カーマイン
オブスキュリテは、ホールを離れ、廊下を進んでいた。
魔法少女局の中は、まだ慌ただしい。
負傷者の搬送。戦闘記録の確認。
ゲオルギアス撤退後の警戒態勢。
破損した結界装置の修復指示。
現場に残っている魔法少女たちとの通信。
職員たちは休む暇もなく動き回っていた。
そんな中、オブスキュリテは一人、女子トイレへ入った。
白い照明。洗面台。壁一面の鏡。
閉じられた個室。換気扇の低い音。
外の慌ただしさが、ここでは少しだけ遠い。
ホールには負傷者の声も、職員の足音も、通信端末の呼び出し音もあった。
廊下にも、救護班や警備員が行き交っている。
だが、この空間だけは妙に静かだった。
オブスキュリテは扉の前で、数秒だけ立ち止まる。
耳を澄ませた。気配はない。水音もない。足音もない。
個室の中で息を潜めている者の気配もない。
念のため、鏡越しに室内を確認する。
洗面台の下。個室の隙間。換気口。天井の角。
監視カメラは、当然この中にはない。
魔法少女局でも、最低限の線引きはあるらしい。
もっとも、外の廊下には監視がいる。
長く籠れば不審に思われる。
麗奈も、いつまでも戻らなければ確認しに来るだろう。猶予は長くない。
オブスキュリテは一番奥の個室へ入った。
扉を閉める。鍵をかける。
かちり、という小さな音が、狭い個室の中でやけに大きく聞こえた。
彼女はもう一度だけ息を殺す。
外に足音はない。誰も入ってこない。
そう判断してから、拘束衣の内側へ指を入れた。
拘束衣の縫い目。ほつれた布の内側。血と埃で汚れた生地の奥。
そこに、薄い金属片のようなものが押し込んであった。
オブスキュリテは、それを指先で引き抜く。
小型通信装置。
指先ほどの大きさしかない、黒い端末だった。
見た目はただの金属片に見える。
魔力反応も極限まで抑えられている。
局の簡易検査をすり抜けるため、表面には破損した拘束具の部品に似せた偽装加工が施されていた。
今のオブスキュリテは、両手首に魔力封じの腕輪を嵌められている。
魔力は使えない。赫塵も流せない。
だが、この装置は魔力ではなく、微弱な異界波長で起動する。
親指の爪で端末の端を押し込む。小さく、端末が震えた。
短いノイズ。耳障りな砂嵐のような音が、端末の奥で鳴る。
オブスキュリテは、反射的に眉をひそめた。
音が大きい。
いや、実際にはほとんど聞こえないほど小さい。
だが、今の彼女にはそれさえ響くように感じられた。
数秒後。小さな接続音がした。
オブスキュリテは端末を口元へ近づける。
「もしもし」
声を抑えて言った。
「私よ」
数秒、沈黙があった。接続が不安定なのか。
あるいは、向こうが回線を確認しているのか。
オブスキュリテは壁に背を預け、目を細める。
その間にも、胸の奥が鈍く痛んだ。
竜に踏みつけられた痛み。尾に弾かれた痛み。
結衣を庇い続けた反動。
麗奈の問いで掘り返された、もっと別の痛み。
全部が、体の内側に残っている。
だからこそ、ここで連絡する必要があった。
魔法少女局に完全に取り込まれるわけにはいかない。
オブスキュリテは、まだオブスキュリテだ。
赤羽 祈ではない。魔法少女ではない。
そう、自分に言い聞かせるように。
やがて。
『やっほー、オブちゃん。お疲れー』
明るい声が響いた。あまりにも場違いなほど、軽い声だった。
緊張もない。焦りもない。
潜入回線を使っているという自覚すらなさそうな、能天気な響き。
オブスキュリテは眉をひそめた。
「もう少し声を抑えて頂戴、カーマイン」
『おけおけ、りょーかい』
通信の向こうで、カーマインはまったく悪びれた様子もなく笑った。
その笑い声が、端末越しに小さく跳ねる。
『いやー、でも繋がってよかった。オブちゃん、なかなか連絡くれないんだもん。こっちはずっと待ってたんだよ?』
「監視下にいるのよ。好きな時に連絡できるわけがないでしょう」
『知ってる知ってる。でも、寂しいじゃん』
「寂しいで通信回線を開かないで」
『開いたのはオブちゃんじゃん』
「そういう意味ではないわ」
オブスキュリテは小さく息を吐いた。
相変わらずだった。こちらの緊張を、勝手に踏み荒らしてくる。
それでいて、決して鈍いわけではない。
カーマインは軽い。笑う。茶化す。ふざける。
すべてを冗談のように扱う。
けれど、その軽さの裏にある執着を、オブスキュリテは知っている。
