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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
2章

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答え



 数時間後。


 ゲオルギアスの大規模侵攻は、ひとまず終息した。


 竜王グラシャラボラスの撤退命令により、上空に開いていたゲートは閉じた。

 残っていた竜たちも姿を消し、シティを覆っていた異界の魔力反応は急速に薄れていった。


 もちろん、すべてが終わったわけではない。


 破壊された道路。崩れた建物。

 損傷した防衛砲台。ひび割れた避難施設の外周結界。

 そして、犠牲者。


 後詰めの魔法少女たちは、まだ各所の警戒と復旧支援に残っている。

 救助班は瓦礫の下に取り残された者がいないか確認し、結界班は再侵入に備えて応急の結界を張り直していた。


 だが、最前線で戦っていた魔法少女たちの多くは、魔法少女局へ戻っていた。


 局内のホールは、普段とはまるで違う空気に包まれていた。


 そこは本来、任務前の集合や簡易説明、候補生たちの待機に使われる場所だった。

 明るい照明。磨かれた床。壁に掲げられた魔法少女局の標章。


 いつもなら、訓練を終えた少女たちの声や、職員の慌ただしい足音が響く程度の場所。


 今は違う。

 負傷者の応急処置をする救護班。

 端末を片手に通信報告を続ける職員。

 戦闘記録を提出する魔法少女。

 床に座り込んで、水を飲む者。

 壁にもたれたまま、目を閉じて動かない者。


 誰かの泣き声が聞こえる。

 訓練生だった。初めて大規模侵攻に巻き込まれたのだろう。

 膝を抱え、震える声で「怖かった」と繰り返している。


 その隣では、年上の魔法少女が彼女の背中を撫でていた。

 自分の腕にも包帯を巻いているのに、まるで大丈夫だと言い聞かせるように笑っている。


 勝った。


 少なくとも、シティは守られた。


 竜王は撤退した。大規模ゲートは閉じた。

 避難施設も、病院も、中心区画も落ちなかった。


 けれど、その代償として、誰もが疲れ切っていた。

 勝利の歓声などなかった。

 あるのは、倒れ込むような安堵と、まだ終わっていない後処理の重さだけだった。


 ホールの壁際に、オブスキュリテはいた。

 壁に背を預け、目を閉じている。


 黒い拘束衣は、ところどころ裂けていた。

 竜の尾に弾き飛ばされた時に擦れた肩。踏みつけられた際に負荷がかかった胸元。瓦礫で切った腕。


 そのすべてに、応急処置の包帯が巻かれている。

 額にも薄いガーゼが貼られていた。


 両手首には、再び魔力封じの腕輪が嵌められていた。

 戦闘時に一時解除されていた制限は、すでに戻されている。

 赫塵は使えない。防御術式も編めない。

 今の彼女は、ただの傷ついた少女に見えた。


 だが、ホールにいる者たちは、そうは見なかった。


 視線が向く。

 恐怖。警戒。不信。好奇。そして、戸惑い。


 今日、オブスキュリテの赤雷がなければ、竜の侵攻はもっと大きな被害を出していた。

 結衣が竜王と戦えたのも、彼女の防御術式があったからだ。

 麗奈が今ここに立っているのも、最後に彼女が前へ出たからだった。


 それでも、彼女がかつてシティを壊そうとした敵である事実は消えない。


 感謝すればいいのか。憎めばいいのか。警戒すればいいのか。

 誰も、簡単には答えを出せない。


 オブスキュリテは、そうした視線に気づいているはずだった。

 だが、目を閉じたまま動かない。


 疲れているのか。無視しているのか。

 あるいは、視線を受けることに慣れすぎているのか。


 そのそばには、四条 麗奈が立っていた。

 少し離れた場所で。監視するように。


 オブスキュリテが壁際に座り込んでいる以上、逃げ出す様子はない。

 腕輪も嵌められている。

 周囲には職員もいる。


 それでも、麗奈はそこを離れなかった。

 自分は監視役なのだから。そう言い聞かせていた。

 けれど、先ほどまでとは違う。

 ただ睨むだけではなくなっていた。


 以前なら、もっと簡単だった。

 オブスキュリテを見るたびに、胸の奥で怒りを燃やせばよかった。


 姉を死なせた女。

 シティを壊そうとした侵略者。

 結衣先輩を苦しめた親友の成れの果て。


 そう思えばよかった。憎めばよかった。警戒すればよかった。

 それだけなら、どれほど楽だっただろう。


 結衣はまだ治療中だった。

 竜王グラシャラボラスとの戦闘で、全身に強い衝撃を受けている。

 肋骨にも損傷があり、脚の筋繊維も限界まで痛めていたらしい。

 意識は戻っていると聞いた。命に別状はないとも。

 その報告を聞いた時、麗奈はその場に座り込みそうになるほど安堵した。


 だが、しばらく治療室からは出られないだろう。

 本人は起き上がろうとしたらしいが、救護班に全力で止められたと聞いた。


 だから今、麗奈はオブスキュリテと二人でいた。

