矜持
「勝てたのでしょうか……」
麗奈が、粉塵の向こうを見つめながら呟いた。
崩れた建物の壁。砕けたコンクリート。舞い上がる灰色の煙。
その奥で、グラシャラボラスは倒れていた。
竜王の巨体を人型に押し込めたような肉体が、瓦礫に半ば埋もれるように沈んでいる。
肩は壁にもたれ、片腕はだらりと落ち、頭は力なく俯いている。
動かない。少なくとも、今は。
麗奈は剣を握ったまま、息を呑んだ。
当たった。届いた。そして、結衣が叩き込んだ。
竜王を、吹き飛ばした。
そんな現実が、まだうまく飲み込めない。
結衣は肩で息をしていた。
「は……っ、は……っ」
右脚が震えている。
先ほどの連続蹴り。全身の強化魔力を脚に集中させ、限界を超えて叩き込んだ反動。
膝が焼けるように痛い。
足首の奥に、細い針を差し込まれたような疼きがある。
太腿の筋肉も悲鳴を上げている。
それでも、結衣は構えを解かなかった。
白い魔力は薄くなっている。呼吸も乱れている。唇の端には血が滲んでいる。
だが、目だけはまだグラシャラボラスを見ていた。
「勝ったんだから」
結衣は、血の混じった息を吐きながら言う。
「ちゃんと引いてほしいよね」
それは、約束の話だった。
戦って勝てば、グラシャラボラスは引く。そういう話だった。
結衣は、その言葉を信じた。
竜王の目に嘘はないと思った。戦いを楽しみ、強さを尊ぶ者なら、負けを認めるはずだと。
そう思いたかった。
その瞬間だった。
空が、陰った。
「――え?」
麗奈が顔を上げる。
結衣が反応するより早く、巨大な影が地上へ落ちてきた。
風が叩きつけられる。
翼。竜の翼だった。
空から飛来した一体の竜が、轟音とともに道路へ降り立つ。
アスファルトが砕け、瓦礫が跳ねる。着地の衝撃で、周囲の粉塵が一気に吹き払われた。
だが、その前脚が落ちた場所に。
オブスキュリテがいた。
「っ!」
鈍い音が響いた。
竜の前脚が、オブスキュリテを踏みつける。細い体が、道路へ叩きつけられた。
赤黒い術式が、反射的に展開しかける。
だが、間に合わない。
踏みつけられた衝撃で、術式は途中で砕けた。
「祈!」
結衣が叫んだ。反射だった。
名前を訂正されることも。オブスキュリテと呼ばなければいけないことも。
その瞬間だけ、全部飛んだ。
目の前で、祈が潰された。そう見えた。
結衣は動こうとする。
だが、その声に反応するように、別の影が横から走った。
別の竜。
地上へ降りた直後、その尾を横薙ぎに振るった。太い尾が、瓦礫を撒き散らしながら迫る。
結衣は避けようとした。
だが、体が遅い。
限界まで消耗した脚。直前まで張り詰めていた集中。オブスキュリテが踏みつけられた衝撃。
ほんの一瞬。
反応が遅れた。
「がっ!」
尾が、結衣の腹を打った。
防御魔法を張る暇もない。腕を挟むこともできない。
重い衝撃が、腹の奥へめり込んだ。
肺から空気が押し出される。視界が白く弾ける。
結衣の体が宙を舞った。
「結衣先輩!」
麗奈が叫ぶ。
結衣は瓦礫の山へ叩き込まれた。
砕けたコンクリート片が跳ねる。鉄骨が軋む。白い衣装が灰と血で汚れる。
すぐには起き上がらない。
瓦礫の中で、結衣は苦しげに息を吐くだけだった。
「っ、は……っ……!」
動こうとしている。立ち上がろうとしている。
だが、体が言うことを聞かない。
その間にも、オブスキュリテは竜の前脚に踏みつけられていた。
肺が潰れそうだった。息が入らない。
胸を圧迫され、肋骨が嫌な音を立てている。
背中の骨が道路に押しつけられ、肩の傷口が裂ける。
視界の端に火花が散った。
意識が遠のきかける。
だが。
飛ばしてたまるか。
こんなところで。こんな竜の足の下で。
何もできないまま、潰されてたまるか。
「……どきなさい」
かすれた声だった。竜には届いていないかもしれない。
それでも、オブスキュリテは言った。
「どきなさいと言っているの」
指先に、赤い雷が灯る。
赫塵。
細く、弱く、それでも確かに赤い雷。
オブスキュリテは、自分を踏みつけている竜の脚へ、それを流し込んだ。