彼女は笑いながら、人を壊せる。
笑いながら、命令を破れる。
笑いながら、本気で飛び込む。
そういう女だった。
『それにしても、今日はヤバかったねー』
カーマインが、少し声を弾ませる。
『竜王だよ、竜王。あんなの来るなんて聞いてないし。オブちゃん、よく生きてたね』
「ええ。生きているわ」
『見てたよ。踏まれてたね』
カーマインは、けろりと言った。
『私、もう少しで飛び込むところだったもん』
オブスキュリテの目が細くなる。
「そうならなくてよかったわ」
低く言った。
「余計に面倒なことになっていたもの」
『えー、助けに行ったら感動の再会だったと思うけど?』
「局内であなたまで暴れたら、私の制限がさらに増えるだけよ」
『それは困るねー』
「困る、で済む話ではないわ」
オブスキュリテは端末を握る指に力を込めた。
「あなたが現れれば、魔法少女局は私と組織の繋がりを確信する。監視は強化される。外出許可は消える。下手をすれば、私は再び監獄区画へ戻される」
『でも、オブちゃんが死んだら意味ないじゃん』
軽い声。
だが、その一言だけ、ほんの少し温度が違った。
オブスキュリテは黙る。
『私、オブちゃんがぺしゃんこにされた時、ちょっと本気で焦ったんだよ』
「ちょっと?」
『かなり』
「なら最初からそう言いなさい」
『いやー、でも言ったら重いかなって』
「あなたに重さを気にする感性があったのね」
『ひどくない?』
カーマインは笑った。
けれど、その笑いは先ほどより少しだけ薄い。
『まあでも、あの竜王。面白かったね』
「面白いで済ませられる相手ではなかったわ」
『それはそう。あれ、今の私たちが正面からやり合う相手じゃないねー。オブちゃんが赤雷入れて、白い子が殴って、横からちっちゃい子が斬って、それでようやく一回倒れたくらいでしょ?』
オブスキュリテは眉を寄せる。
「……そこまで見ていたの」
『見てたよ』
あっさりと、カーマインは言った。
『ずっとじゃないけどね。途中から。魔法少女局の映像じゃなくて、こっちの観測網で。竜のゲートが派手すぎて、だいぶ拾えた』
「趣味の悪い覗き見ね」
『オブちゃんも私たちのこと覗き見してるじゃん』
「私は報告を受けているだけよ」
『同じ同じ』
「違うわ」
オブスキュリテは短く返した。
だが、内心では情報の価値を計算していた。
カーマインが見ていた。
組織側にも、この戦闘の一部は把握されている。
つまり、グラシャラボラスの戦闘能力。
赫塵が竜王に及ぼす影響。
白瀬 結衣の成長。
四条 麗奈の四晶剣。
それらが向こうにも伝わっている可能性がある。
厄介だ。同時に、利用もできる。
「そちらはどう動いていたの」
『んー?』
「今日の侵攻中よ。ゲオルギアスの大規模侵攻があった。あなたたちが何もしていなかったとは思えない」
『お、さすがオブちゃん。疑り深い』
「答えなさい」
『軽く観測と回収かな。竜の魔力片とか、壊れたゲートの残滓とか。あと、魔法少女局の防衛反応もちょっとだけ』
「局に手を出したの?」
『直接は出してないよ。オブちゃんが困るでしょ?』
「信用できないわね」
『ひどーい。ちゃんと我慢したのに』
その声は、ふざけている。
だが、オブスキュリテには分かった。
カーマインにとって「我慢した」は、おそらく本当だ。
飛び込まなかった。暴れなかった。自分を助けに来なかった。
組織の命令なのか。本人の判断なのか。
それとも、誰かに止められたのか。
いずれにせよ、カーマインがあの場に現れなかったことは幸運だった。
現れていれば、すべてが崩れていた。
魔法少女局との一時的な協力関係も。
オブスキュリテの外出権も。
結衣たちとの微妙な均衡も。
全部。
「それにしても」
オブスキュリテは、端末を口元に近づけたまま声を低くした。
「私としては、あなたがあのカフェに潜入していたことの方が驚いたのだけれど」
数秒の間。
そして、通信の向こうから、あっけらかんとした声が返ってきた。
『どうもー。看板娘の相馬 茜でっす』
場違いなほど明るい声だった。
オブスキュリテは目を細める。
『よかったでしょ? 明るくて、かわいくて、接客上手で。常連のおじいちゃんたちにも人気なんだよ?』
「どこがよ」
オブスキュリテは即座に吐き捨てた。
「私の砂糖の数を把握しているし、警報にもまったく動じていないし。怪しいったらないわよ」