 二人でいる。そう意識した瞬間、胃の奥が重くなる。


 気まずかった。とても。

 何を話せばいいのか分からない。


 何も話さなければいい。

 監視役なのだから、黙って見張っていればいい。

 必要以上に関わる必要はない。

 そう思うのに、沈黙がやけに重い。


 麗奈は、壁にもたれて目を閉じているオブスキュリテを横目で見た。

 顔色は悪い。唇の色も薄い。

 呼吸は浅く、時折、痛みを堪えるように眉がわずかに動く。


 その姿を見ると、嫌でも思い出す。


 竜たちに囲まれた時。自分は動けなかった。

 恐怖で足が竦んだ。剣を握っているのに、何もできなかった。

 結衣先輩は瓦礫の中で動けず、周囲の竜たちは一斉にブレスを放とうとしていた。


 その前に、彼女は立った。

 オブスキュリテが。


 傷だらけで。ふらつきながら。

 立っているだけで限界のはずなのに。

 それでも、赤雷をまとって。


 ――次は、どいつが落とされたいのかしら。


 あの声。あの背中。

 それが、脳裏から離れない。


 麗奈は唇を噛んだ。

 助けられた。その事実が、重かった。


 相手がただの味方なら、ありがとうと言えばよかった。

 相手がただの敵なら、なぜ助けたのかと責めればよかった。


 けれど、オブスキュリテはそのどちらでもない。


 自分にとって、憎むべき相手だった。

 姉の死に繋がる事件の中心にいた人だった。

 シティを滅ぼそうとした人だった。


 なのに、あの瞬間。

 彼女は自分の前に立った。瑠香の妹である自分の前に。


 麗奈は拳を握る。

 聞きたいことがある。

 どうして庇ったのか。なぜ、自分だったのか。


 姉の妹だからか。

 ただ戦術上、必要だったからか。


 それとも。


 そこまで考えて、麗奈は首を振った。

 聞きたくもなかった。

 答えを知ってしまえば、自分の中の何かが変わってしまいそうだったから。


 憎しみが揺らぐ。怒りが薄まる。

 そうなれば、姉に申し訳ない気がした。


 姉は死んだ。もう帰ってこない。

 その原因に関わった人間を、自分が少しでも理解してしまうことが怖かった。


 けれど。


 理解しないまま憎み続けるには、自分は今日、見すぎてしまった。

 オブスキュリテが結衣を守るために防御術式を張り続けたところを。

 自分に「無力でも無駄ではない」と言ったことを。

 竜の前に立ったことを。

 瓦礫の中の結衣の呼吸を確認して、ほんの少しだけ安堵したことを。


 全部、見てしまった。なかったことにはできない。


 麗奈は決意して、口を開こうとした。

 どうして、自分を庇ったのか。その問いを、今度こそ言葉にしようとした。


 だが、その瞬間だった。


「おーっほっほっほっほ!」


 ホールに、高らかな笑い声が響き渡った。

 ざわついていた空気が、一瞬だけ止まる。


 救護班の職員が顔を上げる。

 床に座り込んでいた訓練生が、涙目のまま入口を見る。

 報告書を書いていた魔法少女の手が止まる。


 麗奈の肩が、びくりと跳ねた。

 オブスキュリテも、目を閉じたまま眉をひそめる。


 誰かなど、確認するまでもなかった。

 こんな状況で、こんな声量で、こんな笑い方をする人間は一人しかいない。


 天上院 瑠璃姫だった。


 彼女はホールの入口から、堂々と歩いてきた。

 衣装のあちこちは汚れている。

 白を基調とした華やかな戦闘衣装には、煤と泥が跳ねていた。

 袖の端は少し焦げ、スカートの裾にも細かな裂け目がある。

 整えられていた髪も、さすがに少し乱れていた。


 だが、負傷した様子はない。

 いや、細かな擦り傷くらいはあるのかもしれない。

 それでも本人の態度だけは、まったく衰えていなかった。

 胸を張り、顎を上げ、扇子を片手に、まるで凱旋でもしているかのような足取り。


「この天上院 瑠璃姫にかかれば、竜など取るに足りませんわ!」


 ホール中に響く声で、瑠璃姫は宣言した。


「さすがです、姫」


 隣を歩く柊 凛が、笑いながら拍手する。

 ただし、その顔には明らかな疲労が滲んでいた。

 前髪は汗で額に張りつき、肩はわずかに下がっている。笑ってはいるが、足取りは少し重い。


「ボクはもう結構しんどいです」


「私も」


 百乃瀬 彩奈が、だるそうに肩を回した。

 彼女の衣装も泥と煤に汚れており、片腕には簡単な包帯が巻かれている。重傷ではない。

 だが、無傷でもない。

 それでも、彩奈はいつもの調子で口を尖らせた。


「特別戦功報酬、弾んでもらわないとね」


「彩奈さん」


 瑠璃姫が、扇子をぱちんと開く。


「そういう俗な話を戦いの直後にするものではありませんわ」


「姫ちゃんも今、自分の戦功を自慢してたじゃん」


「それは誇るべき偉業ですもの」


「便利な区別だねー」


 彩奈が呆れたように笑う。

 凛も苦笑した。


「まあ、姫は最後まで元気でしたからね」


「当然ですわ。天上院の名を背負う者として、竜の群れ程度に弱音など吐けませんもの」


 三人の会話は、いつもの調子だった。