赤雷が鱗の隙間を走る。
皮膚の下へ潜り込み、魔力の流れを痺れさせる。竜の脚に巡っていた強化の魔力が乱れる。
竜が、わずかに呻いた。前脚から力が抜ける。
ほんの一瞬。
その一瞬を、オブスキュリテは逃さなかった。
体をねじる。
圧迫された胸が悲鳴を上げる。肋骨がさらに軋む。肩口に痛みが走る。
それでも、転がるように前脚の下から抜け出した。
道路を滑り、瓦礫に肩をぶつける。
「っ……!」
息が入る。入った瞬間、肺が焼けるように痛んだ。
それでも、オブスキュリテはすぐに起き上がった。
膝が笑う。視界が揺れる。口の端から血が流れる。
だが、立つ。
目の前の竜へ手をかざす。
「赫塵――」
赤雷が、竜の胸元へ走った。
竜の魔力を乱す。動きを止める。
せめて結衣が起き上がるまでの時間を稼ぐ。
だが。
横から、別の竜の尾が振るわれた。
死角。
いや、見えていた。見えていたが、体が追いつかなかった。
オブスキュリテの体が、横から弾かれた。
「ぐっ……!」
軽い体が地面を転がる。
肩がアスファルトに擦れ、拘束衣が裂けた。
肘から血が滲む。背中を瓦礫が抉る。
息が詰まる。
それでも、倒れたままではいなかった。
片手を地面につく。膝を立てる。無理やり体を起こす。
その間にも、空から竜が降りてくる。
一体。
二体。
三体。
翼が空を切り裂く音。
重い着地音。砕ける道路。舞い上がる粉塵。
空を覆っていた竜たちが、地上へ舞い降りる。
そして、三人を囲んだ。
グラシャラボラス一体でさえ、限界だった。
結衣と、オブスキュリテと、麗奈。
三人がそれぞれの役割を必死に果たして。
ようやく一瞬の隙を作って。
ようやく叩き込んで。
ようやく倒れさせた。
その直後に。今度は、複数の竜。
麗奈は剣を握ったまま、動けなかった。
喉が乾く。指が冷える。心臓の音が、うるさい。
勝てるはずがない。
そう思った。思ってしまった。
逃げ道もない。結衣は瓦礫の中で動けない。オブスキュリテも傷だらけ。
自分の四晶も、先ほどの奥義で大きく消耗している。
魔力の残量は少ない。腕も痛む。
剣を構えているだけで、肩が震える。
自分は、何もできない。
その言葉が、胸の中に落ちた瞬間。
膝が震えた。
先ほどまで、無力でも無駄ではないと思えた。
竜王に一撃を届かせた。結衣の攻撃へ繋げた。
なのに。
目の前に竜が何体も降りてきただけで、その小さな自信が砕けそうになる。
竜の一体が、麗奈へ視線を向けた。金属を擦るような低い唸り。
喉奥に、魔力が灯る。
ブレス。
麗奈の体が固まった。
避けなければ。動かなければ。剣を構えなければ。
分かっている。
分かっているのに、足が動かない。
竜の喉の光が強くなる。
麗奈は息を呑んだ。
その前に、黒い影が立った。
オブスキュリテだった。ふらつきながらも、麗奈を庇うように前へ出る。
背中は傷だらけだった。拘束衣は裂け、肩から血が流れている。
頬にも、額にも、擦り傷がある。呼吸も浅い。
立っているだけで限界に見える。
それでも。
オブスキュリテは、麗奈の前に立った。
全身に、赤い雷を帯電させて。
「……次は」
血の混じった息を吐きながら、彼女は笑った。
口元だけの笑み。余裕などない。
麗奈にも分かった。
今のオブスキュリテに、竜たちを相手取る余力などほとんどない。
赫塵も弱っている。
防御術式を連発し、竜王との戦いで魔力を削られ、踏みつけられ、尾で弾かれた。
それでも、彼女は笑う。
竜たちに向かって。自分の恐怖を隠すように。
相手の警戒を一秒でも引き出すために。
「どいつが落とされたいのかしら」
強がりだった。明らかな強がり。
だが、竜たちは一瞬だけ動きを止めた。
赫塵の赤雷。
竜にとっても厄介な魔力干渉。
先ほど、実際に脚を痺れさせられた個体もいる。
だから、完全には侮れない。
オブスキュリテは、その一瞬を買った。
麗奈は、彼女の背中を見ていた。
黒い背中。傷だらけの背中。細くて、頼りないはずの背中。
なのに、今は自分と竜の間に立っている。
