗奈がすぐに声をかけた。
オブスキュリテは振り返らない。
「どこでもいいでしょう」
声は冷たい。
だが、その奥には苛立ちが滲んでいた。
「こんなふざけた会見が届かないところよ」
「待ってください」
麗奈は慌てて後を追った。オブスキュリテの歩調は速い。
けれど、逃げようとしているわけではなかった。
少なくとも、麗奈にはそう見えた。
目的地を定めているというより、ただここにいたくないから歩いている。
背中がそう語っていた。
「ついてこないで」
オブスキュリテが言う。
「あんたを一人にできるわけないでしょう」
麗奈は即座に返した。
「監視役ですから」
「律儀ね」
「あなたが信用できないだけです」
「ふん」
オブスキュリテは短く鼻を鳴らす。
けれど、足を止めはしなかった。
麗奈もそれ以上は言わず、少し後ろを歩く。
エントランスを抜ける。廊下へ出る。
慰藉ライブの準備のためか、局内は普段より人の流れが偏っていた。
中央ホール方面には職員が多い。
機材を運ぶスタッフ。ライブ配信の確認をする広報担当。避難施設との中継を調整する通信班。
医療区画にも、まだ負傷者対応の人員が行き来している。
担架が通り、救護班が低い声で指示を出している。
負傷した魔法少女の家族らしき人影も見えた。
どこも慌ただしい。どこも、ゲオルギアス侵攻の後処理に追われている。
だが、訓練区画へ向かう通路は静かだった。
人の流れが少ない。照明だけが白く、床を照らしている。
オブスキュリテは、どこへ行こうとしたわけではない。
ただ、足が勝手に進んでいた。角を曲がる。白い壁。
床に刻まれた案内表示。見覚えのある通路。
その一つ一つが、視界に入るたびに胸の奥を引っかいた。
気づいた時には、訓練区画の前にいた。オブスキュリテは、そこでわずかに足を止めた。
無意識だった。ここに来ようと思ったわけではない。
むしろ、来るつもりなどなかった。それなのに、足は自然とここへ向かっていた。
忌々しい。
そう思った。
ここは、赤羽 祈の場所だ。
候補生だった頃、何度も通った場所。
結衣と並んで走った場所。基礎魔力制御の訓練を受けた場所。
実技評価の前に、手の震えを隠しながら深呼吸した場所。
自分の魔法が味方を巻き込むと知り、距離を取られた場所。
周囲の候補生たちが、祈の赤雷を恐れて離れていった場所。
危険だと言われた。連携に不向きだと言われた。
前に出るな。味方から距離を取れ。
出力を落とせ。範囲を絞れ。もっと慎重に扱え。
そんな言葉ばかりを浴びた。
それでも、正式な魔法少女になりたかった。
誰かを守れる存在になりたかった。
結衣と一緒に、いつか同じステージに立ちたいと思っていた。
赤羽 祈が、まだ赤羽 祈だった頃の場所。
それが、足に染みついている。
オブスキュリテとして歩いているつもりでも、体が覚えている。
過去が、勝手に顔をのぞかせる。そのことが、ひどく不愉快だった。
「……何よ」
オブスキュリテは小さく呟いた。
「何か言いましたか」
「何でもないわ」
麗奈は怪訝そうにしたが、それ以上は追及しなかった。
時刻は夕方過ぎ。
慰藉ライブの関係もあり、こんな時間にはもう誰もいないだろう。
訓練区画は本来、候補生たちの基礎訓練や、若手魔法少女の調整に使われる場所だ。
だが、今日は局全体が特別態勢に入っている。
多くの者はライブ支援か、復旧支援か、医療区画の補助に回っているはずだった。
そう思っていた。
だが。
訓練場の扉の向こうから、小さな破裂音が聞こえた。ぱしゅ、と乾いた音。魔力弾の音。
それも、あまり安定していない発射音だった。
麗奈が眉をひそめる。オブスキュリテは無言で扉へ近づいた。
扉には、小さな確認用の窓がある。そこから中を覗く。
訓練場には、一人だけいた。まだ若い少女だった。
正式な魔法少女の衣装ではない。訓練生用の簡易戦闘服。肩や膝には防護具。腰には補助端末。髪を後ろで結び、額には汗が浮かんでいる。
年齢は、麗奈より少し下だろうか。顔には幼さが残っている。
だが、その目だけは妙に張り詰めていた。
少女は的へ向かって右手をかざしていた。手のひらに、小さな魔力弾が生まれる。淡い青白い光。
だが、その形は不安定だった。
丸くならない。表面が揺れ、出力がぶれる。中心に魔力を集めきれていないのか、縁が薄く、今にも崩れそうだった。
少女は息を吸う。肩に力が入りすぎている。指先がわずかに震えている。
それでも、彼女は歯を食いしばり、魔力弾を放った。
青白い光が的へ向かって飛ぶ。しかし、途中であらぬ方向へ逸れた。
狙いを外したというより、弾そのものが制御を失ったような軌道だった。
