策
桐生 聡は、会議資料を端末にまとめていた。モニターの明かりは落とされている。
幹部たちも、すでにほとんどが部屋を出ていった。会議室には、薄い静けさが戻っていた。
だが、その静けさは穏やかなものではない。
ゲオルギアスの侵攻記録。竜王グラシャラボラスの戦闘データ。
オブスキュリテの運用評価。
外部通信疑惑。影浦 棗の監視報告。装備に仕込まれた発信機の管理記録。
どれも、終わった話ではなかった。
桐生はそれらを一つずつ整理し、次の指示書へ落とし込んでいく。疲労はある。
だが、手は止めない。
この局で誰かが止まれば、その分だけ対応が遅れる。対応が遅れれば、次の被害が増える。
だから、桐生は動き続ける。
その背中に、渡会 源二が声をかけた。
「ちょっと厳しいんじゃないの」
桐生は手を止めずに答えた。
「何の話でしょうか」
「分かっているくせに」
渡会は苦く笑う。
いつものような飄々とした笑みだったが、そこには疲れが滲んでいた。
「オブスキュリテ君のことだよ。もう少し、信じてあげてもいいんじゃないかねぇ」
桐生の指が止まった。端末の上で、動きが静止する。数秒の沈黙。
会議室の空調音だけが、かすかに響いた。
それから、桐生はゆっくりと振り返る。
その表情は、先ほどまでと変わらない。冷静で、硬い。
けれど、その目だけはわずかに鋭くなっていた。
「彼女は、このシティを破壊しようとしました」
静かな声だった。
「使うことはできても、頼ることはできません」
渡会は細く息を吐く。
「信用はしても、信頼はしないってことかい」
「ええ」
桐生は否定しなかった。
「私からすれば、敵を信じる方が難しいと思いますが」
その言い方は冷たかった。
だが、そこに嘲りはなかった。怒りもない。
ただ、事実として言っている。
オブスキュリテは危険だ。
彼女は局を襲撃した。魔法少女たちを傷つけた。シティを壊そうとした。今なお、侵略組織との繋がりを断っていない。
今回の戦闘で功績を挙げたことは確かだ。
だが、それは彼女が安全になったという意味ではない。
こちら側に立ったという意味でもない。再び裏切らない保証にもならない。
だからこそ、使えるなら使う。
だが、預けることはしない。
それが桐生の判断だった。
渡会は、小さく息を吐いた。
「あの子があんなになったのは」
その声は、いつもより低い。冗談めかした響きが消えていた。
「ワシらが、あの子を庇ってやれなかったからだ」
桐生は黙っている。否定もしない。肯定もしない。
ただ、渡会の言葉を聞いていた。
「二年前、世間が赤羽 祈を叩いた。学校も家も壊れた。あの子は逃げ場をなくした」
渡会は目を伏せた。
会議室の机に、消えたモニターの黒い画面が映っている。そこにはもう何も表示されていない。
けれど、渡会には見えているのだろう。
二年前の記録が。
ライブ会場の映像。四条 瑠香の死。生中継された悲劇。
責任を一身に押しつけられていく、まだ幼かった少女。
赤羽 祈。
あの頃の彼女は、オブスキュリテではなかった。ただの魔法少女だった。
魔法の性質が厄介で、周囲から距離を置かれがちな少女。
それでも、魔法少女であろうとしていた少女。
「その時、局がちゃんと手を伸ばしてやれていれば」
渡会の声は、さらに低くなる。
「今のオブスキュリテは生まれなかったかもしれん」
桐生は数秒、沈黙した。
そして、静かに答える。
「かもしれません」
渡会が顔を上げる。
桐生は続けた。
「ですが、仮定です」
その言葉は硬かった。あまりにも硬い。
渡会の眉がわずかに動く。
「仮定、か」
「ええ」
桐生は言う。
「二年前に別の対応ができていれば、彼女は組織へ渡らなかったかもしれない。そう考えることはできます」
「なら――」
「ですが、今の彼女がオブスキュリテである事実は変わりません」
渡会の言葉を遮るように、桐生は言った。
「私たちは、赤羽 祈を救えなかった過去ではなく、オブスキュリテが今何をするかを見なければならない」
渡会は黙った。
桐生の声は淡々としている。
