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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
2章

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後輩


 オブスキュリテは歩き出した。

 唐突だった。モニターに映る結衣の歌声を背に、彼女は何も言わずに踵を返す。


「どこ行くんですか」


 麗奈がすぐに声をかけた。

 オブスキュリテは振り返らない。


「どこでもいいでしょう」


 声は冷たい。

 だが、その奥には苛立ちが滲んでいた。


「こんなふざけた会見が届かないところよ」


「待ってください」


 麗奈は慌てて後を追った。オブスキュリテの歩調は速い。

 けれど、逃げようとしているわけではなかった。

 少なくとも、麗奈にはそう見えた。


 目的地を定めているというより、ただここにいたくないから歩いている。

 背中がそう語っていた。


「ついてこないで」


 オブスキュリテが言う。


「あんたを一人にできるわけないでしょう」


 麗奈は即座に返した。


「監視役ですから」


「律儀ね」


「あなたが信用できないだけです」


「ふん」


 オブスキュリテは短く鼻を鳴らす。

 けれど、足を止めはしなかった。

 麗奈もそれ以上は言わず、少し後ろを歩く。


 エントランスを抜ける。廊下へ出る。

 慰藉いしゃライブの準備のためか、局内は普段より人の流れが偏っていた。


 中央ホール方面には職員が多い。

 機材を運ぶスタッフ。ライブ配信の確認をする広報担当。避難施設との中継を調整する通信班。


 医療区画にも、まだ負傷者対応の人員が行き来している。

 担架が通り、救護班が低い声で指示を出している。

 負傷した魔法少女の家族らしき人影も見えた。

 どこも慌ただしい。どこも、ゲオルギアス侵攻の後処理に追われている。


 だが、訓練区画へ向かう通路は静かだった。

 人の流れが少ない。照明だけが白く、床を照らしている。


 オブスキュリテは、どこへ行こうとしたわけではない。

 ただ、足が勝手に進んでいた。角を曲がる。白い壁。

 床に刻まれた案内表示。見覚えのある通路。

 その一つ一つが、視界に入るたびに胸の奥を引っかいた。


 気づいた時には、訓練区画の前にいた。オブスキュリテは、そこでわずかに足を止めた。

 無意識だった。ここに来ようと思ったわけではない。

 むしろ、来るつもりなどなかった。それなのに、足は自然とここへ向かっていた。


 忌々しい。


 そう思った。


 ここは、赤羽 祈の場所だ。

 候補生だった頃、何度も通った場所。


 結衣と並んで走った場所。基礎魔力制御の訓練を受けた場所。

 実技評価の前に、手の震えを隠しながら深呼吸した場所。

 自分の魔法が味方を巻き込むと知り、距離を取られた場所。

 周囲の候補生たちが、祈の赤雷を恐れて離れていった場所。


 危険だと言われた。連携に不向きだと言われた。

 前に出るな。味方から距離を取れ。

 出力を落とせ。範囲を絞れ。もっと慎重に扱え。

 そんな言葉ばかりを浴びた。


 それでも、正式な魔法少女になりたかった。

 誰かを守れる存在になりたかった。

 結衣と一緒に、いつか同じステージに立ちたいと思っていた。

 赤羽 祈が、まだ赤羽 祈だった頃の場所。


 それが、足に染みついている。

 オブスキュリテとして歩いているつもりでも、体が覚えている。

 過去が、勝手に顔をのぞかせる。そのことが、ひどく不愉快だった。


「……何よ」


 オブスキュリテは小さく呟いた。


「何か言いましたか」


「何でもないわ」


 麗奈は怪訝そうにしたが、それ以上は追及しなかった。


 時刻は夕方過ぎ。

 慰藉ライブの関係もあり、こんな時間にはもう誰もいないだろう。

 訓練区画は本来、候補生たちの基礎訓練や、若手魔法少女の調整に使われる場所だ。

 だが、今日は局全体が特別態勢に入っている。

 多くの者はライブ支援か、復旧支援か、医療区画の補助に回っているはずだった。

 そう思っていた。


 だが。


 訓練場の扉の向こうから、小さな破裂音が聞こえた。ぱしゅ、と乾いた音。魔力弾の音。

 それも、あまり安定していない発射音だった。


 麗奈が眉をひそめる。オブスキュリテは無言で扉へ近づいた。

 扉には、小さな確認用の窓がある。そこから中を覗く。


 訓練場には、一人だけいた。まだ若い少女だった。

 正式な魔法少女の衣装ではない。訓練生用の簡易戦闘服。肩や膝には防護具。腰には補助端末。髪を後ろで結び、額には汗が浮かんでいる。


 年齢は、麗奈より少し下だろうか。顔には幼さが残っている。