壁際の安全結界にぶつかり、ぱしゅ、と情けない音を立てて霧散する。
少女は唇を噛んだ。悔しそうに目を伏せる。
だが、すぐにまた構えた。もう一度。手のひらに魔力を集める。
今度は少し大きい。
だが、その分だけ揺れも大きい。
放つ。また失敗。魔力弾は途中で崩れ、的の手前で消えた。
少女は肩で息をした。汗が顎から落ちる。足元には、何度も撃ち損じた痕跡が残っていた。
床の安全結界には、小さな衝突光の跡。的の周囲には、外れた弾がぶつかった痕跡。
訓練開始から、かなり時間が経っているのだろう。
「こんな時間まで、熱心な」
麗奈が呟いた。声には、少しだけ感心が混じっていた。
訓練生の自主練習。それ自体は珍しくない。
正式な魔法少女を目指す候補生たちは、誰もが少しでも評価を上げようと必死になる。
基礎制御。照準訓練。防御術式。体力強化。
自主練習に励む者は多い。
しかし、ゲオルギアス侵攻から数日しか経っていない。
慰藉ライブも行われている。多くの者が疲れている。訓練生の中には、今回の侵攻で仲間を失った者もいる。
そんな中で、一人きりで訓練場に残っている。ただの熱心さではないのかもしれない。
オブスキュリテは何も言わなかった。ただ、少女の手元を見ていた。
不安定な魔力弾。出力の揺れ。制御の甘さ。力が足りないわけではない。
むしろ、魔力量自体は悪くない。
だが、恐怖が混じっている。焦りが出力を乱し、力みが軌道を崩している。
撃つたびに、失敗する。失敗するたびに、さらに焦る。焦れば焦るほど、魔力が乱れる。
悪循環だった。
オブスキュリテは、知らず知らずのうちに眉を寄せていた。
見ていられない。不器用だからではない。下手だからでもない。
かつての自分を見せつけられているようで、腹が立つ。
必死に練習しているのに、うまくいかない。自分の魔法が思い通りにならない。
周囲に迷惑をかけたくなくて、もっと制御しようとして、余計に力が乱れる。
そんな感覚を、体が覚えていた。
忘れたはずなのに。捨てたはずなのに。
まだ、覚えていた。
オブスキュリテは、扉を開けて中に入った。
「う~ん、うまくいかないなぁ」
訓練場に、少女の小さな声が落ちた。
彼女は的の前に立ち、右手を見つめていた。さっきから何度も魔力弾を撃っている。
だが、結果は芳しくない。
的に当たることもある。しかし、安定しない。
途中で軌道が逸れる。形が崩れる。的へ届く前に霧散する。
魔力量が足りないわけではなさそうだった。
むしろ、手のひらに集まる魔力そのものはそこそこある。
問題は、それを形にする段階。流れを整え、出力を一定にし、狙った方向へ送り出す制御ができていない。
少女は肩を落とし、もう一度右手を構える。手のひらに青白い光が集まる。
だが、また光の輪郭が揺れた。水面に落ちた雫のように、魔力の表面が波打つ。
少女は唇を噛んだ。
もう何度目かも分からない。失敗するたびに、胸の奥が重くなる。
焦ってはいけない。焦ると余計に制御が乱れる。教官にもそう言われた。
友達にも、落ち着けばできるよと励まされた。
けれど、落ち着こうとすればするほど、自分の手のひらばかりが気になってしまう。
魔力が揺れている。また崩れる。また外す。
そう考えた瞬間、光の輪郭がさらに歪んだ。
「あなた」
その背後から、冷たい声がした。
「魔力制御が苦手なの」
「ひゃっ」
少女は大きく肩を跳ねさせた。手のひらの魔力が、ぼん、と小さく弾ける。
慌てて振り返る。いつの間にか、入り口付近に二人の少女が立っていた。
一人は、黒い拘束衣を着た少女。両手首には腕輪。表情は冷たく、目つきは鋭い。肩や腕には、まだ包帯が残っている。
もう一人は、見覚えのある先輩だった。
「あ、四条先輩。お疲れ様です」
少女は慌てて頭を下げた。
四条 麗奈。
正式魔法少女になったばかりとはいえ、訓練生の間ではよく知られている。
四条瑠香の妹。
実技成績も良く、剣と結晶魔法を使う先輩。訓練生の中には、密かに憧れている者も少なくない。
少女にとっては、少し近寄りがたい相手でもあった。
そして、その隣にいる黒衣の少女。誰だろう。見覚えがあるような気もする。
けれど、うまく結びつかない。
局内にいるのだから、先輩なのだろう。麗奈と一緒にいるのなら、なおさらだ。
少女はそう判断し、黒衣の少女にも軽く頭を下げた。
麗奈が一瞬だけ表情を強張らせた。
オブスキュリテは、少女の反応を見て、わずかに目を細める。
自分が誰か分かっていない。あるいは、分かっていないふりをしているのか。
どちらにせよ、珍しい反応だった。
