影
魔法少女局、幹部会議室。
ゲオルギアス撤退から数時間。シティはまだ、慌ただしいままだった。
負傷者の治療。被害区域の確認。
防御機構の再点検。後詰め部隊による警戒。
避難施設の安全確認。破損した結界装置の仮復旧。
局の職員たちは、誰一人としてまともに休めていない。
廊下には今も足音が響いている。通信室では、現場とのやり取りが途切れない。救護区画では、魔法少女たちの治療が続いている。
それでも、幹部たちは集められていた。疲労を理由に後回しにできる案件ではなかった。
理由は一つ。オブスキュリテ。
会議室の空気は重かった。
円形に配置された机。壁一面のモニター。
被害状況を示す地図。竜種の撤退確認を示す報告書。
その中に、別の資料が並んでいる。
オブスキュリテの行動記録。外出中の監視報告。
カフェでの接触記録。局内トイレ付近で確認された微弱な異界波長。
そのすべてが、一つの結論へ繋がっていた。
彼女は、まだ組織と繋がっている。
会議室の中央には、一人の少女が立っていた。
影浦 棗。
黒髪を肩口で切りそろえた、無表情な少女だった。年齢は、結衣や麗奈たちとそう変わらない。魔法少女の制服を着ている。
だが、前線に立つ者特有の鋭い闘気はなかった。気配が薄い。そこにいるのに、いないように見える。
目立つわけではない。声を張るわけでもない。胸を張るわけでもない。ただ、静かに立っている。
その目にも、声にも、感情の起伏はほとんどなかった。
彼女は机を囲む幹部たちの前で、淡々と報告していた。
「会話の詳細な内容は聞き取れませんでした」
棗は言う。
「使用された通信機には、異界波長を利用した暗号処理が施されていたものと思われます。音声の取得は断片的で、意味のある会話内容として復元することは困難です」
幹部の一人が、眉間に皺を寄せる。
「断片的、というのは」
「固有名詞の一部。笑い声。接続ノイズ。あとは、赤羽 祈の声の抑揚程度です」
「相手の声は」
「明確には判別できません」
棗は即答した。
「ただし、接続元の波長は、過去に確認された侵略組織側の通信痕跡と類似しています」
会議室の空気が、さらに重くなる。
棗は表情を変えずに続けた。
「以上のことから、赤羽 祈が組織との繋がりをいまだ保持しているのは確実です」
赤羽 祈。
その名を使った瞬間、会議室の何人かがわずかに反応した。
オブスキュリテ。
彼女自身は、そう名乗っている。その名以外を認めようとしない。
だが、会議資料上の本名は赤羽 祈だった。
かつて魔法少女だった少女。
四条 瑠香の死後、世間から責められ、姿を消した少女。
二年後、侵略組織側の幹部として戻ってきた少女。
そして今日、シティ防衛に協力した少女。
その評価は、今や一枚岩ではなかった。
「……やはり、切れてはいなかったか」
幹部の一人が低く呟いた。
「当たり前だ。あの女が簡単にこちらへ転ぶはずがない」
「しかし、今日の戦闘では確かに貢献した」
「貢献と信用は別だ」
「分かっている。だが、赫塵がなければ被害はもっと大きかった」
「だからこそ厄介なのだ」
小さなざわめきが生まれる。感情的な非難ではない。疲労と現実を抱えた議論だった。
オブスキュリテは危険だ。それは全員が分かっている。
だが、今日の戦闘で、彼女の運用価値も明確になった。
赤雷は竜種に有効だった。
魔力操作を乱し、飛行を阻害し、防衛線を支えた。
竜王グラシャラボラスとの戦闘においても、白瀬 結衣を支援し続けた。
危険だから閉じ込める。それが最も簡単な判断だった。
だが、次の侵攻が来た時。その判断で、シティを守れるのか。
誰もすぐには答えられない。
桐生 聡は表情を変えなかった。
幹部たちのやり取りを聞きながら、端末に視線を落としている。
そこには、棗から提出された監視ログが表示されていた。
桐生は短く頷いた。
「ご苦労だった」
静かな声だった。
「ただし」
桐生は端末から目を上げる。
「相手が組織側の人間である可能性が高い以上、通常の聞き込みは避ける。下手に刺激すれば逃げられる。あるいは、店そのものが消される」
「承知しています」
「影浦君。君は引き続き、周辺監視へ回れるか」
「可能です」
即答だった。疲れていないはずがない。