だが、それは冷酷さだけではなかった。
自分にも言い聞かせるような響きが、ほんのわずかに混じっていた。
「過去の責任を否定するつもりはありません。局の対応に不備があったことも、彼女を孤立させたことも、検証されるべきです」
「だったら」
「ですが、それと現在の危険評価は別です」
桐生は言った。
「罪悪感で判断を緩めれば、次に死ぬのは彼女ではありません。現場の魔法少女です。避難施設の市民です。白瀬隊員や四条隊員かもしれない」
渡会の表情がわずかに曇る。
「……そう言われると、反論しづらいのう」
「反論してください」
桐生は静かに言った。
「必要であれば」
渡会は目を細めた。
「君は本当に、そういうところが厄介じゃのう」
「何がでしょうか」
「冷たいようで、話を聞く気はある」
「判断材料が増えるなら聞きます」
「人情は材料に入らんかねぇ」
「入ります」
桐生は即答した。
渡会が少しだけ意外そうに目を開く。
桐生は続けた。
「人の感情は行動を左右する要素です。白瀬隊員への未練。四条隊員への反応。四条 瑠香への罪悪感。シティへの憎悪。組織への帰属意識。それらはすべて、彼女を読む上で必要な材料です」
「……そういう意味か」
「はい」
渡会は肩を落とすように笑った。
「まったく、君らしい」
「情に流されることと、情を情報として扱うことは違います」
桐生は言った。
「彼女に情が残っている可能性はあります。今日の戦闘記録を見る限り、それは否定できません」
「なら、もう少し猶予を与えてもいいんじゃないかと思うんだ」
渡会は顔を上げた。
「機会を。取り返すための時間を。あの子が自分で選び直すだけの余地を」
「機会なら与えました」
桐生は即答した。
「監視付きとはいえ外へ出し、戦闘にも参加させた。減刑の可能性も提示した。彼女がそれをどう扱うかは、彼女次第です」
「ずいぶん突き放すねぇ」
「突き放しているわけではありません」
「そうかねぇ」
渡会は肩をすくめる。
桐生は、渡会をまっすぐ見た。
「渡会さんは、ずいぶんと入れ込んでいるように見えますが」
責めるような声ではなかった。
だが、逃がさない問いだった。
渡会は一瞬、黙った。いつものように笑おうとしたのだろう。
肩の力を抜き、軽く受け流す。年寄りの気まぐれだとでも言って、煙に巻く。
普段の渡会なら、そうしていただろう。
しかし、その笑みは途中で崩れた。
口元だけがわずかに動き、目は笑わなかった。
「あのくらいの年の子を見るとねぇ」
声が少しだけ掠れる。
「どうしても、孫が思い浮かぶんだよ」
桐生の表情が、わずかに動いた。ごく小さな変化だった。
眉がほんの少しだけ下がる。
「あなたのお孫さんは、たしか」
「ああ」
渡会は頷いた。その動作は静かだった。
「魔法少女になって、戦って死んだ」
会議室の空気が、さらに静かになる。
外の廊下では、今も職員の足音が続いているはずだった。通信端末の音も、負傷者を運ぶ声もあるはずだった。
だが、その瞬間だけ、すべて遠ざかったように感じられた。
「まだ十代の若者がだよ」
渡会の声には、怒りも涙もなかった。何度も心の中で繰り返し、擦り切れた言葉のようだった。
「笑っていた。怖いと言いながら、それでも人を守るんだと言っていた」
渡会は、机の端に置かれた紙コップを見た。中身はすっかり冷めたコーヒーだった。
だが、彼はそれに手を伸ばさなかった。
「訓練で上手くいかなくて泣いていたこともあった。初めて人前で変身した日は、緊張しすぎて足が震えていた。けれど、それでも言うんだよ。自分が誰かを守れるなら、頑張れるって」
桐生は何も言わない。
渡会は続ける。
「そういう子が、戦場に出て、帰ってこなかった」
淡々とした言葉だった。それが、かえって重かった。
叫べるほど近くない。泣けるほど新しくない。忘れられるほど遠くもない。
渡会の中で、ずっと残り続けている傷だった。
「だからかねぇ」
渡会は天井を見上げる。照明が白く光っている。その眩しさから逃げるように、彼は目を細めた。