大抵の者は、自分を見ると怯える。警戒する。あるいは、怒りや憎しみを向ける。
赤雷の魔女。シティを襲った侵略者。魔法少女を傷つけた危険人物。
その反応には、もう慣れている。
だが、目の前の訓練生は違った。
少なくとも今は、ただの先輩の一人として頭を下げた。そのことが、少しだけ調子を狂わせた。
「はい」
少女は少し恥ずかしそうに笑う。
「私、魔力制御がすごく苦手で。教官とか友達にもコツとか聞いてるんですけど、いまいちうまく分からなくて」
「ふぅん」
オブスキュリテは気のない返事をした。
だが、視線は少女の手元を見ている。
先ほどの魔力弾。
集め方。崩れ方。呼吸。力み。
原因はだいたい分かる。
出力不足ではない。魔力の流れが悪いわけでもない。
むしろ、量だけなら訓練生としては悪くない。
問題は、外へ出す瞬間に自分で乱していることだ。
握り込む。固めようとする。外さないように意識しすぎて、出力が一点に詰まる。
そのせいで弾の表面が波打ち、発射と同時に崩れる。
典型的な制御不良。直し方も分かる。
しかし、自分が教える義理はない。
ないはずだった。
オブスキュリテは横にいる麗奈へ視線を向ける。
「麗奈」
「何ですか」
「あなた、魔力制御は得意?」
「私ですか?」
麗奈は怪訝そうに眉を寄せた。
「得意というほどではありませんが、まあ、人並み程度には」
「じゃあ、教えてあげなさい」
「はぁ!?」
麗奈の声が訓練場に響いた。
少女がびくりとする。
麗奈は慌てて咳払いし、声を少し抑えた。
「なんで私が」
「うるさいわね」
オブスキュリテは淡々と言う。
「後輩を導くのが先達の役目でしょ。それとも、私にやれっていうわけ?」
「それは……」
麗奈は言葉に詰まる。
オブスキュリテに訓練生を教えさせる。その絵面は、かなりまずい。
そもそも彼女は監視対象だ。危険人物だ。訓練生と関わらせるべきではない。
もし何かあれば、監視役である自分の責任になる。
だが、後輩を放っておけと言われると、それも違う。
困っている訓練生がいる。しかも、自主練習をしているほど真剣な子だ。
それを見て、知らないふりをするのは、麗奈の中の何かが許さなかった。
麗奈は小さく息を吐いた。
「分かりましたよ」
それから少女へ向き直る。
「魔力制御ですね」
「は、はい」
少女は背筋を伸ばした。
麗奈は少し考える。自分が普段どうやって魔力を制御しているか。
剣へ流す時。結晶を展開する時。
防御に回す時。四晶をそれぞれ動かす時。
どれも、ほとんど無意識にやっている。
教官の言う理屈は分かる。
魔力の流路。中心軸。
出力の安定。呼吸と意識の同期。
分かる。
分かるのだが、自分の感覚を言葉にするとなると難しい。
「と言っても、感覚に近いので、うまく言えるか分かりませんが……」
麗奈は真剣な顔で右手を軽く握った。
「魔力をぎゅって絞って、ぽわぁ~と広げるイメージですかね」
少女は、困ったように笑った。
「ぎゅって、ぽわぁ~……ですか」
「はい」
麗奈は真面目に頷く。
「ただ力任せに出すのではなく、一度内側でぎゅっとまとめてから、狙った方向へぽわぁ~っと」
「ぽわぁ~っと……」
「そうです。ぎゅっ、ぽわぁ~、です」
「ぎゅっ、ぽわぁ~……」
少女は手のひらを見つめる。完全に分かっていない顔だった。
麗奈も、それに気づいていないわけではない。
だが、自分の中では本当にそういう感覚なのだ。
四晶を出す時も、剣へ魔力を通す時も、内側でぎゅっとまとめてから、外へぽわぁ~と流す。
そうとしか言いようがない。
オブスキュリテは深いため息を吐いた。
「もういいわ」
麗奈が振り返る。
「何ですか」
「あなたに頼んだ私が馬鹿だった」
「なによ」
「そんな説明で理解できるわけないでしょう」
「だから感覚だから難しいんですって」
麗奈はむっとする。
「そういうなら、あんたが教えればいいじゃないですか」
言ってから、少しだけしまったという顔をした。挑発に乗せられた。
オブスキュリテは、その隙を逃さない。
「仕方ないわね」
「え」
「そこまで言うなら、私が教えるわ」
麗奈の表情が明らかに警戒へ変わった。
少女は、二人のやり取りについていけず、目を瞬かせている。
オブスキュリテは壁から体を離した。
「といっても、そこのへたくそが言う通り、感覚的なものだから口で言うのは難しいんだけど」
「へたくそ?」
麗奈の眉が跳ねた。
「今、へたくそって言いました?」
「言ったわ」
「私の説明が下手なのは認めますけど、言い方というものがあるでしょう」
「事実を述べただけよ」
「ほんっとうに腹が立つ……」
麗奈は睨む。
だが、オブスキュリテは少女の方を見ていた。