 だが、その目だけは妙に張り詰めていた。


 少女は的へ向かって右手をかざしていた。手のひらに、小さな魔力弾が生まれる。淡い青白い光。

 だが、その形は不安定だった。


 丸くならない。表面が揺れ、出力がぶれる。中心に魔力を集めきれていないのか、縁が薄く、今にも崩れそうだった。


 少女は息を吸う。肩に力が入りすぎている。指先がわずかに震えている。

 それでも、彼女は歯を食いしばり、魔力弾を放った。


 青白い光が的へ向かって飛ぶ。しかし、途中であらぬ方向へ逸れた。

 狙いを外したというより、弾そのものが制御を失ったような軌道だった。

 壁際の安全結界にぶつかり、ぱしゅ、と情けない音を立てて霧散する。


 少女は唇を噛んだ。悔しそうに目を伏せる。

 だが、すぐにまた構えた。もう一度。手のひらに魔力を集める。


 今度は少し大きい。

 だが、その分だけ揺れも大きい。

 放つ。また失敗。魔力弾は途中で崩れ、的の手前で消えた。


 少女は肩で息をした。汗が顎から落ちる。足元には、何度も撃ち損じた痕跡が残っていた。

 床の安全結界には、小さな衝突光の跡。的の周囲には、外れた弾がぶつかった痕跡。

 訓練開始から、かなり時間が経っているのだろう。


「こんな時間まで、熱心な」


 麗奈が呟いた。声には、少しだけ感心が混じっていた。

 訓練生の自主練習。それ自体は珍しくない。

 正式な魔法少女を目指す候補生たちは、誰もが少しでも評価を上げようと必死になる。

 基礎制御。照準訓練。防御術式。体力強化。

 自主練習に励む者は多い。


 しかし、ゲオルギアス侵攻から数日しか経っていない。

 慰藉ライブも行われている。多くの者が疲れている。訓練生の中には、今回の侵攻で仲間を失った者もいる。

 そんな中で、一人きりで訓練場に残っている。ただの熱心さではないのかもしれない。


 オブスキュリテは何も言わなかった。ただ、少女の手元を見ていた。

 不安定な魔力弾。出力の揺れ。制御の甘さ。力が足りないわけではない。


 むしろ、魔力量自体は悪くない。

 だが、恐怖が混じっている。焦りが出力を乱し、力みが軌道を崩している。


 撃つたびに、失敗する。失敗するたびに、さらに焦る。焦れば焦るほど、魔力が乱れる。

 悪循環だった。


 オブスキュリテは、知らず知らずのうちに眉を寄せていた。

 見ていられない。不器用だからではない。下手だからでもない。

 かつての自分を見せつけられているようで、腹が立つ。


 必死に練習しているのに、うまくいかない。自分の魔法が思い通りにならない。

 周囲に迷惑をかけたくなくて、もっと制御しようとして、余計に力が乱れる。

 そんな感覚を、体が覚えていた。


 忘れたはずなのに。捨てたはずなのに。

 まだ、覚えていた。


 オブスキュリテは、扉を開けて中に入った。




「う~ん、うまくいかないなぁ」


 訓練場に、少女の小さな声が落ちた。

 彼女は的の前に立ち、右手を見つめていた。さっきから何度も魔力弾を撃っている。

 だが、結果は芳しくない。


 的に当たることもある。しかし、安定しない。

 途中で軌道が逸れる。形が崩れる。的へ届く前に霧散する。

 魔力量が足りないわけではなさそうだった。


 むしろ、手のひらに集まる魔力そのものはそこそこある。

 問題は、それを形にする段階。流れを整え、出力を一定にし、狙った方向へ送り出す制御ができていない。


 少女は肩を落とし、もう一度右手を構える。手のひらに青白い光が集まる。

 だが、また光の輪郭が揺れた。水面に落ちた雫のように、魔力の表面が波打つ。

 少女は唇を噛んだ。


 もう何度目かも分からない。失敗するたびに、胸の奥が重くなる。

 焦ってはいけない。焦ると余計に制御が乱れる。教官にもそう言われた。

 友達にも、落ち着けばできるよと励まされた。


 けれど、落ち着こうとすればするほど、自分の手のひらばかりが気になってしまう。

 魔力が揺れている。また崩れる。また外す。

 そう考えた瞬間、光の輪郭がさらに歪んだ。


「あなた」


 その背後から、冷たい声がした。


「魔力制御が苦手なの」


「ひゃっ」


 少女は大きく肩を跳ねさせた。手のひらの魔力が、ぼん、と小さく弾ける。

 慌てて振り返る。いつの間にか、入り口付近に二人の少女が立っていた。


 一人は、黒い拘束衣を着た少女。両手首には腕輪。表情は冷たく、目つきは鋭い。肩や腕には、まだ包帯が残っている。

 もう一人は、見覚えのある先輩だった。


「あ、四条先輩。お疲れ様です」


 少女は慌てて頭を下げた。


 四条 麗奈。


 正式魔法少女になったばかりとはいえ、訓練生の間ではよく知られている。

 四条瑠香の妹。

 実技成績も良く、剣と結晶魔法を使う先輩。訓練生の中には、密かに憧れている者も少なくない。