「なるべく機会は与えてやりたいのよ。若い子には。間違えた子にも。壊れた子にも」
そして、小さく笑った。今度の笑みは、いつもの軽さではなかった。疲れた、弱い笑みだった。
「信じたいのよ」
桐生は、静かに目を伏せた。
渡会の言葉を軽んじることはできなかった。そこにあるのは甘さだけではない。喪失を知った者の願いだった。
もう一度、誰かを失わないために。若い子が間違えたまま終わらないように。壊れた子が、壊れたままで捨てられないように。
そう願うことを、誰が簡単に否定できるだろう。
「渡会さんの気持ちは理解しました」
桐生は静かに言った。
だが、すぐに顔を上げる。
「しかし、我々にはこのシティを守る責任があります」
「一人の少女さえ守れなかったのに」
渡会の声が、鋭くなった。
「それより大きなものを守れると?」
桐生の視線が、渡会の視線とぶつかる。
その問いは、痛いところを突いていた。
赤羽 祈を守れなかった。
四条 瑠香を死なせた。
二年前の事件の後処理を誤った。
ライブ会場の防御機構は作動せず、世間は責任を求め、局はその嵐から一人の少女を守りきれなかった。
学校も、家庭も、居場所も壊れていく中で。
赤羽 祈は、手を差し伸べるべき相手に届かないまま、消えた。
その結果が、オブスキュリテだ。
局の失敗は、今の状況に繋がっている。それは否定できない。
だが、桐生は目を逸らさなかった。
「守れるかどうかではありません」
低い声だった。
「守らねばならないのです」
一拍。
会議室の空気が、冷たく張り詰める。
「何を犠牲にしても」
渡会の顔が、苦く歪んだ。
「その犠牲が、今の現状を生み出しているんだよ」
「批判は甘んじて受け入れましょう」
桐生は答える。
「ですが、誰かが非情な決断をしなければならない」
「それが自分だと?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「必要ならば、私が恨まれます。白瀬隊員にも、オブスキュリテにも、あなたにも」
渡会は、しばらく桐生を見ていた。
若くはない。しかし、渡会よりはずっと若い男だった。
顔には疲労の色が濃い。
目の下には隈があり、肩には責任が重くのしかかっている。
今日だけで何度も、現場を切り捨てるに等しい判断を迫られたはずだ。
それでも、桐生は折れない。
折れられない。
折れた瞬間、守るべきものが崩れると知っているからだ。
桐生は、冷たい男なのではない。冷たくあろうとしている男なのだ。
渡会には、それが分かってしまった。
二人の視線が、会議室の中でぶつかった。沈黙が落ちる。
やがて、渡会は大きく息を吐いた。
「はー」
苦笑する。
息と一緒に、怒りの半分を吐き出すようだった。
「大人になるって、嫌なもんだねぇ。桐生君」
「ええ」
桐生は短く答えた。
「それでも、誰かがやらねばならぬのです」
「本当に嫌な答えだ」
「承知しています」
「まったく、嫌な役回りだ」
「承知しています」
「二回言ったぞ」
「必要なら何度でも」
渡会は小さく笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「なら、せめて忘れんことだね」
渡会は出口へ向かいながら言った。
「盤上の駒にしている相手も、人間だってことを」
桐生は答えなかった。ただ、静かに頭を下げる。
否定ではない。承諾でもない。その言葉を、受け取ったというだけの沈黙だった。
渡会は会議室の扉へ向かう。扉の前で、一度だけ足を止めた。
振り返らないまま、低く言う。
「赤羽 祈も、白瀬 結衣も、四条 麗奈も、影浦 棗も。みんな、駒じゃない」
「……」
「もちろん、ワシの孫もな」
桐生は、わずかに目を伏せた。
「分かっています」
その返事は、小さかった。
渡会は、今度こそ扉を開けた。廊下の音が流れ込む。
慌ただしい足音。通信端末の呼び出し。救護班の声。
シティを守るために動き続ける現実の音。
渡会は、その中へ出ていった。
扉が閉まる。会議室には、桐生一人が残された。静けさが戻る。