 さっきまでホールに漂っていた疲労と緊張を、強引に引き裂くような騒がしさ。

 何人かの魔法少女が、思わず笑っていた。


 泣いていた訓練生も、ぽかんとした顔で瑠璃姫を見る。

 彼女を慰めていた年上の魔法少女が、小さく息を吐いた。

 呆れたような。少しだけ救われたような。

 そんな表情だった。


 麗奈も、一瞬だけ毒気を抜かれていた。

 さっきまで、どうして庇ったのかと問い詰めようとしていたのに。

 胸の奥で固めていた覚悟が、あの高笑いで粉々に揺らされた気分だった。


 オブスキュリテは、壁にもたれたまま目を閉じている。

 だが、その眉間の皺は深くなっていた。


「……騒がしい」


 小さく呟く。その声には、苛立ちよりも疲労が滲んでいた。

 瑠璃姫はそこで、壁際のオブスキュリテに気づいた。


「あら」


 扇子を広げる。彼女の目が、きらりと光った。


「赤羽さん。白瀬さんはどちらに?」


 麗奈の胸が、少しだけ強張る。


 赤羽。


 その呼び方に、オブスキュリテが反応すると思った。


 案の定、オブスキュリテは薄く目を開けた。

 赤羽ではない。オブスキュリテよ。

 いつものように訂正しようとしたのだろう。唇がわずかに動く。

 だが、言葉は出なかった。


 オブスキュリテは一拍置いてから、目を半分だけ閉じ直した。

 訂正するのを、やめた。単純に疲れていた。

 天上院 瑠璃姫相手に毎回訂正しても、どうせ通じない。

 いや、通じないというより、彼女は彼女の中の納得で呼び続ける。


 それを学習してしまう程度には、今日の戦闘で消耗していた。


「治療中よ」


 短く答える。

 瑠璃姫は、なぜか高らかに笑った。


「おーっほっほっほ! なるほど! それに比べて、全然余裕なわたくし!」


「姫も結構ボロボロだけどね」


 凛が小声で突っ込む。


「むしろ今すぐ座った方がいいと思うよ。足、ちょっと震えてるし」


「震えてなどいませんわ。これは勝利の余韻ですわ」


「便利な余韻だなあ」


 彩奈が肩をすくめた。

 瑠璃姫は構わず、胸を張る。


「やはり、真のエースはわたくしこそが――」


「結衣先輩は」


 麗奈が思わず口を挟んだ。自分でも、声が少し強くなったのが分かった。

 瑠璃姫の自慢が癇に障ったわけではない。

 いや、少しは障った。

 だが、それ以上に、結衣の戦いを軽く扱われたくなかった。


 竜王の拳を受け。血を吐き。それでも前へ出続けた結衣。

 その姿を、麗奈は見ている。

 だから、黙っていられなかった。


「結衣先輩は、竜王と戦闘して、撃退したんです」


 ホールの空気が、わずかに変わった。

 瑠璃姫の動きが止まる。


「む」


 扇子の向こうで、目が細くなる。


「竜王ですと?」


「はい」


 麗奈はまっすぐ答えた。


「竜王グラシャラボラスです。結衣先輩は、オブスキュリテと私と一緒に、竜王を足止めして……最後には撤退させました」


 瑠璃姫の表情から、先ほどまでの得意げな色が少し薄れた。

 凛と彩奈も顔を見合わせる。


「竜王って、あの上空の大反応の?」


 凛が声を落とす。


「うわ、それはさすがにきついね」


 彩奈も、珍しく茶化さない声だった。

 瑠璃姫は、しばらく黙っていた。それから、ぐっと拳を握る。


「……なるほど」


 低く言う。


「わたくしが相手をしていれば――」


「姫ちゃん」


 彩奈がすぐに遮った。


「たられば言っても仕方ないでしょー」


「むむ」


 瑠璃姫は唇を尖らせる。


「ですが、竜王ですわよ。竜王。そんな大物と戦えたなんて、白瀬さんだけずるいですわ」


「ずるいって言い方はどうかと思うけど」


 凛が苦笑する。


「たぶん結衣さんも好きで当たったわけじゃないし」


「それは分かっていますわ」


 瑠璃姫は扇子を閉じた。ぱちん、と乾いた音が鳴る。


「ですが、強敵を前にして退かなかった。それは誇るべきことですわ」


 その声は、先ほどまでとは少し違っていた。

 派手で、自信過剰で、相変わらず尊大。けれど、そこに軽んじる響きはなかった。


 麗奈は少しだけ目を見開く。

 瑠璃姫は麗奈へ向き直った。


「では、白瀬さんにはご自愛くださいとお伝えください」


「……はい」


「それから」


 瑠璃姫は、もう一度胸を張る。


「次に竜王が現れた時は、この天上院 瑠璃姫も堂々と参戦すると!」


 高らかに宣言した。


「伝えなくてもいいと思うけど」


 凛が笑う。


「伝えてくださいまし!」


「結衣さん、治療中に聞いたら疲れそう」


「むしろ元気が出ますわ」


「出るかなあ」


 彩奈が首を傾げる。


「まあ、姫ちゃんがこう言ってたって聞いたら、苦笑いくらいはしてくれるかもね」


「ならば十分ですわ」


 瑠璃姫は満足げに頷く。

 麗奈は、少しだけ肩の力を抜いた。


 騒がしい。とても騒がしい。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 重すぎる空気が、少しだけ動いた気がした。