 少女にとっては、少し近寄りがたい相手でもあった。


 そして、その隣にいる黒衣の少女。誰だろう。見覚えがあるような気もする。

 けれど、うまく結びつかない。


 局内にいるのだから、先輩なのだろう。麗奈と一緒にいるのなら、なおさらだ。

 少女はそう判断し、黒衣の少女にも軽く頭を下げた。


 麗奈が一瞬だけ表情を強張らせた。

 オブスキュリテは、少女の反応を見て、わずかに目を細める。

 自分が誰か分かっていない。あるいは、分かっていないふりをしているのか。

 どちらにせよ、珍しい反応だった。


 大抵の者は、自分を見ると怯える。警戒する。あるいは、怒りや憎しみを向ける。

 赤雷の魔女。シティを襲った侵略者。魔法少女を傷つけた危険人物。

 その反応には、もう慣れている。


 だが、目の前の訓練生は違った。

 少なくとも今は、ただの先輩の一人として頭を下げた。そのことが、少しだけ調子を狂わせた。


「はい」


 少女は少し恥ずかしそうに笑う。


「私、魔力制御がすごく苦手で。教官とか友達にもコツとか聞いてるんですけど、いまいちうまく分からなくて」


「ふぅん」


 オブスキュリテは気のない返事をした。

 だが、視線は少女の手元を見ている。


 先ほどの魔力弾。

 集め方。崩れ方。呼吸。力み。

 原因はだいたい分かる。


 出力不足ではない。魔力の流れが悪いわけでもない。

 むしろ、量だけなら訓練生としては悪くない。

 問題は、外へ出す瞬間に自分で乱していることだ。


 握り込む。固めようとする。外さないように意識しすぎて、出力が一点に詰まる。

 そのせいで弾の表面が波打ち、発射と同時に崩れる。

 典型的な制御不良。直し方も分かる。


 しかし、自分が教える義理はない。

 ないはずだった。

 オブスキュリテは横にいる麗奈へ視線を向ける。


「麗奈」


「何ですか」


「あなた、魔力制御は得意?」


「私ですか?」


 麗奈は怪訝そうに眉を寄せた。


「得意というほどではありませんが、まあ、人並み程度には」


「じゃあ、教えてあげなさい」


「はぁ!?」


 麗奈の声が訓練場に響いた。

 少女がびくりとする。

 麗奈は慌てて咳払いし、声を少し抑えた。


「なんで私が」


「うるさいわね」


 オブスキュリテは淡々と言う。


「後輩を導くのが先達の役目でしょ。それとも、私にやれっていうわけ?」


「それは……」


 麗奈は言葉に詰まる。

 オブスキュリテに訓練生を教えさせる。その絵面は、かなりまずい。

 そもそも彼女は監視対象だ。危険人物だ。訓練生と関わらせるべきではない。

 もし何かあれば、監視役である自分の責任になる。


 だが、後輩を放っておけと言われると、それも違う。

 困っている訓練生がいる。しかも、自主練習をしているほど真剣な子だ。

 それを見て、知らないふりをするのは、麗奈の中の何かが許さなかった。

 麗奈は小さく息を吐いた。


「分かりましたよ」


 それから少女へ向き直る。


「魔力制御ですね」


「は、はい」


 少女は背筋を伸ばした。

 麗奈は少し考える。自分が普段どうやって魔力を制御しているか。


 剣へ流す時。結晶を展開する時。

 防御に回す時。四晶をそれぞれ動かす時。

 どれも、ほとんど無意識にやっている。


 教官の言う理屈は分かる。


 魔力の流路。中心軸。

 出力の安定。呼吸と意識の同期。


 分かる。


 分かるのだが、自分の感覚を言葉にするとなると難しい。


「と言っても、感覚に近いので、うまく言えるか分かりませんが……」


 麗奈は真剣な顔で右手を軽く握った。


「魔力をぎゅって絞って、ぽわぁ~と広げるイメージですかね」


 少女は、困ったように笑った。


「ぎゅって、ぽわぁ~……ですか」


「はい」


 麗奈は真面目に頷く。


「ただ力任せに出すのではなく、一度内側でぎゅっとまとめてから、狙った方向へぽわぁ~っと」


「ぽわぁ~っと……」


「そうです。ぎゅっ、ぽわぁ~、です」


「ぎゅっ、ぽわぁ~……」


 少女は手のひらを見つめる。完全に分かっていない顔だった。

 麗奈も、それに気づいていないわけではない。

 だが、自分の中では本当にそういう感覚なのだ。


 四晶を出す時も、剣へ魔力を通す時も、内側でぎゅっとまとめてから、外へぽわぁ~と流す。

 そうとしか言いようがない。

 オブスキュリテは深いため息を吐いた。


「もういいわ」


 麗奈が振り返る。


「何ですか」


「あなたに頼んだ私が馬鹿だった」


「なによ」


「そんな説明で理解できるわけないでしょう」


「だから感覚だから難しいんですって」


 麗奈はむっとする。