彼女もまた、大規模侵攻の中で動き続けていた。
オブスキュリテを監視し、局内へ戻ってからも影に潜み、通信の痕跡を追った。
それでも、棗の声に揺らぎはなかった。
桐生は数秒、彼女を見る。
「無理はするな」
「任務に支障はありません」
「そういう意味ではない」
棗は少しだけ首を傾げた。表情は変わらない。
桐生はそれ以上言わなかった。
影浦 棗。
彼女は、表向きの監視役ではない。
白瀬 結衣と四条 麗奈が、オブスキュリテのそばに立つ表の監視役だとすれば。棗は、裏の監視役だった。
真の監視役。
オブスキュリテには、当然ながら表の監視がつけられている。
制御腕輪。行動制限。同行者。通信管理。
だが、彼女がそれだけで収まる相手でないことも、局は理解していた。
赤羽 祈は、元魔法少女だ。
局の基本的な監視手順も、施設構造も、魔力封じの弱点もある程度知っている。
加えて、侵略組織で二年を過ごしている。
逃亡。接触。暗号通信。心理操作。情報撹乱。
何を仕掛けてくるか分からない。
だからこそ、表の監視とは別に、影が必要だった。
棗の魔法は、影に潜むもの。戦闘能力は、ほぼゼロに等しい。魔法少女として前線で異形と戦えば、長くは持たない。
火力もない。防御力もない。身体強化も得意ではない。竜の群れ相手に立てるような力はない。
結衣のように殴れない。
麗奈のように剣術と属性術式を組み合わせることもできない。
瑠璃姫のように派手な広域魔法を撃てるわけでもない。
だが、彼女には彼女にしかできないことがあった。
諜報。
影に入り込み、気配を消し、対象の行動を観察する。
足元に落ちた影。机の下の暗がり。扉の隙間の黒。瓦礫の陰。人の背後に伸びる影。
そこに潜む。
音を拾い、映像を記録し、気づかれることなく情報を持ち帰る。
それが、棗の役目だった。
オブスキュリテがカフェで不審な接触をした時も。看板娘を名乗る相馬 茜から折り紙を受け取った時も。トイレで小型通信機を使用した時も。
棗は近くの影に潜んでいた。
完全に聞き取れたわけではない。
魔力通信には暗号処理が施されている。音声も、外へ漏れたものは断片的だった。
端末自体も、魔力反応を抑える偽装が施されていた。
それでも、外部通信が行われたことは分かった。
通信波長が局のものではないことも。異界由来の技術が使われていることも。
カフェで接触した相馬茜が、それに関与している可能性が高いことも。
そして、その相手が組織側である可能性も、極めて高い。
会議室のモニターに、相馬 茜の画像が表示された。
カフェの店員。金髪。日焼けした肌。明るい笑顔。
いかにも目立つ外見。
しかし、調べれば調べるほど不自然だった。
「相馬 茜という人物は、現時点では店の従業員名簿に存在します」
職員の一人が報告する。
「ただし、登録は少し前。身元保証書類は一応揃っていますが、照会中です。経歴に不審点があります」
「偽装か」
「可能性は高いです」
幹部の一人が、苦々しく言った。
「局の関係者が出入りする可能性のある店に、組織側が潜り込んでいたわけか」
「しかも、オブスキュリテとの接触に利用された」
「店自体は協力者なのか?」
「不明です。現時点では、店主や他の従業員が関与している証拠はありません」
桐生は短く言う。
「店には手を荒らげるな。一般人が巻き込まれている可能性がある。調査は慎重に行え」
「了解しました」
渡会 源二は、机の端で黙っていた。いつもの軽口はない。
カップのコーヒーにも手をつけず、モニターに映る相馬 茜の画像をじっと見ている。
やがて、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、向こうも手を伸ばしてきたかい」
桐生が渡会を見る。
「予想はしていたのですか」
「そりゃあ、まあの」
渡会は苦い顔で笑った。
「オブスキュリテ君を外へ出すということは、こちらが彼女を利用するというだけでは済まん。向こうから見れば、彼女と接触する機会が生まれるということでもある」
「分かっていて進めたのか」
幹部の一人が低く言った。責める響きがあった。
渡会は否定しなかった。
「分かってはいたよ」
「なら、なぜ――」
「それでも必要だったからだよ」
渡会の声は静かだった。