 瑠璃姫は踵を返し、再び堂々と歩き出す。


「さあ、凛さん、彩奈さん。次は報告ですわ。わたくしの華麗なる戦闘記録を、余すことなく提出いたしますわよ」


「盛らないようにね」


「盛りませんわ。事実がすでに華麗ですもの」


「便利な事実だねー」


 三人はそのまま去っていこうとする。

 その途中で、彩奈がふと足を止めた。オブスキュリテと麗奈へ、軽く手を振る。


「ごめんねー。姫ちゃん、悪い子じゃないんだ」


 凛も苦笑しながら続けた。


「ただちょっとばかり、自己肯定感が高すぎるんだよ」


「ちょっと、ですの?」


 遠くから瑠璃姫の声が飛ぶ。


「かなり?」


 彩奈が言う。


「桁違い?」


 凛も続ける。


「聞こえていますわよ!」


 瑠璃姫が振り返って抗議する。

 そのやり取りに、近くにいた魔法少女が小さく笑った。

 オブスキュリテは目を閉じ直す。


「知っているわよ」


 疲れた声だった。


「あなたたちも、さっさと行きなさい」


「はいはい」


「お疲れさまー」


 凛と彩奈は、瑠璃姫を追っていった。

 高笑い。軽口。足音。

 それらが少しずつ遠ざかっていく。


 ホールは再び、戦闘後のざわめきに戻った。


 救護班の声。通信端末の音。

 負傷者の吐息。水を飲む音。


 けれど、さっきまでとは少し違う。

 張り詰めきっていた空気に、ほんのわずかな隙間ができていた。

 麗奈は、しばらく瑠璃姫たちの去った方を見ていた。


「……嵐みたいな人ですね」


「嵐の方がまだ静かよ」


 オブスキュリテが即答した。

 麗奈は思わず、少しだけ笑いそうになった。

 だが、すぐに口元を引き締める。

 再び、壁際には麗奈とオブスキュリテだけが残った。


 ホールには人がいる。

 負傷した魔法少女たち。

 職員。訓練生。


 だが、誰もオブスキュリテには近づいてこなかった。


 今日、彼女が竜を落としたことを、皆が知っている。

 結衣を支援したことも。

 麗奈を庇ったことも、映像記録には残っているかもしれない。

 それでも、怖いものは怖い。


 赤雷。変身を剥がす魔法。

 かつて自分たちを戦闘不能にした敵。その記憶は、簡単には消えない。


 周囲の視線は、感謝と警戒と恐怖が混ざっていた。

 麗奈は、その視線を感じながら、オブスキュリテを見る。


 さっき言おうとしていた問いは、瑠璃姫たちの登場で一度途切れてしまった。

 けれど、完全に消えたわけではない。

 むしろ、少しだけ聞きやすくなった気もした。

 あまりにも重く固まっていた空気を、あの騒がしい三人が無理やりかき混ぜてくれたから。

 そして、今度こそ口を開いた。


「あの」


「何」


 オブスキュリテは、目を閉じたまま答えた。


 声は短い。拒絶するほど強くはない。

 けれど、踏み込まれたくないという棘はある。


 麗奈は一瞬だけ迷った。

 聞いていいのか。聞くべきなのか。

 以前までなら、こんな問いは口にしなかった。


 オブスキュリテが何を考えていようと関係ない。

 彼女は敵で、監視対象で、許せない相手。

 それでよかった。


 けれど、あの背中を見てしまった。


 竜たちの前に、自分を庇うように立った背中。

 傷だらけで。限界に近くて。

 それでも赤雷をまとって、強がるように笑っていた背中。


 聞かずにはいられなかった。


「どうして、あの時、私を守ろうとしたんですか」


 オブスキュリテのまぶたが、わずかに動いた。

 ホールのざわめきが、少し遠くなる。


 救護班の声。通信端末の音。誰かが水を飲む音。

 瑠璃姫たちの去っていった方から聞こえる微かな笑い声。

 それらの中で、麗奈はオブスキュリテの返事を待った。


「そんなの――」


 オブスキュリテは言いかけた。

 そのまま、いつものように突き放すはずだった。


 利害が一致しただけ。

 あなたが死ねば結衣が面倒な顔をするから。

 あなたを守ったつもりなんてない。


 いくらでも言葉はある。