「そういうなら、あんたが教えればいいじゃないですか」


 言ってから、少しだけしまったという顔をした。挑発に乗せられた。

 オブスキュリテは、その隙を逃さない。


「仕方ないわね」


「え」


「そこまで言うなら、私が教えるわ」


 麗奈の表情が明らかに警戒へ変わった。

 少女は、二人のやり取りについていけず、目を瞬かせている。

 オブスキュリテは壁から体を離した。


「といっても、そこのへたくそが言う通り、感覚的なものだから口で言うのは難しいんだけど」


「へたくそ?」


 麗奈の眉が跳ねた。


「今、へたくそって言いました?」


「言ったわ」


「私の説明が下手なのは認めますけど、言い方というものがあるでしょう」


「事実を述べただけよ」


「ほんっとうに腹が立つ……」


 麗奈は睨む。

 だが、オブスキュリテは少女の方を見ていた。


「じゃあ、どうするんだという顔ね」


 麗奈が黙る。実際、そういう顔をしていた。

 オブスキュリテは、訓練生の少女の前へ歩いていく。


 少女は少しだけ身を固くした。恐怖というより、緊張だった。

 麗奈と一緒にいる先輩らしい人。でも、なんだか怖い。

 その程度の認識なのだろう。


 オブスキュリテは、自分の両手首を軽く持ち上げた。拘束腕輪が、訓練場の照明を受けて鈍く光る。

 銀灰色の輪。表面には細い術式紋が刻まれ、一定間隔で淡い光が脈打っている。


 それは彼女の魔力の流れを常に監視し、一定以上の出力を押さえ込み、攻撃術式の発動を制限するためのものだった。

 オブスキュリテは、それを見せつけるように両手首を揺らした。


「体に教えるわ」


 麗奈の顔が固まった。

 嫌な予感がした。とても嫌な予感だった。

 そして、その予感はすぐに当たる。


「これ、外してちょうだい」


「はぁ!?」


 麗奈の声が、また訓練場に大きく響いた。

 訓練生の少女が、びくりと肩を跳ねさせる。


「できるわけないじゃないですか!」


「ちょっとだけよ」


 オブスキュリテは平然と言った。


「別に暴れたりしないわよ」


「その言葉を信用できると思ってるんですか」


「思ってないわ」


「なお悪い!」


「でも、魔力の流れを見せるには、これが邪魔なのよ」


 オブスキュリテは腕輪を軽く鳴らした。

 かち、と乾いた音がする。


「制限がかかったままでは、正しい流れを作れない。歪んだものを見せても意味がないでしょう」


「だからって外せるわけないでしょう。規定違反です」


「なら、あなたはこのまま悩む後輩を放っておくわけ?」


 麗奈が詰まる。

 オブスキュリテは逃がさない。紫の瞳を細め、さらに言葉を重ねる。


「四条 瑠香の妹が、後輩を前にして、規定を理由に何もしないの?」


「……っ」


 麗奈の目が鋭くなった。


「姉を引き合いに出さないでください」


「効いた?」


「最低ですね」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


「褒めてません!」


 麗奈は強く言い返した。

 だが、その目は迷っていた。


 目の前には、魔力制御に悩む訓練生がいる。

 危険だ。とても危険だ。

 オブスキュリテは監視対象であり、元侵略組織幹部であり、三ヶ月前にシティを襲った危険人物だ。

 腕輪の制限を緩めるなど、本来なら訓練場で気軽に行っていい判断ではない。


 しかし、この訓練場には安全結界がある。自分がいる。

 腕輪も、完全解除ではなく一時的な制限緩和ならすぐ再起動できる。出力上限もかけられる。攻撃術式の起動も監視できる。

 それでも危険は残る。

 麗奈はそれを分かっていた。


 分かった上で、考えてしまう。結衣なら、どうするだろう。

 そんな考えが一瞬浮かび、麗奈はますます腹立たしくなった。

 自分の判断に、結衣や姉を持ち出してしまうことも。

 それを見透かしたように煽ってくるオブスキュリテも。

 何もかもが腹立たしい。


「……少しだけですからね」


 麗奈は低く言った。

 オブスキュリテの口元が、わずかに上がる。


「英断ね」


「調子に乗らないでください」


 麗奈は腕輪の管理端末を取り出した。監視役に支給されている解除端末。

 もちろん、全解除はできない。

 戦闘時や訓練時に、限定的に魔力制限を緩めるだけのものだ。

 それでも、平時の訓練場で使うには十分すぎるほど危ない。

 麗奈は端末を操作しながら、何度も確認する。


「魔力制限の一部解除のみ。出力上限は最低。攻撃魔法は禁止。赤雷の放出は禁止。変なことをしたら即時再拘束します」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 オブスキュリテが適当に答える。麗奈は眉間に皺を寄せたまま、解除を実行した。