「今日、彼女がいなければ、被害はもっと出ていたでしょう」
誰も、すぐには言い返せなかった。
それは事実だった。桐生も否定しない。
「問題は、今後だ」
桐生が言う。
「オブスキュリテの利用価値は上がった。同時に、危険度も上がった」
モニターには、赤雷による竜種撃墜記録が表示される。
次に、通信反応のログ。
功績と危険。
同じ人物の資料が、矛盾する二つの評価を示していた。
「彼女は我々に協力した」
桐生は言う。
「だが、組織との繋がりは断っていない。逃亡の機会も完全には捨てていないだろう」
「やはり」
幹部の一人が、苦々しく口を開いた。
「外に出したのは間違いだったのではないか」
その声に、会議室の空気がさらに重くなる。誰もすぐには否定しなかった。
疲労の滲む顔。机の上に並ぶ報告書。壁面モニターに表示された戦闘記録。被害区域を示す赤い表示。
ゲオルギアスの大規模侵攻は、ひとまず退けた。
だが、その勝利の直後に、局は別の火種を抱えていることを突きつけられていた。
オブスキュリテ。
彼女は、今日の戦闘でシティ防衛に貢献した。
それは事実だ。
しかし同時に、侵略組織との繋がりを断っていないことも発覚した。
それもまた、事実だった。
別の幹部が頷く。
「組織と繋がっている者を、戦力として前線に出すなど危険すぎる。今日の侵攻で逃亡されていた可能性もあった」
「竜王との交戦中に裏切られていれば、白瀬隊員たちは死んでいた」
「それだけではない。赤雷による広域支援を逆手に取られれば、防衛線そのものが崩壊していたかもしれん」
「今からでも再収監し、外部接触を完全に断つべきだ」
声が重なる。どれも正論だった。オブスキュリテは危険だ。
彼女は過去に局を襲撃した。シティを壊そうとした。
多数の魔法少女を再起不能寸前まで追い込んだ。
魔法少女局を混乱に陥れた。
そして今なお、侵略組織との繋がりを断っていない。信用できる要素など、本来なら何一つない。
今日協力したからといって、過去が消えるわけではない。
竜を落としたからといって、裏切らない保証にはならない。
白瀬 結衣を支援したからといって、明日も同じ選択をするとは限らない。
幹部たちの警戒は、感情論ではなかった。むしろ、組織を守る立場としては当然だった。
だが、そこで棗が静かに口を開いた。
「ただ」
小さな声だった。けれど、会議室の全員がそちらを見た。
棗は、表情を変えずに立っている。幹部たちの険しい視線を受けても、声色は変わらない。
「赤羽 祈は、四条 麗奈の危機を救いました」
机の上の端末に、戦闘記録の一部が表示される。乱れた映像。
竜の前脚に踏みつけられるオブスキュリテ。
道路へ叩きつけられ、動きを封じられながらも、指先から赤雷を流し込む姿。
赫塵が竜の脚を痺れさせ、その一瞬で体をねじって脱出する姿。
映像が切り替わる。
複数の竜に囲まれた戦場。瓦礫の中で動けない結衣。剣を握ったまま、恐怖で足を止めている麗奈。
その前へ、傷だらけのオブスキュリテが立つ。
赤雷を全身に帯電させ、竜たちへ向かって笑っている。
――次は、どいつが落とされたいのかしら。
音声は荒い。
だが、その言葉は辛うじて拾えていた。
会議室の空気が、わずかに変わる。
棗は続けた。
「竜王との戦闘中、四条 麗奈へ助言を行っています」
別の映像が表示される。
麗奈が前へ飛び出そうとした瞬間、オブスキュリテが襟首を掴んで止める。
正面から割って入るな。あの二人の間に入れば死ぬ。死角から、横から、後ろから、上から、下から。処理しなければならない情報を増やせ。
記録音声は断片的だったが、その意味は明確だった。
オブスキュリテは麗奈を制止し、役割を与えた。無謀な突撃を止め、戦場における位置を示した。
その結果、麗奈の四晶剣はグラシャラボラスの処理能力を一瞬奪い、結衣の攻撃へ繋がった。
「その後も、庇い立てるような行動を見せました」
棗の声には主観がない。感情もない。擁護ではない。非難でもない。
ただ、記録された事実を述べているだけだった。
彼女は、オブスキュリテの敵ではない。
味方でもない。同情もしていない。憎悪もしていない。
観測者。
命じられたものを見て、記録し、報告する。それだけの存在だった。