「じゃあ、どうするんだという顔ね」
麗奈が黙る。実際、そういう顔をしていた。
オブスキュリテは、訓練生の少女の前へ歩いていく。
少女は少しだけ身を固くした。恐怖というより、緊張だった。
麗奈と一緒にいる先輩らしい人。でも、なんだか怖い。
その程度の認識なのだろう。
オブスキュリテは、自分の両手首を軽く持ち上げた。拘束腕輪が、訓練場の照明を受けて鈍く光る。
銀灰色の輪。表面には細い術式紋が刻まれ、一定間隔で淡い光が脈打っている。
それは彼女の魔力の流れを常に監視し、一定以上の出力を押さえ込み、攻撃術式の発動を制限するためのものだった。
オブスキュリテは、それを見せつけるように両手首を揺らした。
「体に教えるわ」
麗奈の顔が固まった。
嫌な予感がした。とても嫌な予感だった。
そして、その予感はすぐに当たる。
「これ、外してちょうだい」
「はぁ!?」
麗奈の声が、また訓練場に大きく響いた。
訓練生の少女が、びくりと肩を跳ねさせる。
「できるわけないじゃないですか!」
「ちょっとだけよ」
オブスキュリテは平然と言った。
「別に暴れたりしないわよ」
「その言葉を信用できると思ってるんですか」
「思ってないわ」
「なお悪い!」
「でも、魔力の流れを見せるには、これが邪魔なのよ」
オブスキュリテは腕輪を軽く鳴らした。
かち、と乾いた音がする。
「制限がかかったままでは、正しい流れを作れない。歪んだものを見せても意味がないでしょう」
「だからって外せるわけないでしょう。規定違反です」
「なら、あなたはこのまま悩む後輩を放っておくわけ?」
麗奈が詰まる。
オブスキュリテは逃がさない。紫の瞳を細め、さらに言葉を重ねる。
「四条 瑠香の妹が、後輩を前にして、規定を理由に何もしないの?」
「……っ」
麗奈の目が鋭くなった。
「姉を引き合いに出さないでください」
「効いた?」
「最低ですね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてません!」
麗奈は強く言い返した。
だが、その目は迷っていた。
目の前には、魔力制御に悩む訓練生がいる。
危険だ。とても危険だ。
オブスキュリテは監視対象であり、元侵略組織幹部であり、三ヶ月前にシティを襲った危険人物だ。
腕輪の制限を緩めるなど、本来なら訓練場で気軽に行っていい判断ではない。
しかし、この訓練場には安全結界がある。自分がいる。
腕輪も、完全解除ではなく一時的な制限緩和ならすぐ再起動できる。出力上限もかけられる。攻撃術式の起動も監視できる。
それでも危険は残る。
麗奈はそれを分かっていた。
分かった上で、考えてしまう。結衣なら、どうするだろう。
そんな考えが一瞬浮かび、麗奈はますます腹立たしくなった。
自分の判断に、結衣や姉を持ち出してしまうことも。
それを見透かしたように煽ってくるオブスキュリテも。
何もかもが腹立たしい。
「……少しだけですからね」
麗奈は低く言った。
オブスキュリテの口元が、わずかに上がる。
「英断ね」
「調子に乗らないでください」
麗奈は腕輪の管理端末を取り出した。監視役に支給されている解除端末。
もちろん、全解除はできない。
戦闘時や訓練時に、限定的に魔力制限を緩めるだけのものだ。
それでも、平時の訓練場で使うには十分すぎるほど危ない。
麗奈は端末を操作しながら、何度も確認する。
「魔力制限の一部解除のみ。出力上限は最低。攻撃魔法は禁止。赤雷の放出は禁止。変なことをしたら即時再拘束します」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
オブスキュリテが適当に答える。麗奈は眉間に皺を寄せたまま、解除を実行した。
腕輪の術式が淡く光る。金属の輪が、かちりと音を立てて制限を緩めた。
完全に外れたわけではない。手首にはまだ残っている。
だが、魔力の流れを縛っていた圧力が、少しだけ薄くなる。
その瞬間。
オブスキュリテの指先に、赤い火花が散った。ぱち、と小さな音。
訓練場の空気が、わずかに変わる。
ただ制限が緩んだだけ。
それだけのはずなのに、空間の温度が一段下がったように感じられた。
少女が息を呑む。
麗奈は即座に身構えた。
「変なことしたら、すぐに取り押さえますからね」
オブスキュリテは指先の火花を眺め、それから麗奈を見た。薄く嗤う。
「結衣ならともかく、あなたじゃ無理よ」
麗奈のこめかみが、ぴくりと動いた。
「……今、なんて?」
「聞こえなかった?」
「聞こえました。聞こえたから確認してるんです」
「あなたじゃ無理と言ったの」