『えー、そこは有能な店員ポイントじゃない?』
「違うわ」
『お客さんの好みを覚えるのは接客業の基本だよ』
「あなた、初対面の客に対して把握が早すぎるのよ」
『記憶力がいいんだよ』
「嘘をつくなら、もう少しまともにつきなさい」
『ははは、細かいことはなしだよ』
「細かくないわ」
オブスキュリテは、思わず額に指を当てた。今日だけで何度疲れればいいのか。
初めてあのカフェでカーマインを見た時、オブスキュリテは本当に驚いた。
相馬 茜。
そう名乗っていた女。
金髪。日焼けした肌。明るすぎる声。人懐っこい笑顔。
店の落ち着いた雰囲気には、正直なところあまり合っていなかった。
それなのに、常連らしい客たちは彼女に普通に話しかけていた。
店主も特に疑う様子はなく、彼女は自然に店内へ溶け込んでいた。
どれほど前から潜り込んでいたのか。
オブスキュリテには分からない。
だが、少なくとも一日二日の潜入ではない。
彼女はあの店の人間として、すでに居場所を作っていた。
その正体が、組織のカーマインだと気づいた瞬間。
表情を崩さずにいるのは、少し苦労した。よりによって、こんな場所に。
魔法少女局の関係者が出入りする可能性のあるカフェに。
監視付きの自分が連れてこられるかもしれない場所に。
カーマインが、看板娘の顔をして立っていた。
冗談にしては悪質だった。
そして、あの時渡された折り紙。
看板娘からのプレゼントだと、軽い調子で手渡されたもの。小さな、赤い鳥の形をしていた。
その時のカーマインは、相馬 茜の顔で笑っていた。
――かわいいでしょ? おまけだよ。
そんなふざけた声で。監視役の目の前で。
オブスキュリテは、それを何でもないように受け取った。
ただの折り紙。子供じみた飾り。そう見えるように。
だが、指先が紙の裏側に触れた時、微かな違和感があった。
折り目の内側。普通なら目に入らない場所に、小さく文字が書かれていた。
――トイレ。貯水タンクの中。
たったそれだけ。
オブスキュリテは、その場では反応しなかった。
そして、隙を見てカフェのトイレへ入った。
貯水タンクの蓋を開ける。内側に、防水処理された薄い袋が貼りつけられていた。
その中に、この小型通信機が隠されていた。指先ほどの黒い端末。
局の検査をすり抜けるために、破損部品に偽装された通信装置。
それ以来、オブスキュリテは隙を見て組織と通話している。
短く。必要最低限に。局に悟られないように。
魔法少女局の監視下で。
魔力封じの腕輪を嵌められたまま。
それでも、自分がまだ完全には切り離されていないことを確認するように。
『でもさ』
カーマインの声が、少しだけ近くなった。先ほどまでの軽さは残っている。
だが、音の奥に、何かを探るような響きが混じる。
『よかったの、オブちゃん』
「何が」
『今回の侵攻なんて、逃げ出すチャンスだったでしょ』
オブスキュリテは黙った。
狭い個室の中で、換気扇の音だけが低く響く。
『竜がいっぱい来て、局もバタバタしてて、腕輪も戦闘用に制限解除されてた。結衣ちゃんたちは竜王で手いっぱい。監視も混乱。あの状況なら、やろうと思えば逃げられたんじゃない?』
「……」
『少なくとも、私に合図をくれれば拾えたよ』
カーマインは軽く言う。
けれど、そこには本気があった。
『ゲートのノイズに紛れて、回収ルートも作れた。竜の影に紛れて脱出することもできた。局の目は外に向いてたし、シティ全域が戦場だった。逃げるなら、今日以上のタイミングはなかなかないと思うんだけどなー』
オブスキュリテは、端末を握る手に力を込める。
分かっている。
そんなことは、自分でも分かっていた。
あの混乱。竜の群れ。管制室の混線。
戦闘用に一時解除された魔力制限。
グラシャラボラスの出現で、全員の意識がそちらへ向いた瞬間。
逃げるだけなら、機会はあった。
少なくとも、完全に不可能ではなかった。
もし、あの場で結衣を見捨てていれば。
麗奈を見捨てていれば。
シティの防衛線が崩れることを気にしなければ。
自分だけ外へ抜け出す可能性はあった。
『ねえ、オブちゃん』
カーマインは言う。
『なんで逃げなかったの?』
静かな問いだった。
ふざけているようで、核心だけは外さない。
オブスキュリテは、数秒黙った。そして、個室の壁へ背を預ける。