しかし、渡会の言葉は消えなかった。
盤上の駒にしている相手も、人間だ。
桐生はしばらく、その場に立っていた。
モニターには、まだオブスキュリテの戦闘記録が停止表示されている。
竜の前に立つ、黒い拘束衣の少女。その背後には、四条麗奈。画面の中のオブスキュリテは、傷だらけだった。それでも前に立っている。
逃げずに。退かずに。
戦術上の合理性だけでは説明しきれない背中。
桐生は、その映像を見つめ続けた。
赤羽 祈。
オブスキュリテ。
囚人。危険戦力。
監視対象。協力者。
そして、人間。
どの呼び方も正しい。どれか一つだけでは足りない。
やがて、桐生は端末へ手を伸ばした。映像を閉じようとして、指が止まる。
画面の中で、オブスキュリテの背後にいる麗奈は、恐怖で動けずにいる。
その前に立つオブスキュリテは、赤雷を纏って竜たちを睨んでいる。
彼女がなぜそうしたのか。桐生には分からない。
利害か。罪悪感か。
未練か。魔法少女だった頃の残滓か。
あるいは、そのすべてか。
分からない。だからこそ、記録する。
監視する。運用する。
間違えないために。
いや。
間違えた時に、被害を最小限にするために。
桐生は、ようやく端末を閉じた。画面が暗くなる。
会議室に、彼自身の顔がうっすら映った。疲れた顔だった。
「分かっています」
誰に向けたものでもない呟きが、会議室に落ちた。
渡会へか。失われた彼の孫へか。赤羽 祈へか。それとも、自分自身へか。
桐生にも分からなかった。
「それでも」
彼は目を閉じる。
「守らねばならない」
その言葉だけが、静かに残った。
会議室の外では、まだ職員たちの足音が続いている。
誰かが負傷者の名を呼び、誰かが次の警戒配置を確認し、誰かが泣きそうな声で無事を報告している。
そのすべてを背負うように、桐生は再び目を開けた。
そして、端末を手に、会議室を後にした。
渡会が会議室を出てから、しばらくして。
桐生は一人、端末に目を落としていた。
報告書。戦闘記録。
影浦 棗の監視報告。
オブスキュリテの通信疑惑。
白瀬 結衣の負傷状況。
四条 麗奈の戦闘記録。
ゲオルギアス撤退後の防御機構への影響。
どれも、軽いものではない。
どれも、後回しにすれば次の判断が遅れる。
竜王グラシャラボラスは撤退した。しかし、消えたわけではない。
ゲオルギアスも、侵略組織も、まだシティの外側と内側に影を落としている。
魔法少女局は、今この瞬間も次の危機に備えなければならなかった。
桐生は画面を切り替える。
オブスキュリテ運用計画。その文字が、端末に表示される。
監視レベル引き上げ。表監視役の継続。
影浦 棗による裏監視。情報開示範囲の制限。装備内発信機の継続運用。
通信機の即時回収は行わず、接続波長の特定を優先。
桐生は、その項目を一つずつ確認していく。
冷たい計画だ。渡会にそう言われたばかりだった。
実際、その通りだと思う。
だが、温かいだけの計画ではシティは守れない。
そう考えて、桐生が次の資料を開こうとした時だった。会議室の扉が開いた。
「桐生」
低い声。桐生は顔を上げる。
入ってきたのは、上条だった。
魔法少女局の上層部において、最終判断を担う男の一人。
局長、上条 宗一郎。
年齢は五十代半ば。
背筋は伸びているが、今日の疲労は隠しきれていない。
目元には深い皺があり、顎にはわずかな無精髭が浮いていた。
局長室で報告を受け続け、現場判断の承認を出し、行政側との調整にも追われていたはずだ。
それでも、その目はまだ冷静だった。疲れていても、鈍ってはいない。
「上条局長」
桐生は姿勢を正す。
上条は片手で制した。
「形式はいい」
短い言葉だった。
それだけで、この場が報告のための場ではなく、判断のための場だと分かる。
上条は会議室へ入り、モニターに映ったオブスキュリテの戦闘記録へ目を向けた。
そこには、竜の前に立つ黒い拘束衣の少女が映っていた。赤い雷をまとい、麗奈を庇う背中。
傷だらけの体。裂けた拘束衣。全身に走る赫塵。