「本当に、今ここで取り押さえてもいいんですよ」
「試してみる?」
オブスキュリテの紫の瞳が、からかうように細まる。
訓練場の空気が一瞬だけ張り詰めた。
赤い火花。腰を落とす麗奈。静かに作動する安全結界。
少女が二人の間でおろおろする。
「あ、あの、えっと……」
その声で、麗奈が我に返った。
深く息を吐く。
「……いいですか。少しだけです。本当に少しだけ」
「分かっているわ」
「絶対に攻撃魔法は使わないでください」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
同じやり取りを繰り返して、オブスキュリテはようやく少女へ向き直った。
「さて」
その声は、先ほどまでより少しだけ低くなった。
嘲るでもなく。煽るでもなく。
訓練を見る者の声だった。
「まず、あなたの問題は出力じゃない。流れが雑なの」
少女は背筋を伸ばす。
「流れ、ですか」
「ええ」
オブスキュリテは少女の手元を見る。
「あなたは魔力を出そうとした瞬間に、全部を自分で握り潰している。形を作ろうとする意識が強すぎるのよ」
「でも、形にしないと弾にならないって」
「だから、結果として形にするの。最初から形だけ作ろうとしない」
少女は、分かるような分からないような顔をした。
オブスキュリテは小さく息を吐く。
「やってみなさい。といっても、すぐにできたら苦労しないわね」
そう言うと、オブスキュリテは少女の背後に回った。
「え」
少女が戸惑う。
麗奈の目が鋭くなる。
「ちょっと、何を――」
「触れるだけよ」
オブスキュリテは面倒そうに言った。
「魔力を流す方向を体で覚えさせる。口で言うより早いわ」
「変なことをしたら本当に――」
「分かっていると言っているでしょう」
オブスキュリテは、少女の背後に立った。
そして、背後から抱きしめるような形で、少女の両腕に自分の腕を添える。
少女の肩が大きく跳ねた。
「ひゃっ」
「動かない」
「あ、はい!」
「肩に力を入れない」
「は、はい」
「それが力を入れているのよ」
「す、すみません」
「謝る暇があるなら息を吐きなさい」
少女は慌てて息を吐く。
オブスキュリテの手は、少女の手首を強く掴んではいない。
ただ、角度を支え、余計な力みを逃がすように添えている。
麗奈は警戒しながらも、その動きを見ていた。
乱暴ではない。危険なほど近い距離なのに、オブスキュリテの手つきは不思議なほど丁寧だった。
「今から私のやり方で魔力を制御するわ」
オブスキュリテが低く言う。
「それを感じ取りなさい」
「はい……!」
少女の声は緊張で少し裏返っていた。
オブスキュリテは目を細める。腕輪の制限が緩んだ隙間から、赤い魔力が細く流れ出す。
それは攻撃ではない。出力も低い。
ただ、少女の魔力の表面をなぞるように、流路を示すだけの魔力だった。
青白い魔力の中に、ほんのわずか赤い筋が混じる。少女がびくりと震えた。
「慌てないで」
オブスキュリテの声が、耳元で落ちる。
「全部を制御しようとしない」
「で、でも、流れが」
「流れに逆らわない」
少女の手のひらに、青白い光が集まり始める。いつものように揺れる。崩れそうになる。
少女は反射的にそれを押さえ込もうとした。
その瞬間、オブスキュリテが少女の手首をわずかに下げる。
「押さえない」
「でも、崩れそうで」
「崩れてもいいの。流れが戻れば形は戻る」
「そんな」
「サーフィンを意識しなさい」
「さ、サーフィン?」
「波に乗るの。波を握り潰す馬鹿はいないでしょう」
少女は目を瞬かせた。
麗奈も、少しだけ意外そうな顔をする。
オブスキュリテは構わず続けた。
「魔力は水に近い。押さえつければ逃げる。怖がれば乱れる。だから、流れに乗る。高くなるところに合わせて、低くなるところで息を吐く」
「は、はい」
「焦らない」
青白い光が、手のひらで揺れる。
しかし、先ほどまでのように激しく崩れない。
赤い筋が、魔力の外周をなぞる。
少女の魔力が、それに沿うように少しずつ丸みを帯びていく。
「全てを制御しようとしない。あなたがやるのは、行き先を示すことだけ」
「行き先……」
「的を見る。中心を睨まない。あの円の中へ、流す」
少女の呼吸が少しずつ落ち着く。肩の力が抜ける。指先の震えが小さくなる。青白い魔力弾はまだ不安定だった。表面も揺れている。
だが、芯ができていた。
オブスキュリテは、その変化を感じ取る。
「そう」
小さく言った。
「そのまま」
少女は息を吐く。
「焦らない。波に逆らわない。この出力を維持するの」
「はい」
「撃つわよ」
「はい!」
「あなたが撃つの」