冷たい壁が、背中の傷に触れて鈍く痛む。
「何度も言ったでしょ」
声を低くして言う。
「私は作戦の要なの」
『うんうん』
「私がいなくなれば、シティは大きな打撃を受ける」
『そうだねー』
「赤雷の支援が消えれば、飛行竜の処理は遅れる。防衛線は崩れる。病院も避難施設も危険に晒される」
『うん。実際、途中で赤雷止まっただけでかなり危なかったもんね』
「ええ」
オブスキュリテは、目を細める。
管制室からの通信を思い出す。
赤雷が来ない。竜が落ちない。防衛線が後退する。
結衣を守るために広域支援を切った瞬間、シティ全域の戦況は悪化した。
それだけ、赫塵は効いていた。
自分は、この戦場において必要な駒だった。
「でも、私は滅んだシティに興味はない」
その声が、わずかに冷たくなる。
カーマインは黙った。
オブスキュリテは続ける。
「竜に焼かれた街。ゲオルギアスに踏み潰されたシティ。知らない侵略者に奪われた結末。そんなものに興味はないわ」
息を吸う。胸が痛む。
それでも言う。
「私は、このシティがただ壊れればいいと思っているわけじゃない」
『……』
「私自身が、このシティを破壊したいの」
沈黙。
通信の向こうで、カーマインはしばらく何も言わなかった。珍しい沈黙だった。
いつもなら、すぐに軽口を返す。茶化す。からかう。
オブちゃんこわーい、くらいは言う。
けれど今は、何も言わない。
オブスキュリテは、端末を握ったまま目を伏せた。
「私の憎しみを、どこの誰とも知れない竜に横取りされる筋合いはない」
声はさらに低くなる。
「この街は、私を壊した。赤羽 祈を殺した。なら、その代償は私が払わせる。ゲオルギアスでも、竜王でも、魔法少女局でもない」
狭い個室に、彼女の声だけが落ちる。
「私がやるの」
それは誓いのようでもあった。言い訳のようでもあった。
あるいは、自分自身へ向けた確認だった。
今日、自分は結衣を守った。麗奈を庇った。シティの防衛に力を貸した。
その事実を、別の言葉で塗り潰すための。
私は守ったのではない。
奪われたくなかっただけ。
そう言い聞かせるための。
通信の向こうで、ようやくカーマインが小さく笑った。
『とか言って』
通信の向こうで、カーマインがからかうように言った。
「何」
オブスキュリテの声は低い。
これ以上、余計なことを言うな。そう警告する響きがあった。
だが、カーマインは気にしない。
『実は、昔の友達に情が湧いたりしてー?』
軽い声だった。いつものように、笑いながら踏み込んでくる声。
オブスキュリテは、即座に言い返そうとした。
馬鹿を言うな。あり得ない。そんなものはない。
そう吐き捨てるはずだった。
けれど、その前に。
結衣の顔が浮かんだ。血だらけで、それでも前へ出た結衣。
竜王の拳を受け、吹き飛ばされ、膝を震わせながらも構えを解かなかった少女。
サポートお願い、と言った声。
祈、と呼んだ声。
すぐに言い直した、オブスキュリテ、という声。
信じてる、と迷いなく言った顔。
次に浮かんだのは、麗奈だった。
恐怖で震えながらも、剣を構えた少女。
無力だと突きつけられて、それでも無駄ではないと信じようとした少女。
自分に礼を言った、四条 瑠香の妹。
あの時、竜のブレスを前に動けなくなっていた少女。
その前に、自分は立った。
一瞬だった。ほんの一瞬。
けれど、その一瞬が不快だった。
自分の中に、まだそんなものが残っているかもしれないと思ったことが。
カーマインにそれを見透かされたような気がしたことが。
ひどく、不快だった。
「馬鹿言わないで」
オブスキュリテは吐き捨てた。
「私には、友達なんていないわ」
言葉にしてから、胸の奥が少しだけ軋んだ。
それを無視する。そんな痛みなど、存在しない。
あるとしても、負傷のせいだ。
竜に踏まれ、尾に弾かれ、何度も術式を酷使したせいで、体の感覚がおかしくなっているだけだ。
『そんなー』
カーマインの声が、大げさに沈む。
芝居がかった、分かりやすすぎる落胆の声だった。
『私は友達でしょ、オブちゃん』
「違うと言っているでしょ」
『えー、ひどーい。あんなに一緒に遊んだのに』
「遊んでないわ。任務よ」
『敵拠点に忍び込んで、警備をごまかして、追手を振り切って、最後に屋上でお弁当食べたじゃん』
「任務の待機時間よ」
『夜の街で情報屋を追いかけ回した時も楽しかったよね』