だからこそ、その言葉は無視しづらかった。
幹部の一人が腕を組む。
「それが何だ。信頼を得るための行動かもしれない」
「可能性はあります」
棗は即答した。
「四条 麗奈と白瀬 結衣の信頼を得ることは、赤羽 祈にとって利益になり得ます」
「ならば――」
「ですが」
棗は淡々と続ける。
「あの場面において、四条 麗奈を庇うことは、赤羽 祈自身の生存確率を下げる行動でもありました」
会議室が静まる。
棗は端末を操作した。
竜たちの位置。結衣の戦闘不能状態。オブスキュリテの負傷状況。
麗奈の位置。ブレス予備動作の魔力反応。
それらがモニターに重ねて表示される。
「この時点で、白瀬 結衣は即時戦闘復帰が困難。四条 麗奈は恐怖による行動停止。赤羽 祈本人も、胸部、肩、背部に損傷。魔力消耗も大きい状態でした」
淡々とした声が、数字と状況を読み上げる。
「その状態で、複数の竜の前へ出ています」
「威嚇のためだろう」
「はい」
棗は頷く。
「威嚇です。実際に、その威嚇により竜たちは一瞬停止しています」
「なら、戦術的行動ではないか」
「その通りです」
棗は否定しなかった。
「ですが、その戦術的行動は、自身を盾にする位置取りを伴っています」
幹部は口を閉じた。
戦術。演技。信頼獲得。いくらでも説明はできる。
だが、映像の中のオブスキュリテは、確かに麗奈の前に立っている。逃げ道を塞ぐように。ブレスの射線を受けるように。
渡会が、椅子の背にもたれながら目を細めた。
「良いように捉えるなら」
彼はゆっくりと言った。
「彼女もまた、揺れているということかねぇ」
その言葉に、何人かの幹部が顔をしかめる。
「甘い見方です」
一人が即座に反論した。
「怪しまれないための行動である可能性もあります。四条隊員や白瀬隊員の信頼を得るため、あえて庇ったとも考えられる」
「そうじゃな」
渡会は否定しなかった。
「彼女は賢い。自分の運用価値を上げるために、そう振る舞った可能性はある」
「なら――」
「それでも」
渡会は、戦闘映像を見つめたまま言う。
「危機的状況で、その行動を取れるかねぇ」
幹部の言葉が止まる。
渡会は続ける。
「あの場面は、演技を選ぶ余裕のある場面ではなかった。竜に囲まれ、白瀬君は戦闘不能。四条君は動けない。自分も消耗している」
画面の中で、オブスキュリテが一歩前へ出る。傷だらけの体で。それでも、麗奈の前に。
「人の本性が出る局面でだよ」
渡会は低く息を吐いた。
「彼女は前に出た」
会議室は静まり返った。誰も、すぐには反論しない。
完全な信用はできない。
それは全員が分かっている。
組織と繋がっている。通信機を隠し持っている。逃亡の機会を探っている可能性もある。
シティへの憎しみも消えていない。
だが。
完全な演技と断じるにも無理がある。
あの状況で、己の消耗を押してまで麗奈の前に立った。
結衣を防御術式で支え続けた。
竜王に結衣の名を尋ねられ、魔力核を欲しがられた時、怒りを見せた。
そのすべてを計算だけだと言い切るには、映像の中の彼女はあまりにも必死だった。
それが今のオブスキュリテだった。
危険。有用。不確定。
敵でも味方でもなく、その境界で揺れている存在。
桐生聡は、しばらく黙っていた。それから、低く言う。
「影浦君」
「はい」
「君の所見は」
棗は少しだけ目を伏せた。感情を探すような間ではない。
記録を整理するための間だった。
「赤羽 祈は、組織との繋がりを保持しています。魔法少女局への忠誠は確認できません。逃亡および裏切りの危険は継続しています」
幹部たちが黙って聞く。
棗は続けた。
「一方で、白瀬 結衣および四条 麗奈に対して、戦術的合理性を超えた反応を示す場面が複数確認されました」
「戦術的合理性を超えた反応?」
「はい」
棗はモニターを見た。
「特に、四条 麗奈を庇った場面。および、竜王が白瀬 結衣の魔力核を欲した際の反応です」
映像はない。
だが、その場にいた者の記録は残っている。
「これらは、完全な作為である可能性を否定できません。ですが、即時的な感情反応である可能性も高いと判断します」
「つまり」
桐生が問う。
「彼女は揺れている、と?」
「判断不能です」
棗は淡々と答えた。
「ただし、揺れているように見える行動は確認されています」