 いつものオブスキュリテなら、適当な理由を選んで終わらせていた。


 けれど。言葉は喉元で止まった。

 出てこなかった。


 なぜ。

 なぜ、自分はあの時、前へ出たのか。

 オブスキュリテは、自分でも答えが分からなかった。


 竜たちの喉にブレスの光が集まり、麗奈が恐怖で動けずにいた。

 結衣は瓦礫の中で起き上がれなかった。

 自分も限界だった。

 逃げるべきだった。


 少なくとも、自分一人だけなら回避できたかもしれない。

 赤雷で牽制して、瓦礫の陰へ転がり込むことくらいはできたかもしれない。


 なのに。体は、麗奈の前に出ていた。

 考えるより先に。損得より先に。生存判断より先に。

 オブスキュリテは、内心で舌打ちした。


 四条 瑠香の妹だから。そう考えれば、まだ納得できる。

 瑠香の妹を目の前で死なせたら、さすがに後味が悪い。

 あの人に合わせる顔がない。そんな言い訳なら、自分にも許せる。

 それは当たっている気がした。


 確かに、麗奈が四条 瑠香の妹であることは大きかった。

 あの面影。あの真面目さ。

 無力だと突きつけられても、それでも剣を握った姿。

 どこか、瑠香を思い出させる部分があった。


 けれど、それは半分だけだった。

 もう半分は、違う。

 もっと単純で。もっと嫌な理由。


 後輩だから。


 不意に、そんな言葉が胸に浮かんだ。

 オブスキュリテの奥歯が、ぎり、と鳴る。


 後輩。


 その言葉を思い浮かべた自分に、腹が立った。

 誰の後輩だ。何の後輩だ。魔法少女としての後輩か。

 なら、自分は何だ。

 先輩のつもりか。


 シティを壊そうとした自分が。

 魔法少女たちを再起不能に追い込んだ自分が。

 白瀬 結衣を傷つけ、街を混乱させ、侵略組織に属した自分が。

 今さら、先輩面をするのか。


 先輩が守るのは当然。

 そんな言葉が、胸の奥に浮かび上がってくる。


 誰の言葉だったか。

 瑠香の声だった気もする。

 候補生時代に聞いた誰かの言葉だった気もする。

 あるいは、赤羽 祈自身がかつて信じていた魔法少女像だったのかもしれない。


 オブスキュリテは、内心で毒づいた。

 いつまで魔法少女のつもりだ。

 いつまで先輩面をするつもりだ。

 赤羽 祈はもういない。


 死んだ。捨てた。

 そう決めた。


 自分はオブスキュリテだ。

 シティを壊そうとした侵略者だ。魔法少女局の囚人だ。

 この街を憎み、この街をいつか自分の手で壊すと決めた者だ。


 魔法少女ではない。先輩でもない。

 なのに。体は勝手に動いた。

 竜たちの前で震える麗奈を見た瞬間、考えるより先に前へ出ていた。

 後輩が危険に晒されていた。


 だから、前へ出た。

 ただ、それだけ。


 その瞬間、オブスキュリテは理解してしまった。

 二年前。なぜ四条 瑠香が、自分を庇ったのか。


 特別に親しかったわけではない。

 祈は、扱いやすい候補生ではなかった。

 魔力量は高い。才能もある。

 けれど、魔法は味方にも干渉する。

 連携には向かない。距離を取って戦うしかない。

 周囲からすれば、厄介で、危うくて、扱いづらい少女だった。


 それでも瑠香は、迷わず祈の前に立った。

 ライブ会場で。異形の攻撃が迫った瞬間。

 自分が致命傷を負うかもしれないと分かっていても。

 祈を庇った。


 ずっと、分からなかった。

 なぜ自分だったのか。

 なぜ、あの人が死ななければならなかったのか。

 自分なんかのために。


 厄介で。疎まれて。

 結局、全部壊してしまった自分なんかのために。


 けれど、理由はきっと難しくなかった。

 後輩だったから。守るべき相手だったから。

 それだけだったのだ。

 四条 瑠香にとっては、それだけで十分だったのだ。


 オブスキュリテは、奥歯を噛んだ。胸の奥に、鈍い痛みが広がる。

 今さら。

 今さら、そんなことを理解したところで。


 四条 瑠香はもういない。

 赤羽 祈の人生は戻らない。


 あの日、瑠香に庇われたこと。