その前方には複数の竜。背後には、動けずにいる麗奈。
上条はしばらく黙っていた。映像を止めたまま、何も言わない。
桐生もまた、口を挟まなかった。
やがて、上条が静かに問う。
「赤羽 祈は、戦力になると思うか」
桐生は即答しなかった。
戦力になるか。その問いだけなら、答えは明白だった。
なる。
赤雷による魔力阻害。
対魔法戦闘における圧倒的優位性。
味方の防御術式を補助し、敵の魔力制御を乱し、飛行型の竜種を落とす。
ゲオルギアス侵攻時も、彼女の赫塵がなければ、各防衛線はもっと早く崩れていた。
病院区画や避難施設への被害も、さらに広がっていた可能性が高い。
白瀬 結衣が竜王とあそこまで交戦できたのも、オブスキュリテの支援があったからだ。
戦力としての価値は、疑いようがない。
だが、問題はそこではない。
「何とも言えませんね」
桐生は慎重に答えた。
「戦力になるのは間違いないでしょう。ですが、安定した戦力として扱えるかは別問題です」
上条はモニターを見たまま頷く。
「どちらにも揺れている、か」
「ええ」
桐生は答えた。
「彼女はまだ、局側に立ったわけではありません。かといって、完全に組織側へ戻ると決めてもいない」
オブスキュリテはシティを守った。
四条 麗奈を庇った。白瀬 結衣を支援した。
竜王に結衣の名を答え、その魔力核を欲しがられた時には怒りを見せた。
それらは記録に残っている。
だが一方で、組織との通信を続けている。
外部接触の痕跡もある。
カフェの店員を通じて通信装置を受け取った可能性も高い。
逃亡の機会を捨てていない可能性もある。
彼女は揺れている。
赤羽 祈とオブスキュリテの間で。
親友と組織の間で。
帰る場所と、壊すべき場所の間で。
被害者だった過去と、加害者として選んだ現在の間で。
上条は低く息を吐いた。
「ここまで有能だとはな」
その声音には、感心よりも苦さがあった。
「二年前、我々の落ち度を見せつけられたな」
桐生は何も言わなかった。
二年前。ライブ襲撃。四条 瑠香の死。赤羽 祈への世間の集中砲火。
局は彼女を守れなかった。
守るべき魔法少女を。まだ十代の少女を。
魔法少女であろうとしていた少女を。
世間の怒りが分かりやすい標的を求めた時、局はそれを止めきれなかった。
事件の調査。被害者対応。
防御機構の不作動原因の究明。行政への説明。メディア対応。
やるべきことは多かった。
だが、それは言い訳にしかならない。
赤羽 祈は、その渦の中心に一人で立たされた。
学校で責められ。家でも追い詰められ。父は姿を消し。母も限界だった。
その時、局が本当に彼女を守るべきだった。
せめて、責任を彼女一人に押しつけないと、明確に示すべきだった。
できなかった。
その結果が、今のオブスキュリテだ。
上条はモニターの映像を見つめる。
「当時、彼女の魔法は扱いづらいと評価されていた」
静かに言う。
「味方にも干渉し、連携に不向き。魔力量は高いが、運用には注意が必要。そういう報告だった」
「はい」
「だが、敵に回った途端、これほど厄介な力になる」
上条の声は苦い。
「我々は、彼女の危険性も、有用性も、どちらも見誤っていたのかもしれん」
「二年前の時点で、今の運用を想定するのは困難だったと思います」
桐生は言った。
擁護ではない。事実として。
「当時の赤羽 祈は新人魔法少女です。戦闘経験も限られていました。赫塵の応用も、現在ほど洗練されていなかった」
「それでも、種はあった」
上条は言う。
「あの子は、伸びる余地のある魔法少女だった」
桐生は黙った。
上条は続ける。
「四条 瑠香が生きていれば。白瀬結衣と共に育っていれば。局が守れていれば。今頃、こちら側の切り札になっていたかもしれない」
仮定。桐生なら、そう切り捨てる言葉だった。
だが、上条の口から出たその仮定には、責任者としての悔恨が滲んでいた。
赤羽 祈は、最初から敵だったわけではない。
魔法少女になろうとしていた。誰かを守る側に立とうとしていた。
その可能性を、局は失った。