渡会が小さく笑った。
「棗君らしい答えじゃのう」
「事実のみです」
「それでいい」
桐生は短く言った。
「我々に必要なのは、願望ではなく事実だ」
願望。その言葉に、会議室の空気がわずかに締まる。
オブスキュリテがこちらへ戻ってくるかもしれない。そんな希望を持つ者もいる。
逆に、必ず裏切るに違いないと断じる者もいる。
どちらも、まだ願望にすぎない。
現時点であるのは、矛盾した事実だけだった。
桐生が口を開いた。
「どの道、オブスキュリテが組織と繋がりを持つのは想定内だ」
その言葉に、何人かの幹部が眉をひそめた。
想定内。その響きは、会議室の空気をわずかに変えた。
驚き。不快感。警戒。
それらが、沈黙の中に混じる。
「想定内、ですか」
幹部の一人が低く問い返した。
「ああ」
桐生は短く答える。声に揺らぎはない。彼は端末を操作した。
壁面モニターの表示が切り替わる。
そこに映し出されたのは、オブスキュリテの現在の管理装備一覧だった。
拘束腕輪。魔力制限装置。
位置情報端末。外出時の簡易監視タグ。
拘束衣の補修履歴。
そして、いくつかの小物。
髪留め。留め具。拘束衣の金具。
外出時に支給された予備装具。
一見すれば、どれも取るに足らない付属品にしか見えない。
「彼女がこのまま減刑のために働くなら、それはそれでいい」
桐生は淡々と言う。
「貴重な戦力だ。今回の戦闘でも、それは証明された」
誰も否定しなかった。
赤雷がなければ、防衛線はもっと早く突破されていた。
飛行竜は上空を越え、避難施設や病院区画に迫っていたかもしれない。
魔法少女たちの損耗も、さらに大きくなっていただろう。
白瀬結衣が竜王と戦い続けられたのも、オブスキュリテの防御術式があってこそだった。
危険であることと、有用であること。
その二つは矛盾しない。
むしろ、危険な力だからこそ、有用だった。
「一方で」
桐生は続ける。
「彼女が組織へ逃れるなら、それも情報になる」
「情報?」
別の幹部が聞き返した。
「組織の拠点の時空座標だ」
会議室の空気が、明らかに変わった。
それまでの不信や警戒とは違う。より鋭い、戦略的な緊張。
桐生は、画面に表示された小物の一つを指し示した。
それは、黒い拘束衣の留め具に見える部品だった。
何の変哲もない。
外部から見れば、ただの固定具にしか見えない。
魔力封じの腕輪ほど目立たず、位置情報端末ほど分かりやすくもない。
「オブスキュリテが身に着けている小物のいくつかには、発信機が取り付けられている」
幹部たちが息を呑む。
桐生は表情を変えない。
「通常空間での位置情報だけではない。ゲート通過時の時空歪曲値も記録する特殊型だ」
モニターに、発信機の構造図が表示される。
薄い板状の核。魔力反応を極限まで抑えた記録媒体。
外部干渉を受けた際の歪曲波形を蓄積する回路。
それは、魔法少女局の諜報技術部が極秘に開発した追跡装置だった。
正確な座標を常時送信するものではない。
ゲート越しの通信は不安定で、遮断される可能性も高い。
だが、ゲートを通過した瞬間の干渉値を記録できれば、逆算の材料になる。
どの方向へ空間が折り畳まれたのか。どの波長の異界層を通過したのか。
転移先が通常空間なのか、亜空間なのか。
そして、拠点がどの時空座標帯に存在するのか。
完全ではない。
だが、手がかりにはなる。
「仮に彼女が組織側へ逃げた場合でも、通過したゲートの干渉値から、向こうの拠点座標を割り出せる可能性がある」
幹部の一人が、思わず息を呑んだ。
「つまり、泳がせていると」
「そうです」
桐生は頷いた。
「オブスキュリテが組織と接触しようとする可能性は、最初から織り込んでいます」
「だが、接触されればこちらの情報が漏れる危険がある」
「漏れる前提で情報を制限します」
桐生は即座に答えた。
「彼女に与える作戦情報は、必要最小限。部隊全体の配置、防御機構の中枢情報、結界基盤の詳細、上層部の判断資料は渡しません」
「それでも、現場で見たものは伝わる」
「その通り」
桐生は否定しない。
「だからこそ、彼女が見ても構わない範囲を管理する。隠す情報と、あえて見せる情報を分ける」
会議室に、さらに重い沈黙が落ちた。