麗奈の喉が震えた。
なぜ。そう思った。
この人は、魔法少女局の敵だった。シティを壊そうとした人だった。姉の死に関わった人だった。
憎むべき相手のはずだった。
それなのに。
今、彼女は自分を庇っている。
瑠香の妹である自分の前に立っている。
竜たちが低く唸った。喉の奥で、魔力が膨れ上がる。
一体だけではない。二体。三体。
周囲の竜たちが、一斉にブレスの予備動作へ入った。
空気が熱を帯びる。
魔力が圧縮される音がする。地面の小石が震える。肌がぴりぴりと痛む。
麗奈の喉から、小さな悲鳴が漏れた。
逃げられない。防げない。
結衣はまだ瓦礫の中だ。立ち上がろうとしているが、間に合わない。
自分の四晶では、あの数のブレスを止められない。
オブスキュリテも、本当は止められないはずだ。
それでも、オブスキュリテはさらに一歩前へ出た。
麗奈の壁になるように。
その背中は、傷だらけだった。赤雷が、かすかに揺れている。消えかけの火のように。
けれど、まだ消えていない。
「下がっていなさい」
オブスキュリテが言った。
振り返らないまま。
「……でも」
「邪魔よ」
冷たい言葉だった。いつものように、突き放す言い方だった。
だが、その立ち位置がすべてを裏切っていた。
邪魔だと言いながら、彼女は麗奈の前にいる。
守るつもりがないなら、そこに立つ必要はない。
麗奈は何も言えなかった。
ただ、剣を握る手に力を込める。
怖い。
怖い。
怖い。
それでも。この背中だけに、全部を背負わせてはいけない。
そう思った。
けれど、体はまだ動かない。
竜たちの喉が、さらに強く光る。
ブレスが来る。
オブスキュリテは、両手を広げた。赤い雷を、正面へ集める。
防げる保証などない。耐えられる余力もない。
それでも、彼女は立っていた。
結衣が瓦礫の中で、血を吐きながら起き上がろうとしている。
麗奈は震える膝を叱りつける。
竜たちは、口を開いた。
赤雷が、最後の抵抗のように瞬いた。
ブレスが放たれようとした、その瞬間。
「何をしている」
冷たい声が、戦場に落ちた。大きな声ではなかった。
怒鳴ったわけでもない。吠えたわけでもない。
ただ、静かに言っただけ。
それなのに、空気が凍った。
竜たちの喉奥に溜まっていた魔力が、ぴたりと止まる。
膨れ上がっていた熱が揺らぎ、圧縮されていたブレスの光が薄れる。
オブスキュリテも、麗奈も、声の方を見た。
粉塵の奥。砕けた瓦礫の中。崩れた建物の壁を背に、ひとつの影が動いていた。
グラシャラボラスだった。
竜王は、ゆっくりと立ち上がる。
瓦礫が肩から落ちる。砕けた石片が足元に転がる。
破れた外皮の隙間から、黒に近い血が滲んでいた。
口元から血が流れている。
頬にも傷がある。
背には、麗奈の四象連天斬が刻んだ裂傷。
胴や脇腹には、結衣の連続蹴りによる打撃の痕。
竜王の肉体は、確かに傷ついていた。
だが。
その眼は、死んでいなかった。
金色の瞳は、なお鋭い。
呼吸に乱れはある。それでも、膝は折れていない。
むしろ、まだまだ余力があるようにすら見えた。
オブスキュリテの顔が、さらに歪む。
こちらは、もう限界に近い。
結衣は瓦礫の中で動けない。麗奈は恐怖で足を縛られている。自分も、立っているだけで胸が軋む。
それなのに。相手はまだ立っている。
まだ、戦える。
あれだけ叩き込んで。あれだけ削って。ようやく倒れたと思ったのに。
まだ。
グラシャラボラスは、ゆっくりと視線を巡らせた。
オブスキュリテ。麗奈。瓦礫の中の結衣。
そして、自分の配下である竜たち。
その目が、配下の竜へ向いた瞬間。竜たちの巨体が、わずかに震えた。
「陛下」
一体の竜が、恭しく頭を下げる。
「お目覚めですか。この者たちにとどめを――」
「言われるまでもない」
グラシャラボラスは低く言った。
配下の竜が、安堵したように口を閉じる。
しかし、竜王はそこで言葉を切った。
「と、言いたいところだが」
金色の眼が、細くなる。その視線が、配下の竜たちを射抜いた。