「あ、はい!」
少女は慌てて頷く。
オブスキュリテは、少女の腕に添えた手をほんの少しだけ緩めた。支えを外すのではない。主導権を返す。
「今」
少女は息を吐きながら、魔力を前へ流した。青白い魔力弾が、的へ向かって飛ぶ。
速度は遅い。威力も低い。
だが、軌道はまっすぐだった。
途中で崩れない。ぶれない。青白い光は、訓練場の空気を静かに裂いて進む。
そして、的の中心より少し外側に当たった。ぱん、と乾いた音が響く。
少女は目を見開いた。
「当たった……!」
麗奈も、小さく息を吐く。
オブスキュリテは、少女から一歩離れた。腕に残っていた赤い魔力の筋が、すっと消える。
「まだ一発当たっただけよ」
彼女はつまらなさそうに言った。
だが、その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
少女は勢いよく振り返る。
「あ、ありがとうございます!」
オブスキュリテは顔をしかめた。
礼を言われることに慣れていない。そんな顔だった。
「私の魔力制御のやり方だと、あなたに必要なものがなかったり、逆に不要な行為があるでしょうけど」
オブスキュリテは腕を組む。
「これを基礎にして、自分特有の制御方法を身につけなさい」
「自分特有の、ですか」
「ええ」
オブスキュリテは言った。
「人によって魔力の流れ方は違う。力で押す人間もいれば、細かく編む人間もいる。剣に流す人間と、弾にして撃つ人間では感覚も違う。私のやり方をそのまま真似ても、あなたには合わない部分が必ず出る」
少女は真剣な顔で頷く。
「だから、今の感覚だけ覚えておきなさい。握り潰さない。流れに乗る。出力を見栄で増やさない。まず当てる。それから大きくする」
「はい!」
少女は元気よく返事をした。
その声に、オブスキュリテは少しだけ目を細める。
眩しい。そう思った。
前向きで、素直で、まだ何も壊れていない。怒りも、憎しみも、諦めも、まだ深く染み込んでいない。
失敗しても、指摘されても、もう一度やってみようとする。
それがほんの少し、眩しかった。
麗奈は端末を握ったまま、オブスキュリテを見る。
「……意外ですね」
「何が」
「ちゃんと教えられるんですね」
「失礼ね」
「あなたが言えたことですか」
「言えるわ」
オブスキュリテは短く返し、右手を下ろした。
「もう十分でしょう。腕輪、戻して」
麗奈は少しだけ迷った。
だが、すぐに端末を操作する。腕輪の制限が再起動する。赤い火花が、オブスキュリテの指先から消えた。
魔力の流れが再び縛られる感覚に、オブスキュリテはわずかに眉をひそめる。
麗奈はそれを見逃さなかった。
「変なことは、しませんでしたね」
「だから言ったでしょう」
「信用はしてません」
「結構よ」
オブスキュリテは壁に背を預けた。
訓練生は、もう一度的へ向き直る。今度はさっきよりも丁寧に構える。魔力弾が生まれる。少し歪む。
だが、崩れない。
放つ。的の端に当たる。
少女は小さくガッツポーズした。
麗奈は、その様子を見て少しだけ表情を緩める。
オブスキュリテは、何も言わない。けれど、すぐに訓練場を出ていこうとはしなかった。
壁際に立ったまま、少女の三発目を見ている。その横顔は相変わらず不機嫌そうだった。
しかし麗奈には、それが本当に不機嫌なだけなのか、少し分からなくなっていた。
少女は、もう一度的へ向き直った。
右手を上げる。息を吸う。今度は止めない。吐きながら、胸の奥から肩へ、肘へ、手首へ、指先へと魔力を流す。
青白い光が手のひらに集まった。さっきよりも形が安定している。
表面の揺らぎはまだある。けれど、すぐに崩れそうな危うさは薄れていた。
少女は、的を見た。
撃つのではない。投げるのでもない。流れの延長線上に置く。
オブスキュリテに言われた言葉を思い出しながら、ゆっくりと魔力弾を放った。
青白い弾が、まっすぐ飛ぶ。的の外周に当たった。
ぱん、と乾いた音が響く。
「あっ」
少女の顔が明るくなる。
もう一発。今度は少しだけ中心に近い。
さらにもう一発。また当たった。
三発。
四発。
五発。
連続で的に当たる。威力はまだ弱い。速度も遅い。狙いも完全ではない。
けれど、さっきまでのように途中で逸れたり、霧散したりはしなかった。
少女の魔力弾が的に当たる。
そのたびに、オブスキュリテの胸の奥で、古い記憶がかすかに疼いた。
訓練場。何度撃っても安定しなかった赤い雷。周囲から向けられた、扱いづらいものを見るような目。
思い出したくもない。
それなのに、目の前の少女の不器用な喜びは、嫌でも赤羽 祈だった頃の感覚を引きずり出してくる。