いや、失わせた。
「局長」
桐生は静かに言う。
「過去の検証は必要です。ですが、今の判断とは切り分けるべきです」
「分かっている」
上条は即答した。
「悔やんで済むなら、私はいくらでも悔やむ。だが、それでシティは守れない」
その声は低かった。自分自身に言い聞かせているようでもあった。
上条は、モニターから目を離した。画面にはまだ、オブスキュリテの戦闘記録が停止表示されている。
上条は、その映像を数秒見つめた後、静かに言った。
「……例の接見」
そして、桐生を見る。
「やるべきか」
桐生は、わずかに眉を動かした。
例の接見。
その言葉だけで、何を指しているかは分かった。
以前から、局の内部で検討されていた策。
オブスキュリテに、まだ守るべきものがあると認識させるため。
帰る場所が完全に失われたわけではないと示すため。
あるいは。
彼女の中に残る情を引き出すため。
温情。そして、作戦。
その二つが、切り離せないまま絡み合っている。
資料上は、接見措置と記されていた。
収監対象者の精神状態安定。協力姿勢の維持。
社会復帰可能性の検証。監視下における限定的接触。
いかにも事務的な言葉が並んでいる。
だが、その実態はもっと生々しい。
赤羽 祈という名を、オブスキュリテの奥から引きずり出すための試みだった。
「あちらからも要望は来ています」
桐生は言った。
「悪くはないかと」
上条は視線だけで先を促す。
「リスクは」
「あります」
即答だった。
桐生は曖昧にしなかった。
「接見によって彼女が情緒的に不安定になる可能性があります。怒り、拒絶、暴発、沈黙。いずれもあり得ます」
桐生は端末を操作し、資料を呼び出す。
オブスキュリテの精神状態評価。
白瀬 結衣への反応。四条 麗奈への反応。
四条 瑠香に関する言及。収監中の会話ログ。
戦闘後の行動変化。
それらが画面に並ぶ。
「逆に、その反応を組織側に利用される可能性もあります。彼女が接見内容を通信で伝えれば、組織はそこを突いてくるでしょう」
「弱点になる、ということか」
「はい」
桐生は答える。
「守るべきものは、同時に狙われるものにもなります」
上条は黙って聞いていた。
桐生の声は冷静だった。
だが、その冷静さの裏には、この判断の嫌らしさを理解している重さがあった。
「ですが」
桐生は続ける。
「このまま彼女をオブスキュリテとしてだけ扱い続ければ、赤羽 祈の部分はますます閉じていくでしょう」
上条の目が、わずかに細くなる。
「赤羽 祈の部分、か」
「はい」
桐生は頷いた。
「彼女は自分をオブスキュリテと呼ぶよう求めています。赤羽 祈ではないと、繰り返し訂正している。こちらがその名だけを扱えば、彼女はそれに合わせてさらに硬化します」
「だが、本名で呼べば反発する」
「ええ」
「面倒だな」
「人間ですので」
その返答に、上条はわずかに息を漏らした。苦笑にも似ていた。
桐生は続ける。
「今日の戦闘で、彼女は白瀬隊員と四条隊員に対して、明確な反応を示しました。完全な演技と断じるには無理があります」
モニターには、結衣を支援するオブスキュリテの映像が映る。
次に、麗奈の襟首を掴んで制止する場面。
さらに、竜たちの前に立つ場面。
「彼女の中に、まだ繋がる糸は残っています」
桐生は言った。
「細く、歪んでいて、本人も認めようとしていない。ですが、存在はしています」
「その糸を、こちらへ結び直す」
「可能であれば」
「不可能なら?」
「反応を見るだけでも意味があります」
桐生は即答した。
「接見によって彼女が何を拒み、何に動揺し、何を守ろうとするか。それは今後の運用判断に影響します」
「つまり、温情であり、観測でもある」
「はい」
桐生は否定しなかった。上条は腕を組む。
会議室には、短い沈黙が落ちた。
接見。
その言葉だけなら、救いのように聞こえる。
閉じ込められた少女に、会いたい相手と会う機会を与える。
失われたと思っていた繋がりを、もう一度見せる。孤立した心に、まだ戻る場所があると伝える。