 腕輪の術式が淡く光る。金属の輪が、かちりと音を立てて制限を緩めた。

 完全に外れたわけではない。手首にはまだ残っている。

 だが、魔力の流れを縛っていた圧力が、少しだけ薄くなる。


 その瞬間。


 オブスキュリテの指先に、赤い火花が散った。ぱち、と小さな音。

 訓練場の空気が、わずかに変わる。

 ただ制限が緩んだだけ。

 それだけのはずなのに、空間の温度が一段下がったように感じられた。


 少女が息を呑む。

 麗奈は即座に身構えた。


「変なことしたら、すぐに取り押さえますからね」


 オブスキュリテは指先の火花を眺め、それから麗奈を見た。薄く嗤う。


「結衣ならともかく、あなたじゃ無理よ」


 麗奈のこめかみが、ぴくりと動いた。


「……今、なんて?」


「聞こえなかった?」


「聞こえました。聞こえたから確認してるんです」


「あなたじゃ無理と言ったの」


「本当に、今ここで取り押さえてもいいんですよ」


「試してみる?」


 オブスキュリテの紫の瞳が、からかうように細まる。


 訓練場の空気が一瞬だけ張り詰めた。

 赤い火花。腰を落とす麗奈。静かに作動する安全結界。

 少女が二人の間でおろおろする。


「あ、あの、えっと……」


 その声で、麗奈が我に返った。

 深く息を吐く。


「……いいですか。少しだけです。本当に少しだけ」


「分かっているわ」


「絶対に攻撃魔法は使わないでください」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 同じやり取りを繰り返して、オブスキュリテはようやく少女へ向き直った。