「できた……」
少女は小さく呟いた。
それから、はっとしたように振り返る。慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます!」
声が少し上ずっている。
「私のために、わざわざ……」
オブスキュリテは、壁際にもたれたまま少女を見ていた。
礼を言われる筋合いなどない。そう言い返すつもりだった。礼を受け取れば、まるで自分が善いことをしたみたいになる。
だから、いつものように突き放せばいい。
なのに。
「……私も」
口から出たのは、別の言葉だった。
「……私も、昔は似たようなものだったわ」
麗奈が、わずかに目を見開く。
言ってから、オブスキュリテは自分の舌を噛みたくなった。
何を言っている。誰に、何を話している。赤羽 祈の話など、する必要はなかった。
それでも、続ける。
「気持ちは分かるわ」
訓練場に、短い沈黙が落ちた。
少女はきょとんとしている。
麗奈は、驚いていた。
珍しい。
いや、珍しいどころではない。
オブスキュリテが、自分の過去を話した。少なくとも、麗奈の前では初めてだった。
赤羽 祈のことを否定し続けてきた。
過去の名前を拒み続けてきた。
自分はオブスキュリテだと、何度も線を引いてきた。
その彼女が。
昔は、と言った。自分にも、うまくできない時期があったのだと口にした。
たったそれだけの言葉。
けれど、麗奈には大きく聞こえた。
「なによ」
オブスキュリテが、麗奈の視線に気づいて睨む。
「いえ」
麗奈は少しだけ視線を逸らした。
「あんた、意外と面倒見いいんだって思って」
「ふん」
オブスキュリテは鼻を鳴らす。
「気まぐれよ」
「気まぐれでここまで教えるんですか」
「そうよ」
「便利な気まぐれですね」
「あなたに言われたくないわ」
いつものようなやり取り。
だが、麗奈はさっきの言葉を忘れられなかった。
私も、昔は魔力制御が苦手だった。
その言い方は、ほんの一瞬だけ、オブスキュリテではなかった。
もっと遠い。まだ壊れる前の誰かの声に近かった。
「あの」
少女が、おずおずと声を上げた。
二人の会話が止まる。
少女は少し緊張した顔で、背筋を伸ばした。
「私、仙崎 千早って言います。訓練生です」
そして、黒衣の少女へ向き直る。
「あの、先輩の名前を聞いてもいいでしょうか」
オブスキュリテは黙った。空気が止まったように感じた。
麗奈は、反射的にオブスキュリテを見る。
千早はまだ気づいていない。
さっきから、どこかで見たことがあるような顔だと思っているだけなのだろう。
あるいは、局内にいるのだから正式な魔法少女の先輩だと、素直に信じている。その無知は、残酷ではなかった。
ただ、まっすぐだった。
オブスキュリテは、ほんの少しだけ逡巡した。
赤羽 祈。
その名が、喉元まで上がったわけではない。
そんなことはない。ないはずだ。
だが、答えるまでに間が空いた。
その間を、麗奈は見逃さなかった。
やがて、オブスキュリテは口を開く。
「オブスキュリテよ」
「えっ」
千早が目を瞬かせる。その表情が、戸惑いから驚きへ変わっていく。
オブスキュリテ。
三ヶ月前にシティを襲った侵略者。
赤い雷で魔法少女たちを苦しめた元敵幹部。
拘束具付きで局に協力している危険人物。
訓練生でも、その名前は知っている。
千早の顔色が、少しだけ変わった。
「やっぱり気が付いてなかったのね」
オブスキュリテは冷たく言った。それから、踵を返す。
もうここに用はない。そう言わんばかりの背中だった。
千早は、しばらくその背中を見ていた。
恐怖。戸惑い。驚き。
それらが顔に浮かぶ。
けれど。
「あの!」
千早は声を上げた。
オブスキュリテの足が止まる。振り返りはしない。
千早は両手を胸の前で握りしめた。
「また、時間があるときに教えてくれますか……」
少しだけ声が震えている。
それでも、最後まで言った。
「オブスキュリテ先輩」
麗奈は息を呑んだ。
オブスキュリテも、わずかに驚いたようだった。肩がほんの少しだけ動く。
オブスキュリテ先輩。
それは、奇妙な呼び方だった。
危険な元侵略者。拘束具付きの囚人。シティを壊そうとした敵。
そのはずの相手を、千早は先輩と呼んだ。
恐る恐るではある。それでも、確かに。
オブスキュリテは、しばらく何も言わなかった。
訓練場の空調音だけが聞こえる。
やがて、彼女は顔を少しだけ横へ向けた。
「時間があれば、教えてあげるわ」
素っ気ない声だった。冷たいと言ってもいい。
だが、拒絶ではなかった。
千早の顔がぱっと明るくなる。
「はい! ありがとうございます!」