 その後、すべてを憎んでしまったこと。

 侵略組織に手を取ったこと。

 オブスキュリテとして、この街に牙を剥いたこと。

 何も消えない。


 理解したからといって、赦されるわけではない。

 納得したからといって、やり直せるわけではない。

 むしろ、分かってしまった分だけ、余計に苦しい。


 瑠香は、自分を責めるために庇ったわけではなかった。

 祈を縛るためでもない。恩を着せるためでもない。

 街中から責められる理由を作るためでもない。


 ただ、守った。後輩だったから。

 その単純さが、あまりにも残酷だった。


「……言っても、あなたには理解できないわ」


 オブスキュリテは、ようやくそう答えた。

 声は低かった。突き放す言葉。けれど、いつものような鋭さは少し薄い。

 麗奈の眉が跳ねた。


「はぁ!? 何それ」


 反射的に声が大きくなる。


「そのままの意味よ」


「聞いたのは私なんですけど」


「答える義務はないわ」


「本当に、そういうところが……!」


 麗奈は苛立ちを露わにした。

 せっかく聞いたのに。勇気を出して聞いたのに。

 返ってきたのは、理解できない、という一言。


 腹が立つ。悔しい。

 また壁を作られた気がした。


 けれど、麗奈は気づいていた。

 オブスキュリテは、即答しなかった。


 いつものように皮肉で返さなかった。

 後味が悪いから、でも、利害が一致したから、でもなかった。

 言葉を探していた。

 それだけで、何かがあると分かってしまう。


 オブスキュリテは、壁から背を離した。

 わずかに顔をしかめる。体を動かしただけで、傷が痛んだのだろう。

 それでも彼女は、麗奈を見ずに言った。


「もう数年したら、あなたにも分かるわ」


「だから、それが何なのか今知りたいんです!」


 麗奈は食い下がる。


「数年って何ですか。どうして今じゃ駄目なんですか。私は、今聞いてるんです」


「今のあなたには分からないと言っているの」


「勝手に決めないでください!」


 麗奈の声が震えた。怒りだけではない。焦りもあった。

 自分はいつも、後から知らされる。


 姉のことも。祈のことも。結衣の痛みも。

 オブスキュリテの中に残っている何かも。


 知りたいと思った時には、もう誰かがいない。

 聞きたいと思った時には、もう答えてくれる人がいない。

 そんなのは、もう嫌だった。


「私は子供じゃありません」


「子供よ」


 オブスキュリテは即答した。

 麗奈の顔が赤くなる。


「なっ……!」


「少なくとも、私から見ればね」


「あなたに言われたくありません!」


「でしょうね」


 オブスキュリテは薄く笑った。


 立ち上がるだけで、肩の包帯が引きつる。胸の奥が軋む。

 竜に踏みつけられた肋骨のあたりが、呼吸のたびに鈍く痛んだ。

 だが、彼女は顔には出さなかった。

 痛みを認めることさえ腹立たしい、というように、平然とした表情を作る。


 そして、そのまま歩き出した。

 麗奈は慌てて声を上げる。


「どこに行くんですか」


「お手洗いよ」


 オブスキュリテは振り返らずに言った。


「別に、どこかに行ったりはしないわ」


 その言い方は、いつも通りだった。

 突き放すようで。相手を馬鹿にしているようで。

 けれど、今日はどこか力がなかった。


 麗奈は反射的に追おうとした。


 監視役なのだから。勝手に離れさせるわけにはいかない。

 いくら魔力封じの腕輪が嵌められているとはいえ、相手はオブスキュリテだ。

 一歩、足を踏み出す。しかし、そこで止まった。


 オブスキュリテの背中が見えた。

 いつもより少しだけ疲れている背中。

 それでも、弱った姿を見せまいとするように、背筋だけは伸ばしている。


 黒い拘束衣の裾は裂れ、肩の包帯にはうっすら血が滲んでいた。

 歩くたびに、左足の運びがわずかに遅れる。

 それでも彼女は、誰の手も借りずに廊下へ向かっていく。


 麗奈は、その背中を見送った。

 追えばいい。監視役としては、その方が正しい。