「さて」


 その声は、先ほどまでより少しだけ低くなった。

 嘲るでもなく。煽るでもなく。

 訓練を見る者の声だった。


「まず、あなたの問題は出力じゃない。流れが雑なの」


 少女は背筋を伸ばす。


「流れ、ですか」


「ええ」


 オブスキュリテは少女の手元を見る。


「あなたは魔力を出そうとした瞬間に、全部を自分で握り潰している。形を作ろうとする意識が強すぎるのよ」


「でも、形にしないと弾にならないって」


「だから、結果として形にするの。最初から形だけ作ろうとしない」


 少女は、分かるような分からないような顔をした。

 オブスキュリテは小さく息を吐く。


「やってみなさい。といっても、すぐにできたら苦労しないわね」


 そう言うと、オブスキュリテは少女の背後に回った。


「え」


 少女が戸惑う。

 麗奈の目が鋭くなる。


「ちょっと、何を――」


「触れるだけよ」


 オブスキュリテは面倒そうに言った。


「魔力を流す方向を体で覚えさせる。口で言うより早いわ」


「変なことをしたら本当に――」


「分かっていると言っているでしょう」


 オブスキュリテは、少女の背後に立った。

 そして、背後から抱きしめるような形で、少女の両腕に自分の腕を添える。

 少女の肩が大きく跳ねた。


「ひゃっ」


「動かない」


「あ、はい!」


「肩に力を入れない」


「は、はい」


「それが力を入れているのよ」


「す、すみません」


「謝る暇があるなら息を吐きなさい」


 少女は慌てて息を吐く。

 オブスキュリテの手は、少女の手首を強く掴んではいない。

 ただ、角度を支え、余計な力みを逃がすように添えている。


 麗奈は警戒しながらも、その動きを見ていた。

 乱暴ではない。危険なほど近い距離なのに、オブスキュリテの手つきは不思議なほど丁寧だった。


「今から私のやり方で魔力を制御するわ」


 オブスキュリテが低く言う。


「それを感じ取りなさい」


「はい……!」


 少女の声は緊張で少し裏返っていた。

 オブスキュリテは目を細める。腕輪の制限が緩んだ隙間から、赤い魔力が細く流れ出す。


 それは攻撃ではない。出力も低い。

 ただ、少女の魔力の表面をなぞるように、流路を示すだけの魔力だった。

 青白い魔力の中に、ほんのわずか赤い筋が混じる。少女がびくりと震えた。


「慌てないで」


 オブスキュリテの声が、耳元で落ちる。


「全部を制御しようとしない」


「で、でも、流れが」


「流れに逆らわない」


 少女の手のひらに、青白い光が集まり始める。いつものように揺れる。崩れそうになる。

 少女は反射的にそれを押さえ込もうとした。

 その瞬間、オブスキュリテが少女の手首をわずかに下げる。


「押さえない」


「でも、崩れそうで」


「崩れてもいいの。流れが戻れば形は戻る」


「そんな」


「サーフィンを意識しなさい」


「さ、サーフィン?」


「波に乗るの。波を握り潰す馬鹿はいないでしょう」


 少女は目を瞬かせた。

 麗奈も、少しだけ意外そうな顔をする。

 オブスキュリテは構わず続けた。


「魔力は水に近い。押さえつければ逃げる。怖がれば乱れる。だから、流れに乗る。高くなるところに合わせて、低くなるところで息を吐く」


「は、はい」


「焦らない」


 青白い光が、手のひらで揺れる。

 しかし、先ほどまでのように激しく崩れない。


 赤い筋が、魔力の外周をなぞる。

 少女の魔力が、それに沿うように少しずつ丸みを帯びていく。


「全てを制御しようとしない。あなたがやるのは、行き先を示すことだけ」


「行き先……」


「的を見る。中心を睨まない。あの円の中へ、流す」


 少女の呼吸が少しずつ落ち着く。肩の力が抜ける。指先の震えが小さくなる。青白い魔力弾はまだ不安定だった。表面も揺れている。

 だが、芯ができていた。


 オブスキュリテは、その変化を感じ取る。


「そう」


 小さく言った。


「そのまま」


 少女は息を吐く。


「焦らない。波に逆らわない。この出力を維持するの」


「はい」


「撃つわよ」


「はい!」


「あなたが撃つの」


「あ、はい!」


 少女は慌てて頷く。

 オブスキュリテは、少女の腕に添えた手をほんの少しだけ緩めた。支えを外すのではない。主導権を返す。


「今」


 少女は息を吐きながら、魔力を前へ流した。青白い魔力弾が、的へ向かって飛ぶ。

 速度は遅い。威力も低い。

 だが、軌道はまっすぐだった。


 途中で崩れない。ぶれない。青白い光は、訓練場の空気を静かに裂いて進む。

 そして、的の中心より少し外側に当たった。ぱん、と乾いた音が響く。

 少女は目を見開いた。


「当たった……!」


 麗奈も、小さく息を吐く。

 オブスキュリテは、少女から一歩離れた。腕に残っていた赤い魔力の筋が、すっと消える。


「まだ一発当たっただけよ」


 彼女はつまらなさそうに言った。

 だが、その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。

 少女は勢いよく振り返る。


「あ、ありがとうございます!」


 オブスキュリテは顔をしかめた。

 礼を言われることに慣れていない。そんな顔だった。


「私の魔力制御のやり方だと、あなたに必要なものがなかったり、逆に不要な行為があるでしょうけど」


 オブスキュリテは腕を組む。


「これを基礎にして、自分特有の制御方法を身につけなさい」


「自分特有の、ですか」


「ええ」


 オブスキュリテは言った。


「人によって魔力の流れ方は違う。力で押す人間もいれば、細かく編む人間もいる。剣に流す人間と、弾にして撃つ人間では感覚も違う。私のやり方をそのまま真似ても、あなたには合わない部分が必ず出る」