ただ利用するのではない。ただ監視するのでもない。裏切る可能性まで含めて、盤面に置く。
桐生聡の判断は、徹底していた。
「こちらには時間がない」
桐生は言った。
「組織はシティ内に常駐し、防御機構の中枢すら狙ってきた。ライブ会場の防衛機構を抜かれ、局の対応も後手に回った。受け身でいる限り、いつか致命的に遅れる」
その声は冷たい。
だが、焦りはない。感情を削ぎ落とした現実認識だけがあった。
「オブスキュリテがこちらに残るなら、戦力として使う。逃げるなら、組織の尻尾を掴む」
桐生は会議室を見回した。
「どちらに転んでも、局には利がある」
その言葉に、幹部たちはすぐには反応しなかった。
合理的だ。確かに合理的だった。
だが、その合理性はあまりにも冷たい。
オブスキュリテを信用していない。
彼女の更生を待つわけでもない。
戻ってくることを信じているわけでもない。
ただ、彼女の選択をすべて利用する。
協力も。裏切りも。逃亡も。感情も。未練も。
すべてを、局の利益に変える。
「……ずいぶんと冷たい判断だねぇ」
渡会 源二が言った。机の端で、椅子に深く座ったまま、桐生を見ている。
その声には非難だけでなく、どこか疲れた響きもあった。
桐生は否定しなかった。
「そうですね」
一拍置く。
「だが、次にシティが落ちれば、冷たいも温かいもありません」
その言葉に、誰も返せなかった。
シティが落ちる。その言葉の重さを、この場にいる全員が理解している。
今日の侵攻で、十分すぎるほど見た。
竜の群れ。破壊される街路。
避難誘導の遅れ。防衛線の後退。
病院周辺に迫る飛行竜。
竜王グラシャラボラスの圧倒的な存在感。
あれが次に来た時。もし防ぎきれなければ。
会議室で理念を語る余裕など消える。
正しいかどうかではない。生き残れるかどうか。
桐生は、その一点だけを見ている。
「私は彼女を信じていない」
桐生は静かに言った。
「だが、彼女の力は必要だ」
その声に迷いはない。
「信じないまま使う。裏切る前提で備える。逃げるなら追う。戻るなら利用する」
幹部の一人が苦々しく顔を歪めた。
「それは、人間に対する扱いではない」
「彼女は、我々にとって危険戦力だ」
桐生は答えた。
「感情で扱えば、こちらが呑まれます」
渡会が小さく目を伏せる。何か言いたげだった。
だが、言わなかった。
桐生は棗へ視線を戻す。
「影浦君」
「はい」
「ご苦労だった。だが、引き続き頼む」
「了解しました」
棗は、感情の薄い声で答えた。
「監視対象、赤羽 祈。引き続き行動記録を継続します」
「必要であれば距離を取れ。彼女の赫塵は、影の中の魔力にも干渉する可能性がある」
「承知しています」
棗は短く返した。
自分が危険な任務についていることも。対象がただの囚人ではないことも。
赤羽 祈が、本気になれば影の中に潜む自分にさえ干渉し得ることも。
すべて理解している。
それでも、表情は変わらない。恐怖も、使命感も、誇りも、外には出ない。
ただ、任務として受け取る。
「通信機の所在については、引き続き特定を試みます」
棗は淡々と言った。
「ただし、即時回収は行わない方針でよろしいでしょうか」
「ああ」
桐生は頷く。
「泳がせる。ただし、次に通信した時は、可能な限り接続波長を記録してくれ」
「了解しました」
「相馬 茜については別班が洗う。君はオブスキュリテ本体の監視を優先しろ」
「はい」
「では、下がれ」
「失礼します」
棗は一礼した。その動作にも、余計な感情はなかった。踵を返し、会議室の扉へ向かう。
扉が開く。外の廊下から、職員たちの慌ただしい足音と通信音が流れ込んできた。棗はその中へ静かに消えていく。
扉が閉まった。会議室には、再び重い空気が残る。会議はそこで一度区切られた。
幹部たちは一人、また一人と立ち上がる。誰も軽口を言わない。
資料をまとめる音。椅子を引く音。端末を閉じる音。それだけが、静かな室内に響いた。
モニターの明かりが落とされる。会議室には薄い静けさが戻る。
だが、空気は軽くならなかった。
ゲオルギアスの撤退。オブスキュリテの組織との接触。
影浦 棗による監視報告。彼女の装備に仕込まれた発信機。
そして、彼女を泳がせるという判断。
どれも、簡単に飲み込める話ではなかった。