 だが。今は、追えなかった。

 少しだけ、一人にしてやってもいいのではないか。

 そんな考えが浮かんだ自分に、麗奈は戸惑う。

 数日前の自分なら、そんなことは思わなかった。


 逃げるつもりかもしれない。何か企んでいるかもしれない。だから目を離してはいけない。

 それだけだった。


 けれど今は、違う。

 あの人も疲れている。そう思ってしまった。

 それが、悔しかった。


 やがて、オブスキュリテの姿が廊下の奥へ消えた。

 麗奈は一人、ホールの壁際に残される。

 ホールには、まだ戦闘後のざわめきが満ちていた。


 担架が通る。職員が端末を片手に走る。

 負傷した魔法少女が、救護班に肩を借りて歩いている。

 床に座り込んだまま、紙コップの水を両手で持っている訓練生もいた。


 全員が疲れている。

 それでも、どこかに安堵もあった。

 大規模侵攻は終わった。竜たちは去った。シティは、守られた。


 そんな中で、麗奈は廊下の奥を見つめ続けていた。

 その時、背後から声がかかった。


「麗奈ちゃん」


 振り向くと、三枝 ミオが立っていた。

 ミオも戦闘帰りらしく、衣装のあちこちが汚れていた。

 袖には煤がつき、スカートの端には泥が跳ねている。

 腕には小さな包帯。頬にも薄い擦り傷があった。


 大きな負傷はないようだったが、顔にははっきりと疲労が滲んでいる。

 それでも、ミオは麗奈を見ると、少しだけほっとしたように笑った。


「お疲れ。大丈夫だった?」


 心配そうな声だった。

 麗奈は、ようやく肩の力を少し抜いた。


「うん。なんとか」


 言ってから、ミオの腕の包帯を見る。


「ミオもお疲れ。怪我、大丈夫?」


「うん。これはちょっと擦っただけ。救護班にも、あとでちゃんと見てもらえって言われたけど」


 ミオは小さく笑った。


「怖かったけど、なんとか」


 その笑みは、すぐに不安げなものへ変わる。

 ミオはちらりと、オブスキュリテが消えた廊下の方を見た。


「……今、オブスキュリテさんと話してたの?」


「うん」


「そっか」


 ミオは、それ以上すぐには言わなかった。

 言葉を探しているようだった。そして、少しだけ俯く。


「すごいよね、麗奈ちゃんは」


「え?」


 麗奈は思わず聞き返した。


「私なんて、オブスキュリテさん相手に、まだ怖くてまともに接することできないもん」


 ミオの声は小さかった。

 周囲のざわめきに紛れそうなくらい。けれど、麗奈にははっきり聞こえた。


「怖い?」


「うん」


 ミオは自分の手を見た。

 指先が、ほんの少し震えている。


「頭では分かってるんだよ。今日、オブスキュリテさんが味方として戦ってくれたこと。赤雷で竜を落としてくれたこと。結衣先輩のことも助けてくれたって」


「……うん」


「でも、体がまだ覚えてるの」


 ミオは苦笑した。

 無理に笑っている顔だった。


「赤雷を受けた時のこと。変身が解ける時の感覚。体の内側から魔力がばらばらになって、自分の体じゃなくなるみたいな感じ。あれが、まだ残ってる」


 麗奈は何も言えなかった。


 あの日のライブ襲撃。

 オブスキュリテの赫塵によって、魔法少女たちは次々と変身を解除させられた。

 戦う力を奪われ、倒れ、恐怖を植えつけられた。

 ミオも、その一人だった。


「今日、遠くから見ただけでも、ちょっと足がすくんだ」


 ミオは言う。


「味方だって分かってるのに。もう攻撃してこないって思いたいのに。赤い雷が見えると、体が勝手に怖がる」


 麗奈は、廊下の奥を見た。

 オブスキュリテが消えた方角。


 姉を死なせた事件の中心にいた少女。

 シティを壊そうとした侵略者。

 自分を挑発し、馬鹿にし、何度も苛立たせた女。

 ミオが怖がるのは当然だ。


 あの人がしたことは消えない。

 赤雷で傷つけられた人たちがいる。

 心に恐怖を刻まれた人たちがいる。

 今日協力したからといって、それが帳消しになるわけではない。


 麗奈も、そう思う。今でも思っている。