深く頭を下げる。
オブスキュリテは何も返さず、今度こそ訓練場を出ていった。
麗奈は一瞬だけ千早を見た。
千早はまだ嬉しそうに立っている。
的に当たったこと。教えてもらえたこと。
そして、また教えてもらえるかもしれないこと。
それらを素直に喜んでいる顔だった。
麗奈は小さく息を吐き、オブスキュリテの後を追った。
訓練場の扉が閉まる。廊下はもう薄暗かった。夕方を過ぎ、窓の外には夜の気配が滲んでいる。
「何を勝手に約束してるんですか」
麗奈はすぐに言った。
「うるさいわね」
オブスキュリテは前を向いたまま答える。
「なら、できないってあなたが言えばよかったでしょう」
「それは……」
麗奈は口を閉ざした。
言えなかった。千早のあの顔を見て、できないとは言えなかった。
オブスキュリテに教わることが危険でないとは言い切れない。
規定上も、問題がないとは言えない。
だが、あの子は確かに一歩進んだ。
あの子にとって、オブスキュリテの助言は必要だった。それを否定できなかった。
だから麗奈は、代わりに別の疑問を口にした。
「あんたは」
声が少し硬くなる。
「先日の襲撃の時、このシティをめちゃくちゃにするのは自分だって言いましたよね」
オブスキュリテは答えない。歩き続ける。
麗奈も隣ではなく、少し後ろをついていく。
「その気持ちに変化はないんですか」
オブスキュリテは、間を置かずに言い切った。
「ないわね」
あまりにも即答だった。迷いがないように聞こえた。
少なくとも、そう聞こえるように言った。
「じゃあ、なんであの子に指導なんてしたんですか」
「言ったでしょう。気まぐれだって」
「気まぐれで何度も教えると約束しますか」
「うるさいわね」
オブスキュリテの声が雑になる。
「気まぐれだって言ってるでしょう」
痛いところを突かれたのだと、麗奈には分かった。いつものように鋭く返す余裕が少しだけない。
オブスキュリテは、歩く速度を少し上げた。
「そんなこと、あなたが知ってどうするのよ」
麗奈は足を止めかけた。
だが、止まらなかった。
その背中を見ながら答える。
「分かりません」
正直な答えだった。自分でも、なぜ聞いているのかよく分からない。
知ったところで、姉が戻るわけではない。
オブスキュリテが過去にしたことが消えるわけでもない。
彼女を許せるわけでもない。
それでも。
「でも、あんたのことが、もっと分かりません」
オブスキュリテの足が、ほんの少しだけ緩む。
麗奈は続けた。
「あんたは、姉の仇のようなもので」
言葉が少し震えた。
だが、飲み込まない。
「悪人だと思っていました」
「今もそうでしょう」
オブスキュリテが冷たく言う。
「そう思えばいいわ」
「でも」
麗奈は、拳を握った。
「最近、そうじゃないんじゃないかって思うんです」
廊下に沈黙が落ちる。
遠くから、慰藉ライブの準備音がかすかに聞こえた。
誰かの歌声のリハーサル。機材を運ぶ音。職員の呼びかけ。
そのどれもが、ここからは遠かった。
オブスキュリテは鼻で笑った。
「何を勘違いしているか知らないけれど」
声は冷たい。いつものように、突き放すための声だった。
「私はオブスキュリテ。組織の幹部で、このシティを破壊するものよ」
言い放つ。迷いを断ち切るように。
麗奈の言葉を否定するように。
自分自身へ言い聞かせるように。
「それ以上でも、それ以下でもないわ」
麗奈は何も言えなかった。
その言葉は、確かにオブスキュリテのものだった。
敵としての名。破壊者としての立場。赦されない存在としての宣言。
けれど。その背中は、どこか寂しげに見えた。
まるで、そう言わなければ立っていられない人間のように。
まるで、自分で作った檻の中へ、また戻ろうとしているように。
麗奈は、オブスキュリテの背中を見つめた。
黒い拘束衣。両手首の腕輪。少しだけ早い歩幅。
訓練生に教えたことをなかったことにしようとするような背中。
麗奈はまだ、彼女を許せない。
姉のことを思えば、許したくもない。
それでも、もう単純に悪人だとは思えなくなっていた。
そのことが、麗奈には少し苦しかった。
オブスキュリテは振り返らない。麗奈も、それ以上問いかけなかった。
二人は黙って廊下を歩いていく。
遠くで、慰藉ライブの音合わせが始まっていた。明るい旋律が、薄暗い廊下までかすかに届く。
それは、シティを慰めるための音だった。
けれど今の麗奈には、目の前の少女の背中を余計に寂しく見せる音にも聞こえた。
これにて2章は終わりです。
3章は8月中に再開できればと考えております。
ここまで読んでくださりありがとうございました!