「なぜ邪魔をした」
その一言に、竜たちが一斉に身を強張らせた。
翼がわずかに縮む。爪がアスファルトを掴む。地面に、細い亀裂が走った。
怒声ではない。
だが、その静けさがかえって恐ろしい。
グラシャラボラスの声には、冷えた鋼のような重みがあった。
「我が、死んだとでも思ったのか」
「それは……」
「答えよ」
短い命令。それだけで、配下の竜は喉を詰まらせた。
麗奈は、その光景を息を殺して見ていた。
あれほど恐ろしかった竜たちが、グラシャラボラスの前では明らかに怯えている。
数で囲み、こちらを押し潰そうとしていた竜たちが。
ブレスを吐こうとしていた竜たちが。
王の一言で、動けなくなっている。
「陛下が倒れられたため、我らは――」
「帰るぞ」
グラシャラボラスは、配下の言葉を遮った。何の迷いもない声だった。
竜たちが、一瞬理解できないというように固まる。
グラシャラボラスは、瓦礫の方を見た。結衣が倒れている場所。
白い衣装は血と灰に汚れ、体はまだ思うように動いていない。
それでも、結衣は片手を瓦礫につき、立ち上がろうとしていた。
グラシャラボラスは、その姿を見た。
そして、低く言った。
「我は負けたのだ」
その言葉に、戦場の音が一瞬遠のいた。
麗奈が目を見開く。オブスキュリテも、思わずグラシャラボラスを睨む目を細めた。
竜たちだけではない。
その場にいる誰もが、すぐにはその言葉を飲み込めなかった。
負けた。竜王が。人間の少女に。
そう、自ら認めた。
「お待ちください」
別の竜が声を上げた。その声には、焦りが混じっている。
「このまま帰れば、人間相手に負けたと捉えられかねません」
「それがどうした」
グラシャラボラスは即座に返した。
配下の竜が言葉を詰まらせる。
「我が後れを取ったのは事実だ」
竜王は、淡々と言った。
「人間の少女に正面から打ち込まれ、別の少女の斬撃で姿勢を崩され、さらに追撃を受けた。我は一瞬、意識を手放した」
金色の瞳が、倒れた結衣を見据える。
「その隙を見逃されていた。もしあの場で首を刎ねる手段があれば、我は死んでいたかもしれん」
麗奈の手が、剣の柄を握りしめる。
そんなはずはない、と思いたかった。
竜王はまだ立っている。死ぬようには見えない。圧倒的な力はまだ残っている。
けれど、グラシャラボラス自身は認めていた。
あの一瞬。
自分は敗北していたのだと。
「これを敗北と言わず、何と言う」
「しかし、それは陛下が魔力を使えなかったからであって――」
「それがどうした」
グラシャラボラスの声が、ほんの少しだけ低くなった。
竜たちが一斉に口を噤む。
「我はその条件で戦っていたのだ」
静かな言葉。
だが、そこには絶対の重みがあった。
「赤い雷に魔力を乱され、術式を封じられ、人型の肉体で戦う。その条件を承知で、我はこの場に立った。ならば、その条件で後れを取った事実を否定することは、我自身の戦いを否定することに等しい」
配下の竜は何も言えなかった。
グラシャラボラスは続ける。
「勝てなかった理由を並べるな」
その声は、配下だけに向けられていた。
「魔力を封じられたから。横槍があったから。相手が複数だったから。地の利がなかったから。いくらでも言える」
金色の瞳が、冷たく光る。
「だが、戦場で条件を選べると思うな」
竜たちが、深く頭を垂れる。
麗奈は、言葉を失っていた。
恐ろしい。やはり恐ろしい存在だ。
だが、それだけではなかった。
グラシャラボラスは、負け惜しみを言わない。
自分の敗北を、配下に覆させようとしない。
それどころか、配下が横からとどめを刺そうとしたことに怒っている。
王。
その言葉が、麗奈の中に浮かんだ。
ただ強いだけではない。配下に恐れられるだけではない。
己の戦いに、自分で筋を通す者。
だからこそ、竜たちは従っているのだ。
「言わせたい者には言わせておけばいい」
グラシャラボラスは、崩れた街並みを見渡した。
遠くでは、まだ魔法少女たちが戦っている。
空には竜影。地上には防衛班。