 だけど。


 竜のブレスから、自分を庇おうとした。

 傷だらけの体で、自分の前に立った。


 ――次は、どいつが落とされたいのかしら。


 その声が、まだ耳に残っている。

 その背中が、まだ目に焼きついている。

 麗奈は、少しだけ迷ってから口を開いた。


「……あいつは」


 言葉を選ぶ。

 認めたくない。簡単に認めてしまえば、姉に申し訳ない気がした。


 でも、否定もできない。

 今日見たものを、見なかったことにはできない。


「そんなに悪い奴じゃないと思う」


 言った瞬間、自分でも驚いた。

 そんな言葉が、自分の口から出るとは思わなかった。

 だから、少し間を置いて付け足す。


「……たぶん」


 ミオは目を丸くした。


「麗奈ちゃんが、そう言うんだ」


「まだ信用したわけじゃない」


 麗奈はすぐに言った。

 慌てたような声になった。


「許したわけでもないし、警戒はする。あいつがしたことは消えない。お姉ちゃんのことも、結衣先輩のことも、シティのことも」


「うん」


「それは、絶対に忘れない」


 自分に言い聞かせるように言う。


 忘れてはいけない。

 姉が死んだこと。結衣が傷ついたこと。

 たくさんの魔法少女が恐怖を刻まれたこと。

 それらを、今日助けられたからといって、なかったことにはできない。


「でも」


 麗奈は、自分の手を見た。竜王相手に震えていた手。

 四晶剣奥義を放った後、力が抜けそうになった手。

 竜たちに囲まれた時、剣を握っているのに動けなかった手。

 その前に立った、オブスキュリテの背中。


「今日、助けられたのは事実だから」


 ミオは、しばらく黙っていた。麗奈を見ている。

 責めるわけでも、否定するわけでもない。

 ただ、麗奈の言葉を受け止めるように。

 そして、小さく頷いた。


「そっか」


「うん」


「……私も、いつかちゃんと話せるかな」


 ミオはぽつりと言った。不安そうだった。

 けれど、その声には、ほんの少しだけ前へ進もうとする響きもあった。


 麗奈は、すぐには答えられなかった。

 自分だって、ちゃんと話せているのか分からない。

 ただ怒って、問い詰めて、礼を言って、また怒っているだけだ。


 それでも、今日の自分は、昨日の自分とは少し違う。


「無理しなくていいと思う」


 麗奈は言った。


「怖いなら、怖いままでいい。あいつも、それくらい分かってると思う」


「そうかな」


「たぶん。分かってても、嫌な言い方はするけど」


 ミオは少しだけ笑った。


「それは想像できる」


 麗奈も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 ホールには、まだ疲れた空気が満ちている。

 救護班の声。通信報告。負傷者の呻き。

 戦闘記録を読み上げる職員の声。

 それでも、どこかに安堵もあった。


 シティは守られた。竜たちは撤退した。

 結衣は治療中だが、生きている。

 オブスキュリテも、ここにいる。

 敵だったはずの少女が、今は魔力封じの腕輪を嵌められ、ホールの片隅で休んでいる。

 その事実が、まだひどく奇妙だった。


 麗奈は、廊下の奥をもう一度見た。

 理解できないことは多い。

 許せないことも、まだ多い。

 けれど、自分の中で何かが少しだけ変わった。


 その変化が怖くもあり、少しだけ悔しくもあった。

 変わりたくなかったわけではない。

 ただ、変わってしまうことが、姉を遠ざけるようで怖かった。

 でも、今日見たものを否定することも、姉に対して誠実ではない気がした。


 麗奈は小さく息を吐いた。


「戻ってきたら、また監視しないと」


「うん」


 ミオは頷く。


「一緒に待っててもいい?」


「いいよ」


 二人は、壁際に並んだ。しばらく、何も言わなかった。

 ただ、ホールのざわめきを聞いていた。

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