それだけなら、優しい措置だった。
だが、局がそれを行う理由は一つではない。
赤羽 祈を揺らすため。オブスキュリテを縛るため。
組織ではなく、こちら側へ心を傾けさせるため。
彼女の中で最も柔らかく、最も痛い場所に触れる。
桐生は、それを分かっていた。
そして、分かった上で提案している。
「これで守るべきものと帰る場所があると認識してくれればいいのですが」
桐生は言った。
その声は、普段より少しだけ低い。
「彼女が、自分は完全に一人ではないと認識すれば、組織へ戻る以外の選択肢が生まれます」
「情を引き出すわけか」
上条の声は冷静だった。
桐生は目を伏せずに答える。
「はい」
「酷なやり方だ」
「承知しています」
「接見する側にも負担がかかる」
「そのため、精神面のケア担当を同席可能な位置に配置します。直接介入は最小限にしますが、終了後のフォローは必要です」
「オブスキュリテが暴発した場合は」
「魔力制限は維持します。腕輪は解除しません。影浦隊員を裏監視に配置します」
「白瀬隊員は使うな」
上条が言った。
桐生はすぐに頷く。
「はい。白瀬隊員は治療中です。精神的負荷も大きい。今回の接見には関与させません」
「四条隊員もだ」
「同意見です。彼女は今日の戦闘で揺れています。監視役として復帰させるとしても、接見には近づけない方がよいでしょう」
上条は数秒、考える。
「接見対象には、危険性を説明する」
「もちろんです」
「利用するためだけに呼ぶな」
その言葉に、桐生はわずかに沈黙した。
上条の声は厳しかった。
「接見対象も人間だ。赤羽 祈を動かすための道具としてだけ扱えば、また同じ間違いをする」
「承知しました」
桐生は静かに答えた。
「事前に説明し、同意を取ります。接見を拒否するなら、強制はしません」
「それでいい」
上条は短く息を吐いた。迷いはない。
だが、重さはある。
「ならば、やるべきだな」
静かな決定だった。迷いがないからこそ、重い判断だった。
情を使う。
だが、情を踏みにじらないようにする。
その境界線は、細い。
少しでも扱いを誤れば、オブスキュリテはさらに閉じる。
接見対象を傷つける。局への不信も深まる。
それでも、やる。
何もしなければ、彼女はオブスキュリテのまま固まっていく。
組織との繋がりだけを保ち、こちらには利害以上のものを残さない。
それを避けるには、彼女の中に残る赤羽祈へ触れるしかない。
「対応を進めてくれ」
「了解しました」
桐生は頭を下げる。
「接見対象の確認、警備体制、精神面のケア担当、監視役の配置を調整します。そして、必要な段階まで、情報は制限します」
上条は桐生を見た。その目には、責める色はない。
ただ、自分と同じ種類の重荷を背負う者を見る目だった。
「嫌な役回りだな」
「渡会さんにも、同じようなことを言われました」
「だろうな」
上条は小さく笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「だが、やらねばならない」
「はい」
桐生は頷く。
「やらねばなりません」
上条は踵を返す。扉へ向かう前に、一度だけ足を止めた。
「桐生」
「はい」
「赤羽 祈を利用するな、とは言わん」
上条は背中を向けたまま言う。
「だが、利用していることを忘れるな」
桐生は、わずかに目を伏せた。
「肝に銘じます」
「ならいい」
上条は会議室を出ていった。扉が閉まる。
桐生は一人、残された。
モニターには、オブスキュリテの映像が残っている。
黒い拘束衣。赤い雷。四条 麗奈を庇う背中。
そして、資料の隅に表示された名前。
赤羽 祈。
桐生は、その名前をしばらく見つめた。
例の接見を行う。
帰る場所を思い出させる。
情を引き出す。守るべきものを突きつける。
それが救いなのか。
それとも、別の鎖なのか。
答えは出ない。
だが、判断は下された。
「……対応を進める」
桐生は端末を操作し、関係部署へ指示を送る。
接見準備。
その短い一文が、冷たい業務連絡として送信されていった。