避難誘導は続き、防衛砲台は煙を上げながらも稼働している。
竜たちの侵攻は、完全には止まっていない。
だが、突破もできていない。
この星の守りは、まだ折れていない。
赤雷の広域支援が止まりながらも。
竜王が降り立ちながらも。
各地の魔法少女たちは持ち場を守っている。
グラシャラボラスは、それを見た。戦場全体を見た。
そして、低く言う。
「この星も、もはや楽に侵攻できる星ではなさそうだ」
その言葉には、苛立ちよりも評価があった。
「我を足止めし、兵の進軍を押しとどめ、避難も進めている。脆いと思っていたが、存外しぶとい」
グラシャラボラスは配下へ向き直る。
「兵を無駄に削る価値はない」
竜たちが静まり返る。
「このまま攻めれば、いくらかの区画は落とせるだろう。人間も殺せる。魔法少女も削れる」
だが、と竜王は続けた。
「その代償に、こちらも損耗する。王である我が敗北を認めた以上、この戦いは勝ちではない。無理に押し切る価値はない」
そして、彼は命じた。
「帰るぞ。全軍、撤退させよ」
竜たちは、一瞬ためらった。空気が重くなる。
勝てるのではないか。このまま押せるのではないか。
目の前の人間たちは、もう限界ではないか。
そんな思考が、竜たちの間を漂った。
だが、誰も口にしなかった。竜王の命に逆らう者はいない。
一体の竜が、深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
その言葉を合図に、上空で魔力が渦巻いた。空間が裂ける。
黒紫の光が、雲を押し広げるように広がっていく。
ゲート。竜たちの帰還路。上空に開いた穴が、再び大きくなる。
周囲の竜たちが、次々に翼を広げた。
巨大な翼が風を起こし、粉塵を巻き上げる。
アスファルトの破片が転がり、麗奈の髪が大きく揺れる。
竜たちは、なお結衣たちを見ていた。
怒り。
不満。
屈辱。
その視線は鋭い。
だが、誰も攻撃しない。王が帰ると言ったからだ。
だが、グラシャラボラスはその前に、オブスキュリテへ視線を向けた。
「人の子よ」
オブスキュリテは、麗奈を庇うように立ったまま睨み返す。
「何よ」
「我と拳を交えた戦士の名を知りたい」
オブスキュリテは、瓦礫の中の結衣を見た。
結衣は動けない。だが、息はある。
血まみれで、意識も朦朧としているだろう。
それでも、彼女は戦った。
竜王と正面から。拳を交えた。
オブスキュリテは、少しだけ目を伏せる。
そして、答えた。
「……白瀬 結衣よ」
「シラセ、ユイ」
グラシャラボラスは、その名を口の中で転がすように繰り返した。
「覚えておこう」
その眼に、獰猛な笑みが浮かぶ。
「その魔力核は、いずれ我が宝物に加えたいものだな」
オブスキュリテの赤雷が、鋭く弾けた。
「ふざけたことを」
「ふざけてなどいない」
グラシャラボラスは笑う。
「それほどの戦士であったということだ」
彼は踵を返す。巨大なゲートが開く。
竜たちは次々にその中へ戻っていく。
翼が空を打つ音。低い咆哮。魔力の渦。
そのすべてが、少しずつ遠ざかっていく。
最後に、グラシャラボラスが振り返った。
「シラセユイに伝えよ」
竜王は言う。
「次に会う時まで、その牙を鈍らせるな、と」
そして、彼もまたゲートの中へ消えていった。黒い裂け目が、ゆっくりと閉じる。
空を覆っていた竜の気配が薄れていく。戦場に、風だけが残った。
麗奈はその場に膝をついた。
助かった。終わった。
いや、終わらされた。
自分たちは勝ったのか。見逃されたのか。
その判断すらつかない。
オブスキュリテは、しばらく空を睨んでいた。
それから、足を引きずりながら結衣のもとへ向かう。
「結衣」
その声は小さかった。麗奈は、聞き間違いかと思った。
オブスキュリテは瓦礫の前に膝をつき、結衣の呼吸を確認する。結衣はかすかに息をしていた。
それを確認して、オブスキュリテの肩からほんの少しだけ力が抜ける。
「……本当に、馬鹿なんだから」
そう呟く声は、いつもの冷たさよりも、少しだけ震えていた。