 少女は真剣な顔で頷く。


「だから、今の感覚だけ覚えておきなさい。握り潰さない。流れに乗る。出力を見栄で増やさない。まず当てる。それから大きくする」


「はい!」


 少女は元気よく返事をした。

 その声に、オブスキュリテは少しだけ目を細める。


 眩しい。そう思った。


 前向きで、素直で、まだ何も壊れていない。怒りも、憎しみも、諦めも、まだ深く染み込んでいない。

 失敗しても、指摘されても、もう一度やってみようとする。

 それがほんの少し、眩しかった。


 麗奈は端末を握ったまま、オブスキュリテを見る。


「……意外ですね」


「何が」


「ちゃんと教えられるんですね」


「失礼ね」


「あなたが言えたことですか」


「言えるわ」


 オブスキュリテは短く返し、右手を下ろした。


「もう十分でしょう。腕輪、戻して」


 麗奈は少しだけ迷った。

 だが、すぐに端末を操作する。腕輪の制限が再起動する。赤い火花が、オブスキュリテの指先から消えた。

 魔力の流れが再び縛られる感覚に、オブスキュリテはわずかに眉をひそめる。

 麗奈はそれを見逃さなかった。


「変なことは、しませんでしたね」


「だから言ったでしょう」


「信用はしてません」


「結構よ」


 オブスキュリテは壁に背を預けた。

 訓練生は、もう一度的へ向き直る。今度はさっきよりも丁寧に構える。魔力弾が生まれる。少し歪む。

 だが、崩れない。


 放つ。的の端に当たる。

 少女は小さくガッツポーズした。


 麗奈は、その様子を見て少しだけ表情を緩める。

 オブスキュリテは、何も言わない。けれど、すぐに訓練場を出ていこうとはしなかった。

 壁際に立ったまま、少女の三発目を見ている。その横顔は相変わらず不機嫌そうだった。

 しかし麗奈には、それが本当に不機嫌なだけなのか、少し分からなくなっていた。


 少女は、もう一度的へ向き直った。

 右手を上げる。息を吸う。今度は止めない。吐きながら、胸の奥から肩へ、肘へ、手首へ、指先へと魔力を流す。

 青白い光が手のひらに集まった。さっきよりも形が安定している。

 表面の揺らぎはまだある。けれど、すぐに崩れそうな危うさは薄れていた。


 少女は、的を見た。

 撃つのではない。投げるのでもない。流れの延長線上に置く。

 オブスキュリテに言われた言葉を思い出しながら、ゆっくりと魔力弾を放った。


 青白い弾が、まっすぐ飛ぶ。的の外周に当たった。

 ぱん、と乾いた音が響く。


「あっ」


 少女の顔が明るくなる。


 もう一発。今度は少しだけ中心に近い。


 さらにもう一発。また当たった。


 三発。


 四発。


 五発。


 連続で的に当たる。威力はまだ弱い。速度も遅い。狙いも完全ではない。

 けれど、さっきまでのように途中で逸れたり、霧散したりはしなかった。


 少女の魔力弾が的に当たる。

 そのたびに、オブスキュリテの胸の奥で、古い記憶がかすかに疼いた。

 訓練場。何度撃っても安定しなかった赤い雷。周囲から向けられた、扱いづらいものを見るような目。

 思い出したくもない。

 それなのに、目の前の少女の不器用な喜びは、嫌でも赤羽 祈だった頃の感覚を引きずり出してくる。


「できた……」


 少女は小さく呟いた。

 それから、はっとしたように振り返る。慌てて頭を下げた。


「あ、ありがとうございます!」


 声が少し上ずっている。


「私のために、わざわざ……」


 オブスキュリテは、壁際にもたれたまま少女を見ていた。

 礼を言われる筋合いなどない。そう言い返すつもりだった。礼を受け取れば、まるで自分が善いことをしたみたいになる。

 だから、いつものように突き放せばいい。


 なのに。


「……私も」


 口から出たのは、別の言葉だった。


「……私も、昔は似たようなものだったわ」


 麗奈が、わずかに目を見開く。


 言ってから、オブスキュリテは自分の舌を噛みたくなった。

 何を言っている。誰に、何を話している。赤羽 祈の話など、する必要はなかった。

 それでも、続ける。


「気持ちは分かるわ」


 訓練場に、短い沈黙が落ちた。

 少女はきょとんとしている。

 麗奈は、驚いていた。


 珍しい。


 いや、珍しいどころではない。

 オブスキュリテが、自分の過去を話した。少なくとも、麗奈の前では初めてだった。


 赤羽 祈のことを否定し続けてきた。

 過去の名前を拒み続けてきた。

 自分はオブスキュリテだと、何度も線を引いてきた。


 その彼女が。

 昔は、と言った。自分にも、うまくできない時期があったのだと口にした。

 たったそれだけの言葉。

 けれど、麗奈には大きく聞こえた。


「なによ」


 オブスキュリテが、麗奈の視線に気づいて睨む。


「いえ」


 麗奈は少しだけ視線を逸らした。


「あんた、意外と面倒見いいんだって思って」


「ふん」


 オブスキュリテは鼻を鳴らす。


「気まぐれよ」


「気まぐれでここまで教えるんですか」


「そうよ」


「便利な気まぐれですね」


「あなたに言われたくないわ」


 いつものようなやり取り。

 だが、麗奈はさっきの言葉を忘れられなかった。


 私も、昔は魔力制御が苦手だった。


 その言い方は、ほんの一瞬だけ、オブスキュリテではなかった。

 もっと遠い。まだ壊れる前の誰かの声に近かった。


「あの」


 少女が、おずおずと声を上げた。

 二人の会話が止まる。

 少女は少し緊張した顔で、背筋を伸ばした。


「私、仙崎せんざき 千早ちはやって言います。訓練生です」


 そして、黒衣の少女へ向き直る。


「あの、先輩の名前を聞いてもいいでしょうか」


 オブスキュリテは黙った。空気が止まったように感じた。

 麗奈は、反射的にオブスキュリテを見る。

 千早はまだ気づいていない。


 さっきから、どこかで見たことがあるような顔だと思っているだけなのだろう。

 あるいは、局内にいるのだから正式な魔法少女の先輩だと、素直に信じている。その無知は、残酷ではなかった。

 ただ、まっすぐだった。


 オブスキュリテは、ほんの少しだけ逡巡した。


 赤羽 祈。


 その名が、喉元まで上がったわけではない。

 そんなことはない。ないはずだ。


 だが、答えるまでに間が空いた。

 その間を、麗奈は見逃さなかった。

 やがて、オブスキュリテは口を開く。


「オブスキュリテよ」


「えっ」


 千早が目を瞬かせる。その表情が、戸惑いから驚きへ変わっていく。


 オブスキュリテ。


 三ヶ月前にシティを襲った侵略者。