「あなたが余計な挑発をしたせいで、予定より三倍手間が増えた任務ね」
『でも最後はうまくいったし』
「過程が最悪だったのよ」
『オブちゃん、そういうのってツンデレっていうんだよ』
「……」
オブスキュリテは一瞬、無言になった。
通信の向こうで、カーマインが得意げに続ける。
『スト様が教えてくれた』
「余計なことを教えるのね、あの人は」
オブスキュリテは額に手を当てた。頭痛がする。
竜王との戦いよりも、この女との会話の方が精神に悪い気がした。
「はいはい。もう切るわよ。あまり長いと怪しまれる」
『はいはーい』
カーマインの声は、最後まで軽かった。
『じゃあまたね、オブちゃん』
「ええ」
『無茶しすぎないでね』
その言葉だけ、ほんの少し声の調子が違った気がした。
からかいでもない。芝居がかった軽さでもない。
ほんのわずかに、本音が混じったような声。
オブスキュリテは答えなかった。
答えれば、また何かを認めることになる気がした。
短いノイズ。通話が切れる。
小さな端末は、ただの金属片のように沈黙した。
狭い個室の中に、換気扇の音だけが戻ってくる。
オブスキュリテは、しばらくその通信機を見つめていた。
黒い端末。組織との繋がり。逃げ道。鎖。
そして、カーマインの声。
友達。
その言葉が、胸の奥に残っている。思い浮かぶのは、誰なのか。
白瀬 結衣か。
カーマインか。
それとも、もういない赤羽 祈が、かつて友達だと思っていたすべてなのか。
候補生時代の結衣。並んで練習した日々。
誰にも理解されない魔法を抱えて、二人だけで笑った時間。
組織に入ってからのカーマイン。
ふざけた軽口。任務中の悪ふざけ。
こちらの境界線を、何度も勝手に跨いでくる声。
どちらも、認めたくない。
どちらにも、名前を与えたくない。
友達。
そんな甘い言葉で括れば、何かが戻ってきてしまう。
赤羽 祈が、まだ生きているみたいになる。
「くだらない」
オブスキュリテは吐き捨てた。
通信機を再び拘束衣の内側へ隠す。
布の縫い目の奥。検査に引っかかりにくい位置。
指先で端末を押し込み、外から見えないように整える。
それから、個室の鍵を開けた。かちり、と音がする。
扉を押し開け、洗面台の前に立つ。鏡があった。
そこに映る自分を、オブスキュリテはしばらく見た。
黒い拘束衣を着た女。
ところどころ裂け、包帯を巻かれ、額にガーゼを貼られた姿。
両手首には魔力封じの腕輪。戦場で竜を落とした赤雷は、今は使えない。
元魔法少女。元親友。
侵略者。囚人。協力者。
赤羽 祈。
オブスキュリテ。
いくつもの名前が貼りついた、どれにもなりきれない顔。
鏡の中の女は、疲れた目をしていた。
怒っているようにも見える。
泣きそうに見える気もした。
それが腹立たしくて、オブスキュリテは視線を落とす。
蛇口をひねった。水が流れる。
冷たい水が、指先を叩いた。
赤雷を放ち続けた指。防御術式を編み続けた指。
結衣の呼吸を確かめた指。通信機を握っていた指。
そのすべてを洗い流すように、オブスキュリテは手を擦った。
けれど、何も落ちない。
血の汚れはもう救護班が拭っていた。
埃も、泥も、だいたい落ちている。
それでも、指先には何かが残っている気がした。
結衣の弱い呼吸。麗奈の震え。カーマインの軽い声。友達という言葉。
全部が、水では落ちない。
「……くだらない」
もう一度、呟く。
鏡の中の自分から目を逸らすように、彼女は顔を上げなかった。
水音だけが、静かに響いている。
その時。
足元の影が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
光の加減ではない。換気扇の風でもない。誰かが扉を開けたわけでもない。
床に落ちたオブスキュリテの影。その端が、わずかに膨らむように歪んだ。
まるで、水面に指を触れた時の波紋のように。
黒い影の奥で、さらに濃い何かが瞬いた。
誰かが、そこにいた。
あるいは。
そこから、見ていた。
だが、オブスキュリテは気づかなかった。
彼女は水に触れていた。
冷たさに意識を向け、鏡の中の自分から目を逸らし、胸の奥に残った言葉を押し潰すことに必死だった。
足元の影は、もう一度だけ小さく揺れる。
そして、何事もなかったように静まった。
水音だけが、静かに響いていた。