 赤い雷で魔法少女たちを苦しめた元敵幹部。

 拘束具付きで局に協力している危険人物。


 訓練生でも、その名前は知っている。

 千早の顔色が、少しだけ変わった。


「やっぱり気が付いてなかったのね」


 オブスキュリテは冷たく言った。それから、踵を返す。

 もうここに用はない。そう言わんばかりの背中だった。


 千早は、しばらくその背中を見ていた。

 恐怖。戸惑い。驚き。

 それらが顔に浮かぶ。


 けれど。


「あの!」


 千早は声を上げた。

 オブスキュリテの足が止まる。振り返りはしない。

 千早は両手を胸の前で握りしめた。


「また、時間があるときに教えてくれますか……」


 少しだけ声が震えている。

 それでも、最後まで言った。


「オブスキュリテ先輩」


 麗奈は息を呑んだ。

 オブスキュリテも、わずかに驚いたようだった。肩がほんの少しだけ動く。


 オブスキュリテ先輩。


 それは、奇妙な呼び方だった。

 危険な元侵略者。拘束具付きの囚人。シティを壊そうとした敵。

 そのはずの相手を、千早は先輩と呼んだ。

 恐る恐るではある。それでも、確かに。


 オブスキュリテは、しばらく何も言わなかった。

 訓練場の空調音だけが聞こえる。

 やがて、彼女は顔を少しだけ横へ向けた。


「時間があれば、教えてあげるわ」


 素っ気ない声だった。冷たいと言ってもいい。

 だが、拒絶ではなかった。

 千早の顔がぱっと明るくなる。


「はい! ありがとうございます!」


 深く頭を下げる。

 オブスキュリテは何も返さず、今度こそ訓練場を出ていった。

 麗奈は一瞬だけ千早を見た。


 千早はまだ嬉しそうに立っている。

 的に当たったこと。教えてもらえたこと。

 そして、また教えてもらえるかもしれないこと。

 それらを素直に喜んでいる顔だった。


 麗奈は小さく息を吐き、オブスキュリテの後を追った。

 訓練場の扉が閉まる。廊下はもう薄暗かった。夕方を過ぎ、窓の外には夜の気配が滲んでいる。


「何を勝手に約束してるんですか」


 麗奈はすぐに言った。


「うるさいわね」


 オブスキュリテは前を向いたまま答える。


「なら、できないってあなたが言えばよかったでしょう」


「それは……」


 麗奈は口を閉ざした。

 言えなかった。千早のあの顔を見て、できないとは言えなかった。

 オブスキュリテに教わることが危険でないとは言い切れない。

 規定上も、問題がないとは言えない。


 だが、あの子は確かに一歩進んだ。

 あの子にとって、オブスキュリテの助言は必要だった。それを否定できなかった。

 だから麗奈は、代わりに別の疑問を口にした。


「あんたは」


 声が少し硬くなる。


「先日の襲撃の時、このシティをめちゃくちゃにするのは自分だって言いましたよね」


 オブスキュリテは答えない。歩き続ける。

 麗奈も隣ではなく、少し後ろをついていく。


「その気持ちに変化はないんですか」


 オブスキュリテは、間を置かずに言い切った。


「ないわね」


 あまりにも即答だった。迷いがないように聞こえた。

 少なくとも、そう聞こえるように言った。


「じゃあ、なんであの子に指導なんてしたんですか」


「言ったでしょう。気まぐれだって」


「気まぐれで何度も教えると約束しますか」


「うるさいわね」


 オブスキュリテの声が雑になる。


「気まぐれだって言ってるでしょう」


 痛いところを突かれたのだと、麗奈には分かった。いつものように鋭く返す余裕が少しだけない。

 オブスキュリテは、歩く速度を少し上げた。


「そんなこと、あなたが知ってどうするのよ」


 麗奈は足を止めかけた。

 だが、止まらなかった。

 その背中を見ながら答える。


「分かりません」


 正直な答えだった。自分でも、なぜ聞いているのかよく分からない。

 知ったところで、姉が戻るわけではない。

 オブスキュリテが過去にしたことが消えるわけでもない。

 彼女を許せるわけでもない。


 それでも。


「でも、あんたのことが、もっと分かりません」


 オブスキュリテの足が、ほんの少しだけ緩む。

 麗奈は続けた。


「あんたは、姉の仇のようなもので」


 言葉が少し震えた。

 だが、飲み込まない。


「悪人だと思っていました」


「今もそうでしょう」


 オブスキュリテが冷たく言う。


「そう思えばいいわ」


「でも」


 麗奈は、拳を握った。


「最近、そうじゃないんじゃないかって思うんです」


 廊下に沈黙が落ちる。

 遠くから、慰藉ライブの準備音がかすかに聞こえた。

 誰かの歌声のリハーサル。機材を運ぶ音。職員の呼びかけ。

 そのどれもが、ここからは遠かった。


 オブスキュリテは鼻で笑った。


「何を勘違いしているか知らないけれど」


 声は冷たい。いつものように、突き放すための声だった。


「私はオブスキュリテ。組織の幹部で、このシティを破壊するものよ」


 言い放つ。迷いを断ち切るように。

 麗奈の言葉を否定するように。

 自分自身へ言い聞かせるように。


「それ以上でも、それ以下でもないわ」


 麗奈は何も言えなかった。

 その言葉は、確かにオブスキュリテのものだった。

 敵としての名。破壊者としての立場。赦されない存在としての宣言。


 けれど。その背中は、どこか寂しげに見えた。

 まるで、そう言わなければ立っていられない人間のように。

 まるで、自分で作った檻の中へ、また戻ろうとしているように。


 麗奈は、オブスキュリテの背中を見つめた。

 黒い拘束衣。両手首の腕輪。少しだけ早い歩幅。

 訓練生に教えたことをなかったことにしようとするような背中。


 麗奈はまだ、彼女を許せない。

 姉のことを思えば、許したくもない。

 それでも、もう単純に悪人だとは思えなくなっていた。

 そのことが、麗奈には少し苦しかった。


 オブスキュリテは振り返らない。麗奈も、それ以上問いかけなかった。

 二人は黙って廊下を歩いていく。


 遠くで、慰藉ライブの音合わせが始まっていた。明るい旋律が、薄暗い廊下までかすかに届く。

 それは、シティを慰めるための音だった。

 けれど今の麗奈には、目の前の少女の背中を余計に寂しく見せる音にも聞こえた。


 これにて2章は終わりです。

 3章は8月中に再開できればと考えております。

 ここまで読んでくださりありがとうございました!

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